宮崎奕保老師の御教示


 

宮崎奕保老師の御教示

 

 於、東川寺先住小祥忌・菩薩堂落慶・江湖会(結制)報恩大法要

 

大本山永平寺監院・中央寺住職 宮崎奕保老師

 

        宮崎奕保老師 御教示
        宮崎奕保老師 御教示

「御教示」

 

「本日は全国的にどこも大雨であったり、暴風雨であったりするような天気予報が朝の予報で申しておりましたが、当山は仏天の御加護によって、かくも天気に恵まれて非常に幸先(さいさき)の良い落慶でございました。

誠にお目出度いことでございます。

皆様と共にお祝いを申し上げます。

私は昨年の四月に方丈様から、昨年の十一月に当山の御開山様、いわゆる永平寺の六十一世の大禅師になられた環渓禅師というお方の百回忌をするということで拝請を受けておりました。

私の所もその環渓禅師の百回忌を厳修した訳でございますが、考えてみまするというと、御当山と私の住職地の札幌の中央寺は同じ御開山様で創立以来同じ日月を経ている訳でございます。

いわば、兄弟寺のようなものです。

そこで昨年の四月以来そのつもりでおりました所、百回忌を目前にして、此の東堂様が亡くなられておりまして、とうとう、その法要が白紙に戻りまして、私も御当山へまいることが出来なくなった訳でございますが、丁度その一周忌に当たります本年、先ほど供養を致しました菩薩堂の竣工落慶法要が行なわれるに付きまして、去年の延長のような訳で、今度は先住様の一周忌を勤める。

そして又、菩薩堂の落慶、それに因んで当山の新住職が宗門で一番大切な演法上堂という大法要を厳修する。

我が宗門は自分が住職をすれば必ず後継ぎを拵(こしら)えるという事が、此れがお釈迦様以来の宗風になっておりますので、お釈迦様が自分でお悟りなって、此の『大法』を何とかして、自分が悟っただけでは全ての人が救われない。(ね!)

その全ての人を生々世々、その悟りの『法』をもって苦しみに耐えておる一切の民衆を救おうという願いのもとに、この『法』を護らなければならない、相続させなければならないというので、お釈迦様には沢山の立派なお弟子がございましたが、その中で一番陰徳を積む、この人間というものは福分徳分がいくらございましても徳を子孫に残すということがなかったなら『法』なり、その家の系統というものは伝わらないという縁起の理法がございます。

そこで一番徳を積まれた迦葉尊者、この迦葉尊者、摩訶迦葉という尊者がお釈迦様の『法』を嗣がれた。

 

  参考・法戦式 (昭和59年9月)
  参考・法戦式 (昭和59年9月)

 

本日、第一座法戦式といってね、これは『法』を相続する式なんです。

長老さんが出来たのです。

長老さんが出来ますというと、その長老さんの下の又、小さい坊んが、ここの小学校一年生と聞きましたが、かわいい坊んが弁事という役を勤めて長老さんの介添えのような役を勤める。

そこに又、長老さんの芽生えが出来る訳なんです。

ですから方丈様がお釈迦様になられて、今日はお釈迦様になられた式なんです。

それをお釈迦様が出来たならば直ちにその後に迦葉尊者を拵(こしら)えなければならないので、長老さんが出来る。

長老さんが出来て又、長老さんの座を継ぐように、その芽生えを拵(こしら)えてゆくのが、あのかわいい坊んが勤めた弁事という役なんです。

こういう様な形式になっておりまして、道元禅師もね、『法あれば生じ、法なければ生ぜず。』といわれ、総て法というものは儀式によって行われる、

で、皆様方も生まれてきますというと誕生の祝いという儀式がある。

そして、ある時期に至りますというと、昔は元服という儀式をやりました。

だから今日も、この長老さんになるのは元服の式のようなものなんです。

そして又、結婚式という式がある。

式というのは一つの『法』なんですね。

だから『法』によって、二人一緒にひっつけば良いじゃないかと云うことでありますと云うとね、くっつきものは割れ易いと云う言葉がございまして、自由自在にくっついたりなんかすると云うと、この頃のように勝手にくっついて、勝手に別れておると云うような事が多くなってまいります。

