東川村発達史

東川寺の開創の時、東川はどのような処だったのか、あるいは周囲はどうだったのかを知ることが大切なことのように思え、あえて「東川村発達史」を載せました。


(資料)

東川村発達史 (明治四十三年四月調査)

「東川村発達史」

明治四十三年七月三十日 発行

 北海道石狩國上川郡旭川町三條通十三丁目

著者 藤崎常治郎

 北海道石狩國上川郡旭川町三條通十三丁目

発行者 上條虎之甫

 東川村発達史 (明治43年調査)
 東川村発達史 (明治43年調査)

東川村發達史(明治四十三年四月調査)31~32頁の第十の宗教の頁には下記のように記されている。


「東川村發達史」

第十 宗教

 

(前述を略す)

            東川村発達史掲載の東川寺写真
            東川村発達史掲載の東川寺写真

一、曹洞宗東川寺


仝寺院は仝村西六號五百二十一番地に在り。
明治三十四年七月の建立にして曹洞宗説教所と称し敷地一町歩、惣建坪五十二坪七合七勺餘内本堂三十五坪、厨十六坪八合餘なり。
尚基本財産として四町歩の地積を有せり。
明治四十二年五月二十二日寺號公称出願、仝年十二月二十二日許可、曹洞宗東川寺と公称す。
當時(寺?)檀家は百八十餘戸、本村第一の寺院たり。
現総代は永谷鎌次郞、日比野堅次郎、川本万吉、稲垣喜代次郞、寺尾治三郎、水野鶴次郞の六氏にして、住職は牧玄道氏なれども目下上京中、留守代理として篁祐孝氏院務を鞅掌(おうしょう)せり。
抑々(そもそも)本寺院建立の當時は彼の凶作とも称すべき明治三十二三両年の翌年にて人気一般に消沈し建設費等の収集も容易の事にあらざりしが現総代なる永谷、日比野外四氏及び信徒重立ちの有志は東奔西走殆んど自家の業務を放れて尽瘁せられたる結果斯く宏大なる寺院を建設せるに至れり。
本寺院の位置たるや基線道路に沿い、本村中央の眺望に富めるケ所にして春夏の候、本堂に坐して四方に眼を放てば青々たる田圃は見渡す限りなく、亦瞳を転ずれば石狩、ヌッタプカムウシペ(大雪山)の連山峨々として白帽を戴ける状、眞に之れ紅塵万丈の俗界を脱したる仙境と称するに憚(はば)からざる所なり。
加之秋季水稲の半は熟して一面黄金色を呈したる状は之れ亦一層の光景なり。

 


「東川村発達史」 (概略)


東川村発達史

 

 自序


我國民が嚢(さき)に北海道を目して北門無限の宝庫と誇唱したる所以は海産を主として亜くに林産、礦業を以てし、農業殊に水田開耕の如きは眼中殆んと是れ無かりし也。

然るに上川地方天然の山河形勢及(び)地質気候は、水田として尤も適切なるを認め、僅々二十年内外にして其の開拓全道に冠たるに到れり。

而して東川村の如きは開村以来、茲に漸(ようや)く十有六年、此の間田圃の開耕、実に三千町歩に垂とし、其の他に於ける事業の視るべきもの亦(また)尠(すくな)しとせず。

盖(けだし)本村が斯(か)かる急速の進歩発展を覩(み)るに至りたる所以は其の依って以て由来する處なかる可(べ)からず。

之れ吾人揣(は)からず杜撰(とせん)の責めを負うて本史を編纂し、村開発の当初より現在に於ける概況を述べ、尚、有志、元老諸士の略歴を附記して、聊か後者の参考に資せんと欲する所以(ゆえん)なり。

時、恰(あたか)も新緑蔭(かげ)清うして鶯声饒(ゆた)かに、千里の沃野更に一段の風光を放つの頃、肥馬の嘶(いななき)、鉄車の笛に警醒(けいせい)せられ、漸(ようや)くにして此の稿を了(おわ)る。

  明治庚戌(四十三年)初夏  北總天涯 識

 

