四世 素環目道大和尚


四世 素環目道大和尚

(世称 小島・柵木 目道)

 

明治六年一月十三日 愛知県三河國宝飯郡国府町大字小田淵七十八番に生まれる。

 

明治十九年四月八日 三河國宝飯郡八幡村西明寺住職、太嶽苗に就いて得度。


明治二十五年夏 三河國渥美郡豊橋市祥雲寺住職永元鉄翁初會にて立職。


明治二十五年九月九日 三河國宝飯郡八幡村国分寺住職岩井義賢の室に入り嗣法。


明治三十二年十一月十五日 三河國碧海郡安城町永安寺に首先住職。


明治三十五年夏 同寺に於いて初会結制修行。


明治三十七年十二月十五日 同寺住職、辞職。

 

明治三十八年五月仲旬之日 河本萬吉氏へ「因果経和讃」を書写し渡す。 (下「因果経和讃」参照)

 

明治三十九年十一月二十九日 上川郡愛別村へ説教所設立並びに管理者に任ぜらる。


明治四十四年五月十九日 東川寺住職を拝命す。

 

 

大正元年十月十七日 柵木(ませき)ナカと結婚し、小島目道を柵木目道と改姓する。


(参考)

(小島目道師の長女「きぬ」さんが東川寺に来て下記の事をお話されたことがあります。)  (記、七世直樹)

 

父・小島目道が改姓したのは、母・柵木ナカと結婚したことによります。

長男・清の柵木の姓を変えたくなかったせいでしょうか? 

母・ナカは士別・玉運寺の柵木瑞応と結婚し、一子「清」(長男)が誕生しました。

しかし、明治三十六年五月十日、柵木瑞応は三十二歳で遷化し、その後、母・ナカは長男(当時十二歳)をつれ、父・小島目道と再婚し、大正二年二月十九日、長女「きぬ」が生れました。

しかし不幸なことに又、父・目道が急逝した為、母・ナカは「清」と「きぬ」を連れて京都の寺に入り、「髪結い」などをして生活していたが、長男「清」(結核にて二十七歳で死亡)に先立たれてしまいます。

母・ナカは幸せ薄い薄幸な人生だったかも知れません。・・・・・・・


 

大正三年四月十六日 世壽四十二歳にて遷化す。

 

大正三年四月十九日 荼毘式。

               大導師 旭川 大休寺 神田寛量

                 副師 士別 玉運寺 坂野保宗

                 副師 剣淵 神龍寺 松原儀孝

                (随喜寺院 維那 中富良野 風間大樹 外)

 


因果経和讃 (目道書写)

明治三十八年五月仲旬之日

「因果経和讃」 釋氏目道謹寫

應 河本萬吉氏之依頼 榮友敬書

 

因果経和讃 (参考・他の因果経和讃の経本より)

南無や本師の釋迦如来 五濁悪世に出現し 説法波羅那にし玉へり 其の時御弟子の阿難尊

善悪苦楽の其の故を 未来末世の我等まで 一一知しめたまはんと 問ひつこたえつ因果経

今此の経を和讃とす 後世の菩提を願ふ人 老若男女もろともに 唱へて我が身に引きくらべ

因果の道理わきまえて 佛道修行を致すべし 現在諸人の有りさまは 皆これ過去の報いなり

六根器量のよき人は 忍辱柔和の果報なり 生まれて醜くきそのものは 腹を立てたる其のむくひ

貧乏無福に生まるヽは 慳貪邪見の其のしるし 啞聾となるものは 佛法謗つた過とかや

命も短く子もなきは 殺生したる報ひなり 子供男女の栄へるは 物の命を救ふゆへ

長命無病のその人は 慈悲心深き恵なり 福徳円満なる家は 三寶供養の善根よ

利発発明すぐるヽは 念佛誦経の功徳なり 愚頓で無智なる其の者は 畜生変化の者ぞかし

下劣で人に使はるは 債をきたる報ひなり 業病悪病わづらふは 破戒で三寶謗る咎

口中臭き劣なきは 悪口両舌人ごとよ 眼病色々やむ人は 佛に燈明おしむ故

下賤で人に愧かくは 驕慢懈怠の心より 高位高官備はるは 禮拝恭敬の其の功徳

五逆十悪造りなば 無間三十六地獄 此の経聴いてあらためば 即ち菩薩よ佛なり

此れは過去にて現在に 種れば未来の種となる 蓮を植れば蓮の華 看よ極楽に九品まで

因果の道理明らかに 佛に嘘はなきものぞ 只だ一向に疑がはず 南無阿彌陀信ずべし

 

因果経和讃 釋氏目道謹寫
因果経和讃 釋氏目道謹寫
因果経和讃-1
因果経和讃-1
因果経和讃-2
因果経和讃-2
因果経和讃-3
因果経和讃-3
因果経和讃-4
因果経和讃-4
因果経和讃-5
因果経和讃-5
因果経和讃-6
因果経和讃-6
因果経和讃-7
因果経和讃-7
因果経和讃-8
因果経和讃-8
因果経和讃-9
因果経和讃-9
因果経和讃 河本萬吉氏へ
因果経和讃 河本萬吉氏へ