必ず儀式と云うもの、『法』と云うものを行いますと云うとね、自然に厳粛な気持ちが伝わってくるので、やはり『法』と云うものをもって、その人生の方向を決める。

で、この迦葉尊者と云う人は出家せられるまでには、四十二棟の蔵があったと云うぐらい大長者で、その大長者の何に一つ不足のない大迦葉、摩訶迦葉と云う御方はお釈迦様の『法』を聞かれて非常に感服なさって、一切のその蔵、四十二棟もある蔵を全部、二つだけ残しておいて四十の棟は全部、社会奉仕に寄附されてしまった。

して、その二つ残した蔵はどうしたかと云うと、これも又、不思議なことに、その摩訶迦葉尊者と云う人は奥さんをもらわない。

奥さんをもらわないから、お父さんなり、その家僕なり、大勢の人は『どうぞ奥さんをもろうて下さい。』こう云って勧めたのだけれども、お釈迦様の法を始終聞いております摩訶迦葉尊者はいずれは出家しようと思うておりますから、奥さんをもらわない。

どうしてもらわないかと云うことで、聞きつめますと、『親不孝をしてはならないねんが、お観音様のような見るからに慈悲心のある美人がもしあったらもらう。』とこう云ったのです。

ところがそんなその万徳円満の、

(夕べも私は、不断テレビはあんまり見ませんが、夕べは札幌からやってまいりまして、遅く旅館で泊めて戴いたのですが、テレビを見ておったら、佐藤愛子と云う、あの美人が出ておりましたが、これは、あれを美人と云うのだなあと思って見たのですが。)

非常なこのお観音様、(今日はこのお観音様のお性根を入れましたが、)下写真・香語参照これが見つかったんです。

 

(開眼香語の後に続く)

 

   宮崎奕保老師・龍頭觀世音菩薩開眼
   宮崎奕保老師・龍頭觀世音菩薩開眼
    宮崎奕保老師 龍頭観音菩薩・開眼香語
    宮崎奕保老師 龍頭観音菩薩・開眼香語

 

  菩薩堂龍頭觀世音菩薩・開眼香語

 

 慈眼開光両足尊。  慈しみの眼差しが光を開き、人の姿で現れた尊き仏。

 願輪世々照冥昏。  願いの輪が世々、冥昏を照らす。

 降臨垂迹哀愍故。  降臨し垂迹するのは、(人類)哀愍の故。

 抜苦除災拯業根。  苦を抜き災いを除き、業根を拯(すく)う。

  慈悲容衲 (旃崖奕保・印)


(御教示の続き) 


仕方がないものだから摩訶迦葉尊者は、見るからにやはり綺麗なものは綺麗ですね。

花を見ても綺麗な花があったら綺麗な花です。

皆様が見るとおり綺麗。

そこで、しかたなしに結婚式を挙げた。

挙げたけれども、式は挙げたが夫婦の営みと云うものは一切せなかった。

で、ある時に、その立派な家(うち)ですから、あらゆる設備が行き届いているのですけれども、インドと云う国は暑い所ですからね、その開けっぱなして夏のお昼すぎに、その御姫さんが昼寝をしておる時に、家の外から、コブラと云う毒蛇がこうずっと登ってきた。

そうすると、その摩訶迦葉尊者がそれを見ておられると云うと、その窓の外へ、こう、御姫さんの手が半分ほど出ておる。

それが、ずっと登っていくと云うと、その御姫さんの手の所へコブラが行く。

けれども、今までその御姫様に一返も躰を触ったことが無いものだから、摩訶迦葉尊者は、これは困ったことになったと云うので、そこへ行って手拭いでその手をこうすくうてのけたと云う様な、そう云う御方なのですね。