第一

總論

石狩國上川郡は本道の中央に位し、四周繞(めぐ)らすに天然固有の山河を以てす。
故に先づ東川村發達の起源を知らんと欲せば上川郡自然の形勢及び風土人情等の一般を窺知(きち)せざる可(べ)からず。
彼の本道第一の高嶺を以て誇りとする「ヌタップカムウシベ」及び石狩岳の連山は、四時皚々(がいがい)として呼はば将に應へんとするものの如く、時には巌然(げんぜん)として常に上川地方の惰気(だき)を警醒しつつあるものの如き觀あり。
加之(これにくわえて)森羨として水天髣髴たる石狩川の長流及び忠別、牛別の流れは時に或いは氾濫の憂ひなきにあらざるも、田圃の肥沃なる根源にして、灌漑の便四通八達、眞に之本道唯一の農耕地として誇唱(こしょう)するに餘りある土地たる也。
温度、上川の地は山岳圍遶(いにょう)の高地にして海抜約四百尺、最も海岸に近きも二十五里を下らざる土地なれば温度の高低著しく、寒暑共最高最低全道第一たり。
故に厳寒の候即ち一月初旬より二月中旬までの間に於ける極寒には摂氏の氷点以下、二十五六五度に下ること敢(あえ)て稀らしからず・・・・・・。
現に明治四十二年一月十一日より仝十三日に至る三日間の如きは、上川二等測候所に於ける摂氏の氷点以下四十一度にして、曾って明治三十五年一月二十五日に於ける仝上四十一度と前後八年間に二回の絶対最低温度を示したるものなり。
而して暑気は例年七八九の三ヶ月なるも八月中旬より九月上旬の頃に於いて最高の度を示し年々摂氏の三十度を超ゆること是亦敢えて稀らしとせず。

されば夏季中六七八の三ヶ月間に於ける平均温度は摂氏の十八度五分にして、冬季中、十二、一、二の三ヶ月間に於ける平均温度は仝上氷点以下八度強、農季中、五六七八九十の平均温度は十四度にして前後に比較し温度の低き傾あるも、日中は頗る温度高きを以て農作物の佳良なる、他地方の比にあらざるなり。

殊に水田に至つては近年長足の開耕を表はし、全道中第一の米産地として称讃せらるヽに至れり。

又、一年中温度の較差最も多きは、二三四五の四ヶ月にして二十五六度より三十度内外、亦尤も少なきは、十四五度以上二十度内外なり。

されば一年中平均の差は略十二度四なりと云う。

而して温度の零度以下に降るは通常十一月五六日以後より、翌年四月八九日頃迄とす。

風、樹木の乱伐は暴風と水害とを来す原動なれども、未開地拓殖の上に就いては勢い止むを得ざる事なるべし。

而して既徃十五年間に於ける最強風度は明治三十一年九月に於ける西の風二十三メートルなりしが、近年は最強十七米突(メートル)内外にして、方向は西なり。

雨雪、上川地方の雨量は一ヶ年の総計千八百十五糎(センチメートル)にして、尤も多量の月は、九月八月十月十一月なり。その他月は百糎以下、尤も少なきは二月なり。

初霜は例年九月下旬にして、晩霜は六月上旬迄なり。

初雪は通常十月二十二三日頃にして、尤も早きは十月二三日頃なり。

晩雪は晩きは五月五六日頃迄なりとす。 

人情風俗、上川の地は明治以前即ち文政年間に於いては石狩川の沿岸なる伊香牛必布、牛別、近文、忠別川の河岸等に在りて土人の人口五百三十内外あり。
各自巣窟(そうくつ)を構えて所々に散点し一部落を成せり。
當時、鈴木龜吉なるもの土人より獣皮鹿角等を貿易して年々多大の利を貪ぼりしを初めとし、爾後、今の旭川曙遊廓の西南なる中州に居を卜し、始めて永住の計画を立てたる為、世人呼んで「龜吉島」と称するに至れり。
此如くなれば上川地方の人情風俗の一般は明治初年にありては旧土人と殆んど相択ぶ處なかりし状なりしが、明治十八年岩村司法大輔、屯田本部長永山少将以下数氏が上川郡探討の壮擧ありしより延で明治二十二年に渉り旭川より網走間の國道を開き、忠別永山伊香牛必布近文「オサラッペ」の各原野を調査し美瑛忠別両川の間に御料地を相し旭川市街地を区画せられ尚ほ續へて各地に屯田兵を移住せし結果、明治三十二年札幌より第七師団の移設せられざる以前に在て既に前途有望なる一大郡村を形勢したるものなり。
蓋し三十二年に於いて第七師団の移設と四十年釧路鉄道の全通とは上川地方に於ける一般の大勢を急変せしめたる起因にして、従来姑息的にして永住の觀念に乏しかりし地方民は農工商を問はずして向上的計画と永住の方略とを構するに至り、不徳破倫なりし貪欲漢も幾分自己立脚の地盤を固めんとする伏線を布くに力めつヽあるものヽ如し。

