明治時代


明治三十二年

 東京高幢寺住職牧玄道師が曹洞宗寺院を開設したいという願いのある東川村に来村し開教したことから始まる。

 

 東川寺前身の鳳林山高幢寺は江戸寛延元年の開創で武蔵国(東京府)荏原郡(えばらぐん)下目黒にあって、本寺は京都宇治田原の禪定寺にて開山に月舟宗胡禅師を拝請し、二世中興徳翁良高師は開創三世重開山高峰源尊師の本師なり。

 以来十五世達宗(牧)玄道師まで至る。

 

  高幢寺歴代住職

 

  開山         月舟宗胡大和尚 (元禄九年正月十日、遷化)(注1)
  二世 中興      徳翁良高大和尚 (宝永六年二月七日、遷化)(注2)
  三世 重開山     高峰源尊大和尚 (寛延三年七月十九日、遷化)
  四世       大之雷周大和尚 (宝暦六年二月二十五日、遷化)
  五世       大亮先勇大和尚 (天明二年十月十日、遷化)
  六世       透海龍鱗大和尚 (天明五年七月十日、遷化)
  七世       元寶万岳大和尚 (天明四年十月十五日、遷化)
  八世       辨龍本瑞大和尚 (天保四年七月二十四日、遷化)
  九世       徳潤一酬大和尚 (文政五年八月十三日、遷化)
  十世       大因實乘大和尚 (不明)
  十一世           泰容岷嶺大和尚 (不明)
  十二世        祖眼提宗大和尚 (嘉永元年七月十八日、遷化)
  十三世        渓岳良雄大和尚 (不明)
  十四世      實参良悟大和尚 (不明)
  十五世      達宗玄道大和尚 (大正二年二月二十八日、遷化)

 

 しかし明治の変動により島津家の庇護を離れ廃寺同然となるに及び、高幢寺の歴住の位牌、金比羅大權現等の木像、島津藩主重豪書の大額、太鼓絵馬その他の什物と共に牧玄道師、来村し止住す。時、明治三十二年なり。

 

(下の書類では東京の凰林山高幢寺を移転することになっていますが、結局は天真山東川寺と山号寺号を変えて再出発することになります。)

 

 牧玄道師は直ちに東川村忠別原野の西六号南一番地に仮布教所を設ける。

 


 東川村西六号北二番地(現住所)の畑地五町歩を購入し、此処に牧玄道師自身の私金を投じ、間口五間、奥行八間の堂宇を建立し、入佛慶讃法要を勤修する。




 

明治三十三年

北海道石狩國 上川郡明細図

(上川図書館発行・明治三十三年)

 

 上川郡明細図・明治33年発行-1
 上川郡明細図・明治33年発行-1
 上川郡明細図・明治33年発行-2
 上川郡明細図・明治33年発行-2
 東川村曹洞宗説教所(東川寺)予定地
 東川村曹洞宗説教所(東川寺)予定地

明治三十四年四月十八日
 曹洞宗説教所の認可を得る。


 牧玄道師は明治九年教部省権少講義を拝命し、明治六年より明治十八年まで大本山永平寺東京出張所勤務、明治十八年より明治二十三年まで曹洞宗務局(現在の曹洞宗宗務庁)へ勤務する。

 その間環渓禅師の信任篤く、禅師より賞品賞詞を賜うること五、六返たり。(また、禅師とは宇治興聖寺関係の法縁なり。) 

 その由、永年の恩恵に酬んが為、環渓禅師を東川寺開山に拝請する。


明治四十二年十二月二十二日

 天真山東川寺と寺号公称の件、認可される。


明治四十三年二月吉日

 庚申・秋葉山大権現の石碑を建立する。

「庚申」

「庚申」は、干支(えと)の組み合わせの一つで、「かのえさる」「コウシン」と読む。
庚申信仰は、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜眠らないで天帝を祀って夜通し宴会などをする風習である。
五穀豊穣、無病息災、悪疫退散を願って「庚申」が祀られることが多い。
東川寺の「庚申」もその下に「村中安全」と刻まれている。

 

「秋葉山大権現」

秋葉山大権現(あきばさんだいごんげん)は「火防(ひぶせ)の神」として信仰され、飛行自在の神通力により、白狐、白いキツネに乗っている姿で表され、三尺坊大権現とも呼ばれ火を防ぐ「火防」に霊験があると考えられていた。

 

  (参考) 秋葉山神社・三尺坊
  (参考) 秋葉山神社・三尺坊


東川寺境内には上記の秋葉山大権現があり、寺の中には「半僧坊」が祀るられている。


 半僧坊 東川寺
 半僧坊 東川寺

明治四十三年三月四日

 牧玄道師、東川寺住職に任ぜられる。

(玄道師の本師、鳳洲喚山師を当山二世に勧請し、三世開創達宗玄道大和尚と世代を定める。)

明治四十四年二月十三日

 寺格、法地に認可される。


明治四十四年五月十九日

 小島目道師、当山四世住職に任ぜられる。

 小島目道師は愛知県三河郡国碧海郡永安寺に住持していたが布教来道し、愛別村に曹洞宗説教所の認可を受け設立した。

 当山開創の牧玄道師は止む事を得ざる要件に付き、明治三十六年東京市に錫を移し、高幢寺跡に閑居してしまったので、その間小島目道師は東川寺の監寺として当寺の基盤を固めていた。