そうして結局、夫婦の交わり無しに出家をしました時に、その四十二の中の二つ残した蔵を奥さんの為に残しておいて出家をなさった。

けれども世の中の、この栄枯盛衰と云うものは分からないもので、とうとう奥さんも、落ちぶれて結局、摩訶迦葉尊者はお釈迦様にお願いをして、その奥さんを出家せしめた。

同じお釈迦様の弟子になって修行をしたと云う、とても偉い御方なのですね。

そう云う、その徳を積まれておりました。

今日、永平寺の禅師様はお釈迦様から八十代の法を嗣いで、永平寺の貫首様になっておられますが、そいう永く『法』が続くと云うことは、必ずこの先祖の徳というものがある。

で、我々この曹洞宗は、(皆さん禅宗の曹洞宗でございますが、)永平寺の道元禅師様のお徳によって、曹洞宗は一万五千ヶ寺と云う、日本の仏教界でも一番栄えた宗門です。

しかも、七百年来、脈々として今日(こんにち)に、永平寺が二百人からの修行の坊さんが、御開山様の当時以上に続いていて、修行しております。

そう云う訳で、本日のこの有様を見ますと云うと立派な、私初めてこの東川寺さんへお邪魔をした訳でございますが、広い境内であり、立派な伽藍であり、しかも又、今度は立派な菩薩堂が建っておるのを拝見しまして、これはもう歴代の大方丈様の陰徳の集まりだ、殊にその歴代の方丈様方の徳を全部代表して出てこられたのが、現在の方丈様です。

今の方丈様は偶然に出てこられたのでは無くして、当山の御住職になられるだけの陰徳、徳分を具えて、それを相続するだけの福徳を具えられておるんですから、だから皆様方も、こう云うその方丈様を戴かれると云うことは、皆様方の福分であり、徳分なんです。

何とも無しに考えておりますと云うと、偶然に何でも出来たように見えますけれどもね、皆、この自分の信心、真心から出た所のものが、生々世々、しかも在々處々に、それが現れてくるんでございますね。

 

   宮崎奕保老師と住職(風間直樹)
   宮崎奕保老師と住職(風間直樹)

 

本日は誠に、先程申した通りに、全国が雨とか暴風雨だとか云っておる。

こう云う、その天気なんて云うものは、誰れも予測することも出来ませんし、金で買うことも出来ないんですが、こう云うこの天女の恵みがあったり、または、こうして立派な菩薩堂が建ってゆくと云うことはね、皆様、目に見えない所の因縁と云うもの、縁起の理法と云うもの、陰徳と云うものが必ずなると云うことを私は感じます。

私は今の永平寺の禅師様、管長様が出られた後へ、中央寺に来て七年目に相いなるのですが、今から三年前に永平寺の禅師様があちこちと御親化の出られる留守番に行っておりまして、今年の八月に任期満了と云うことで、お暇(いとま)をしようと思うておりましたが、何とかもう暫く勤めよと云うことで又、日日(ひにち)が延びておるのでございますが、本日、当山の法要を勤めまして、今晩の七時か八時ごろに札幌へ帰りますが、皆様方、(聞いてみますると云うと、明後日、全休寺さんかの団体で永平寺へお参りすると云うことを、先程お聞きしたんですが、)私は明日朝、ここから帰った明日の朝、永平寺へ帰っておりますので、皆様方もどうぞ来春、四月の二十三日から二十九日まで毎年本山で、大禅師猊下のお授戒会がございますので、どうぞ、人間と云うものは命が長いようで、過ぎてしまうと云うと短いものでございますが、願ごう心は永くとも、人間の寿命と云うものは明日を期することは出来ません。

どうぞ永平寺へお授戒に一返でも、皆様誘い合わせてお参り下さいますようにお勧めを致しておきます。

私は今、永平寺に居りますので、この席をお借りしまして、皆様にお勧めをしておきます。

どうもありがとうございました。」

 

 (文責・東川寺・風間直樹)

 

   菩薩堂本尊・龍頭觀世音菩薩 (宮崎奕保老師開眼)
   菩薩堂本尊・龍頭觀世音菩薩 (宮崎奕保老師開眼)