殊に冠婚葬祭等の礼に於いても一時的の軽挙にでずして、永久的即ち長く交情の綿々たらんことを期するに傾注するを認めらる。

只、憾(うら)むらくは各停車場附近に接続する市街が、彼の農村の醇朴なるに反し、逆比例を以て、其の市街の進化に伴い随つて、人情軽薄、殆んど亦恢復すべからざるの現象を呈しつヽあるに至るは、時獘の傾転亦已むをざるに出づるならんも、本道大局の上に於いて憤慨に堪えざる次第なり。

風俗は市街民と農村団体移住の種類とに依りて異れども、彼の日露戦捷(戦争)凱旋後、諸般起業の淳與に伴い資金の流動順境に向かいたる結果、一時上下を通じて華美の風に流れたりしが、去る四十年以来不景気の嘆声は全道に喧(かま)びしく、殊に戌辰の、御詔勅に基づき、各自勤倹の美風を喚発しつヽあるの今日に於いては、桃源に狂い遊里に出沒する痴漢の稀なるを認めらる。

且つ又、男女の服装等にありても華美に流るヽよりは寧ろ軽装にして実業に適する風を尚び、彼の女学生が筒袖に蛯茶袴を着用ずるが如き以て一般風俗を知るに足るべし。只、女子結髪の風にありては都鄙の別なく、流行の廂髷を以て唯一の良風とせるものヽ如し。


              (ヌタップカムウシペ・現在の参考写真)

第二

沿革

上川郡東川村は元旭川村字忠別原野と称し広漠無辺(こうばくむへん)森林蓊鬱(しんりんおううつ)として、昼尚ほ闇く羆熊(ひぐま)狐狸の群時を得顔に跋扈(ばっこ)して、殆ど人跡の印したるなき大草原なりし也。
然るに明治二十七年初めて植民地区画を為し次(つぎ)て二十八年四月貸与を実行するに当り其の劈頭(へきとう)に於いて香川縣人三十餘戸及び富山縣團体十餘戸、阿波團体數戸の移住者を覩るに至れり、當時は本村に通ずべき道路なく隣村なる東旭川兵村南五丁目より、不通を開き笹藪を蹂躙(じゅうりん)し、或いは荊榛纒綴の間を潜り辛苦慘憺(しんくさんたん)漸(ようや)くにして貸与區画地に入れり。
尚旭川市街地に出ずるには忠別川の沿岸を迂回して岩石或いは流木を攀(よ)ぢ、土人仮設せし險路を辿るの外他に途(みち)なきなりしなり。
されば道廳に於いても仝(同)年七月を以て其の功を竣(お)へ始めて交通の便を得、続々移住民を入らしむの圖(と)に出でたれば期年ならずして開耕の實一新して村の形体を構成するに至れり。
明治三十年十二月旭川村より分割し東川村を新設せられ茲に始めて一村と為り、旭川村戸長役場の管轄に属せり。

而(しか)も当時の戸数は僅々三百余戸にして、茫漠たる原野、若しくは樹林荊棘の間に散点し、開拓日浅く民資薄弱なる為め、二十八年以来、全く教育を嚝うするの不幸に沈淪し居りたるも、移住民は遂年増加し、仝三十一年に至りては戸数四百三十六戸の多きに達し、随つて学齢児童の数、彌々(いよいよ)増加するに至り、教育の設備は村の先決問題として焦眉の急を告げたる為め、仝三十二年二月二十三日東川尋常小学校を基線西四号北一番地に設置したり。

其の創立当時の児童数は二十五名なりしも、日に月に移住者の増加と共に其の数を加え、仝四十年五月に至り高等科を併設するの盛況を呈したり。

仝年六月東旭川村に戸長役場を置かるヽや、旭川村戸長役場の管轄を離れ、東旭川戸長役場の管轄に属し、爾後日に月に移住民の増加に伴い益々開耕の実を挙げ、漸次衣食の足ると共に公共の志は一般に向進し、仝三十三年中に於いて第一第二第三と三ヶ所の簡易教育所を設置するに至れり。