明治四十四年七月二十日

 移住記念碑を建立する。

(明治二十九年、愛知県東春日井郡より移住) 

碑文(裏)

「明治二十八年中日比野堅次郎君ハ本道開拓ヲセシ率先渡道些細踏査シ再ビ鄕ニ懇切ナル指導ニ依リ吾等一同翌二十九年弥生決然墳墓ノ地ヲ去リ忠別原野ニ移住シ遂ニ今日アルヲ致シムルハ是偏ニ君カ先見ノ賜ニ外ナラス因テ茲ニ其微意ヲ表シ併セテ之ヲ長ヘニ傳ヘン為ノ記念ノ碑ヲ建ツト爾云」

 

記念碑刻名(表下)

加藤兼次郞、加藤勝次郞、冨田亀次郞、川本銀次郞、川本熊次郞、田中鋤助、堀部常太郎、林金太郎、川本繁重、森下文次郞、苅部正久郎。



(注1)

月舟宗胡(げっしゅうそうこ)

(1618~1696)

 【詳しくは月舟宗胡を参照のこと。】

 

加賀大乗寺の二十六世。
肥前国武雄、原田氏の子。
元和4年(1618)4月5日に生まれる。
12歳、円応寺華岳和尚のもとに投じて出家得度し、四年間修学した。
寛永10年(1633)、16歳のとき、遊方して関東に至り、常陸国多宝院に多年留まった。
ある朝、厠にあって微風の扉に触れて声をなすを聞き、廓然として悟るところがあったという。
久しくして丹波国瑞巖寺に至って、万安英種に謁して所解を述べて、万安より懇ろに訓誨せられた。
又、31歳、一日衆寮にあって沙弥の「證道歌」を誦するを聞いて宗旨を了す。
これより罷参して鄕に帰り、受業の師に謁見するに、隱元隆埼・道者超元の東明、崇福に住するを聞いて、是に参ず。
辞して加賀大乗寺の白峰玄滴和尚に参じて密かに衣法、並びに曩祖戒本を受ける。
出でて、摂津国の宅原寺に住し、移って三河の長円寺に居す。
寛文11年(1671)、大乗寺に住し、延宝2年(1674)結制をおく。
また、興禅、禅徳の両院を創建して、その第一世となる。
特に永平の古規を復興する。
延宝8年(1680)の秋、大乗寺を辞して京都の田原邸に退隠したが、此の地あった補陀洛山禅定寺と号する古刹を興復して隠棲の処とし、元禄9年(1696)正月10日遷化す。世壽79歳。法臘67歳。


著書に「月舟和尚遺録」「月舟和尚夜話」「椙樹林指南記」がある。

 

(参考-曹洞宗人名辞典・禅学大辞典)

 

  禅定開山・月舟和尚遺録
  禅定開山・月舟和尚遺録

(注2)

徳翁良高(とくおうりょうこう)
(1649~1709)

備中西来寺中興、越前慈雲寺開山。
字は道山、号は徳翁、俗姓は藤原氏、宇都宮氏の一族で、母は大曽根氏の出である。
慶安2年(1649)江戸に生れる。
13歳の時、吉祥寺の離北良重について童子となり、15歳で薙髪し、諸方に遊して寛文9年(1669)冬、遠江の初山で独湛に謁し、翌年黄檗山の木庵によって大戒を受けた。
さらに摂津興禅寺の月舟宗胡に参見し、また泉南蔭涼寺の鉄心道印ついた。
後、郷里に帰り、25歳の時、館林で潮音のもとに入室して印可を受けた。
次いで瑞聖寺にいって再び木庵に会い、翌年秋に月舟が加北に教化を布くと聞いて礼謁し、三年服勧したのち、館林でまた潮音についた。
延宝8年(1680)美濃智勝寺南鍼の結制に首座となった。
天和2年(1682)下総正泉寺に住し、翌年禅定寺で月舟に教えを受け、衣法並びに永平戒本を付与されて總持寺に昇り、また正泉寺に戻った。
出羽の刺史水谷氏は師を招いて、備中定林寺の空席を継がしめた。
ほどなくして、加賀の本多政長に迎えられて大乗寺に住したが、元禄9年(1696)退いて備中明崎に居し、秋には新見府に西来寺の旧跡を得て再興した。
府主関道空居士の帰依が最も深かった。
玉島の円通寺、矢野の龍洞寺、永寿寺、武蔵の徳昭寺、越前の慈雲寺等はみな師を開山とした。
宝永3年(1706)秋、円通寺に戻り、翌秋美濃の大慈寺で教化を助け、同5年(1708)冬、播磨の久学寺で病を得、翌、宝永6年(1709)円通寺に帰ったが、2月7日、世壽61歳、法臘46歳で寂し、西来寺に葬った。


遺偈 「大地山河 一堆塵埃 今日消盡 分明没跆 咄」


著作には「続日域洞上諸祖録」「徳翁高禅師語録・上下」「西来家訓」「西来徳翁高和尚年譜」「護法明鑑」「洞宗或間」等がある。

 

(参考-曹洞宗人名辞典・禅学大辞典)

 

  徳翁高禅師語録
  徳翁高禅師語録