 

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「東川寺住職記」

 

この日は沢山の法要が有り、午後からは一座別の法要の後、宮崎奕保老師の導師のもと大般若法要が予定され、その法要終わってすぐ宮崎奕保老師の法話を戴くことになっていた。
だが予定通りには進行せず、老師導師の法要の前の法要が長引き、宮崎奕保老師は二楷の控え室から、待ちきれず下の廊下の椅子で待機していた。
そこは台所の近くで、接待の婦人達が大勢いた。
その婦人達が老師の近くに寄って来て、「なぜ結婚しないのですか?」と不躾にも尋ねた。老師は「儂は長く本山永平寺に居たし、粟粒結核と云う重い病気もしたので、結婚する暇がなかったのじゃ。」と答えた。
その外にも「女性は嫌いですか?」、などと云うようなこと婦人達が老師に無遠慮にも聞いたらしい。
私(住職)は法堂に出ていて、そのようなことがあったことを後で知ったのであったが。
老師がこの時、法話の中で、摩訶迦葉尊者の女性とのことをお話されたのは、このことが老師の頭の中に残っていたのかも知れない。

 

宮崎奕保老師の控え室は二楷にあって、その部屋の窓から外の庭がよく見える位置に坐られていた。
昼食は饂飩(うどん)がお好きだと云うことで召し上がっていただいた後、老師と法要のことなどの打ち合わせがあって、私は二楷に上がって老師と暫くの間、会話をした。
宮崎奕保老師はその折り、窓のほうに目をやって、「あの大きな松の木はどうしたのじゃ」と質問された。
「あの松の木は、先程、菩薩堂の観音様に開眼をしていただきましたが、その菩薩堂を建てる時、そこの場所には多くの木々があって、この大きな松の木もその内にありました。建築の邪魔になると云うので皆な切ってしまうことになり、この一本だけ檀家の人の頼んで、ここに移してもらったのです。あの大きな松の木を支えるには木材の支えでは長さが間に合わず、あのように長いワイヤーで支えをしているのです。」と答えた。
すると、老師は「あんたさん、いいことをなされた、あんたさん、いいことをなされた」としきりに褒めていただいた。
私は一本の松の木を移動したくらいで、そんなに褒められることかなと不思議な思いをしていたところ、老師はさらに言葉を続けた。
「儂の兵庫の寺にも松の木があったが、虫に食われてしまって、皆な枯れてしまった。あんたさん、いいことをなされた、あの松の木を助けた!」と云われた。
そのころ松食い虫が発生し、老師の兵庫の寺だけではなく、西日本一帯で松が枯れてしまうという問題が起こっていた時であったのである。
老師に褒められたのは、その松食い虫の被害があったからであった。


又、老師の控え室には秦慧昭禅師の掛け軸と色紙がかけてあった。
それは特別に宮崎奕保老師が来られることで掛けたのではなく、その以前から掛けてあったものである。
老師は何気なく「秦慧昭禅師だな」と云われた。
「はい」と私は答え、そのあと老師から何も言葉が無かった。
しかし法要がすべて円成し、そのことを考えた時、はっと気が付いた。
秦慧昭禅師と宮崎奕保老師とは特別な因縁があり、この寺ではそのことに気配りして秦慧昭禅師の掛け軸と色紙を掛けてくれたと宮崎奕保老師は思ってくれたのかなあと推察し、偶然そうなったことに、不思議な因縁を感じた。

 

宮崎老師へのお土産にと木の目の綺麗な「笏(こつ)」を造って用意してあった。
「この笏は檀家さんの器用な人に延寿の古木で造ってもらったものです。よろしければお使い下さい。」と云って差し上げた。
すると老師は「延寿か?猿すべりとも云うぞ。」と云ってニコっと笑った。
その後、宮崎奕保老師は永平寺の監院から、昭和60年に永平寺副貫首、さらに平成5年には大本山永平寺七十八世の禅師様となられた。
しかも108歳まで延寿され、そのご生涯を全うされたのであった。