仝三十九年四月一日、二級町村制を施行せらるヽや東旭川村に組合役場を置き其の管轄たりしが、仝四十二年四月一日、東旭川村に一級町村制を施行せらるヽと同時に分立して、西四号南二番地に役場を設置し、一村の独立を為すに至る。

当時、戸数八百四十二戸、人口三千八百三十三人の多きに達し、学齢児童九百九十三人、就学児童四百二十一人の大多数を出すに至れり。

此他、簡易教育所を尋常校に変更すること二ヶ所、更に第四簡易教育所を設置する等、其の発展の度知るべきなり。

如斯開村以来、茲(ここ)十五年の間に於いて、人口戸数の増加は勿論、教育村治の発展、道路橋梁の開鑿(かいさく)、田園耕地の拓殖より、社寺衛生の設備に至るまで概ね整頓せざるなきを覩るの機運に到達せしは如何に長足開発なりしかを一驚せずんばあらざるべし。

回顧すれば明治二十八年、即ち今より十有五年の往時僅々五十戸に足らざりし先住者が鬱蒼たる森林、茫乎たる荊棘の間に草屋を構ひ炎熱瘴癘を冐し凛烈四肢を凍傷せしむるの極寒に堪え、朝に星を踏み、出ては猛獣の窟を浸し、夕べに月を戴きては往々鷲鳶の為めに驚かさる。其の辛苦経営の状、真に惨憺として今より顧い起せば身神共に慄然たるを偲ばしむるなり。

蓋し、事の成るは成るの日に成るにあらずして、其の創始の辛苦と平素の経緯とに因るものなれば、事の大小と業の公私を問わず、常に先鞭者の功労を多とせざる可らざるは敢えて言を俟たざる處なり。殊に本村創始の衝に当たりたる先住者の偉功に至りては永く竹帛に存して其の徳を尚するに足るべし。

 

第三

位置及山川地勢

東川村は石狩國上川郡の東南隅に位し、旭川市街を距(へだた)る二里三十町許の地点にあり。
四方は一帯の耕地を以て、東旭川に接し、南東は忠別川を隔てて神楽村及び美瑛村に界し、北は「キトウシ」山の山脈を分水嶺とし東旭川村(字ペーパン)に隣り、東は本道第一の高山「ヌタップカムウシペ」(一名、大雪山)山脈を繞(めぐ)らして愛別村に連なり、廣袤眼(こうぼうがん)に餘る沃野の間忠別川より引用せる細大數流の灌漑(かんがい)溝を陜みて、將に千戸に垂んたる家屋を散点せる一大村落なり、本村は元忠別原野と称し、忠別川の左岸に沿い北東の擴東せる大原野にして土人の棲息地として尤も嘱望せし處なりと云う。
忠別川は「ヌタップカムウシペ」山より發し本村の南界を流れ彼の、御離宮豫定地なる神樂岡の山腹を突き少しく右折して神樂村及び旭川町の境を流れ曙遊廓の背後龜吉島の下方に於いて石狩川に合す倉沼川は「ヌタップカムウシペ」山脈の渓豁より出つる「ポンクラヌマ」及び「サルンクラヌマ」川等其の他の細流と一號線に至り合して倉沼川となり村の北方を貫流し東旭川村に至り牛別川に注ぎ頗(すこぶ)る水利の便に富む。
地勢は東南より北西に緩斜して草原湿地多く樹林地少なし、土質は基線以南砂質沖積土にして基線以北北四線以南砂質壤土石礫(せきれき)碌碌 (ろくろく)として所々に露出するあるも能く耕地に適す、北四線以北倉沼川沿岸一帯の地は概して地質肥沃豊穣なりとす。


第四

人口及面積

東川村は基線を中心として南北区別し一線を三百間に画して南は二線を以て忠別川に達し北は八線を以て東旭川村に接す、又西一號を中点として東西の別ち西は十二號より東は二十號に至る、此の延長百六十町即ち四里十六町にして副延五十町即ち一里二十四町に及び其の面積は拾参方里六四に達する大村落たるなり。

本村に於ける明治四十二年十二月三十一日現在の人口戸数本籍寄留男女別を列記せば、左の如くなるも、明治二十八年開村より仝四十二年に至る概往十五年間の戸数増加を見ば誰か其の開発の長足なるを驚かざるものあらん乎。

