奠北京於北海道上川議について

岩村通俊男爵肖像(岩村通俊傳より)
岩村通俊男爵肖像(岩村通俊傳より)

奠北京於北海道上川議について

前掲載の「奠北京於北海道上川議(岩村通俊)」は「上川離宮物語り-お休み所の再現-」の1頁より4頁に8枚の白黒コピーが印刷されている。
この冊子には「奠北京於北海道上川議」の後に「巻頭にかかげた『奠北京於北海道上川議』は、明治十五年十一月会計検査院長岩村通俊が、太政大臣三条實美に提出された建議書であり、これは岩村家から○○(個人名)に贈られたもので遺族○○(個人名)さんからその複写したものが上川神社に奉納されたものです。」と記入されている。
コピーのこの「奠北京於北海道上川議」は會計検査院と印刷された用紙に書かれている。


また、『新旭川市史・第六巻史料一』の165頁より169頁にも、この「奠北京於北海道上川議」の文章が掲載されている。

この「奠北京於北海道上川議」の「奠・てん」とは「さだめる。位置を決める。」ということ。
さらに「京」は「皇居のある場所」、「天皇の居住する場所」を指している。
「京」は御所のある京都であり、「東京」は大政奉還の後江戸城に天皇が遷ったため東の京である。
即ち「奠北京於北海道上川議」とは「北海道上川に北の天皇の居住する場所(京)をさだめる建議」を意味している。

岩村通俊(いわむらみちとし)は、この「奠北京於北海道上川議」にて、特に
「曽て聞く、札幌を距る東四十里に沃野あり、上川と云ふ。山河襟帯(さんがきんたい)し重鎮の地なりと。ここにおいて竊(ひそか)に以謂(おもえ)らく、嗚呼(ああ)是れ有りかな。以て開拓の大業を興すに足れりと。」
「その策、如何(いかん)。曰(いわ)く北京(ほっきょう)を上川に置き大擧民を移し土を闢き農を勧め、以て一大都府を開くに在り。夫れ上川の地たるや北海道の中心に位し石狩川の上流を占め、土地肥沃、森樹叢生、河川以て舟楫を通すべく平原以て鉄路を設く可し。苟も今日一大根軸を開き以て永遠不朽の鴻基を建んと欲せば之を北海全道の廣きに擇も断じて此れ右に出る者なきを知る。是れ通俊の敢て此の議を獻する所以なり。」
「特に殖民事務局を上川に置き、其の総裁は皇族之に任し、副総裁は勅任以て之に充つ。苟も此に従事する者は総裁以下擧て皆任所に駐在し躬以て率先衆を励まし誓て大成を期するに在り。其れ既に如此なれば宜しく又警虞の備なかる可からず。故に鎮臺を札幌に置き分営及び警察署を上川に設ね、併て以て北海全道を鎮壓す可し。」とあり、さらに添え書は「副する經費概計、殖民事務局組織概要、及び札幌地方畧圖、上川地勢畧記を以てす。」と述べている。

この時、岩村通俊は実際には上川に行っていない。
この立派な「奠北京於北海道上川議」を諸資料を副えて建議出来たのは、配下の「高畑利宜」の力による所が大きい。
高畑利宜は明治5年、札幌開拓使本庁詰開墾掛であったが、岩村通俊判官の命によって石狩川を遡り上川に入り実地踏査し、その実状を詳しく岩村通俊に伝えている。
さらに明治十五年、当時会計検査院長となっていた岩村通俊が、この建議書を提出するにあたり、再び上京しその添付資料の多くを作成している。

※参考「北海道のいしずえ四人 黒田・ケプロン・岩村・永山」
    昭和42年10月14日 北海道開拓功労者顕彰像建立期成会 発行

従来、岩村通俊の「奠北京於北海道上川議」は明治15年、明治18年と二通、太政大臣三条實美に提出されているため誤って伝えられてきた感がある。
明治15年の建議書が本来の「奠北京於北海道上川議」であり、明治18年のは再議である。

 

平成5年(1993)3月31日発行の「新旭川史第六巻史料一」では、岩村通俊の明治15年の建議書を「奠北京於北海道上川議」とし、明治18年のものは仮称として「奠北京於北海道上川再議」となっている。