(明治四十二年十二月三十一日現在)(東川村役場調査)

戸数、六百九十七戸、人口、四千三百三十一人。

内訳、男、二千三百六十七人、女、千九百五十五人。

本籍、男女計、三千七百四十四人。

寄留、男女計、八百八十二人。

明治二十八年四月開村より明治四十二年十二月に至る年次戸数の増加、左の如し。

 二十八年、八十戸。二十九年、百八十戸。三十年、三百戸。三十一年、三百十六戸。

 三十二年、三百四十戸。三十三年、三百四十六戸。三十四年、三百六十六戸。

 三十五年、三百八十九戸。三十七年、三百九十一戸。三十八年、四百二十戸。

 三十九年、五百二十四戸。四十年、五百七十九戸。四十一年、七百二十戸。

 四十二年、八百九十八戸。

 

第五 村政
 一 旧村総代
 二 第一回村会議員
 三 村役場
 四 現在村会議員
 五 現在部長
 六 村歳入出及び年次増減表
 七 基本財産
 八 衆議院及び道会議員選挙資格者
第六 官公衙


第七 教育

 

凡そ教育の普不普は之れを大にしては国家の盛衰存亡に関し、之れを小にしては一村一部の頽廃に影響する而已ならず。或いは直接、或いは間説に於いて富国強兵の実を阻碍するものなれば、当局の士は勿論、常は村民にありても克く、勅語の旨主に基づき拳々服膺すべきの義務あるや、敢えて論を挨たざる也。

蓋し地方教育の任にあるものは平素其の管内の人情風俗に注意して、是れが改化遷善に力むべきは勿論、能く其の父兄の心事を洞察し彼等をして教育の必須欠くべからざるを悟らしむるの要なるなり。

教育の起源、本村の於ける教育機関の設備及び村民が如何にして現今に至る発達を為さしめたかを記しは、今後第二の実業家として世に立つものヽ参考たるべし。

明治二十八年本村開拓の当時に於いては教育の設備は云うまでもなく、各自棲息すべき家屋すら只陋隘(ろうあい)の草屋に過ぎずして、明治三十二年二月に至るまで小学校と称すべきものなく、学齢児童は徒らに山野に狂奔するか、或いは時に農事の助けをなして教育の澤に浴すること能はざりき。

されば心ある父兄は如何にもして幾分の教育を受けさせたきものと日夜心を苦しめ居たるに、当時西原安太郎氏開拓の傍ら自宅に於いて附近の児童二三を集め夜学として読書又は習字算術等を教授せしに甲聞きて伝え遂に十四五名の多きに達したれば日中農事に疲労せし身体到底其の任に堪えざるより、当時西二号に設立せられたる(明治三十年七月設立)東本願寺派説教所布教師、柳澤保憲氏は西原氏が信徒総代として常に親近する處なるより、終に仝氏に議りて一時寺子屋的の私立学校を設けたり。之れ東川村に学校の生まれたる元祖なり。爾来柳澤氏は熱心教育の任に当たり孜々として・・・努力せられければ村有志は専ら寄附行為を以て机其の他の設備を為し、他の公立学校と遜色なきに至れり。

明治三十一年に於いては在学児童四十名以上に達したる程なり。


一、東川尋常高等小学校

仝校は明治三十一年九月新築工事に着手し、仝年十二月竣工、翌三十二年一月二十三日開校、東川小学校称す。当時通学児童は二十五名にして、校長は佐藤熊吉なりし。

三十二年六月勅語謄本を下賜せられ、仝三十四年九月御聖影奉置所新築、仝十月十日御聖影を奉迎す。

三十四年五月高等科を併置せられ、東川尋常高等小学校と改称す。

現在通学区域は西九号より東一号に至り、北四線を境とす。其の行程三十町以内なり。

現在校長は高田孫七氏にして、以下職員三名准訓導本間豊次、代用教員長井トク、其の他一名なり。

在学児童及び出席歩合、左の如し。

 高等科、十八名。尋常科二百一名。(是れは四十三年三月現在)

 出席歩合、高等科男九十二名、女九十五名。尋常科男九十二、女八十三。


一、東川第一尋常小学校

仝絞は明治三十三年十二月の創立にして、初め東川第一簡易教育所と称す。

後、四十一年十月十九日、現在の如く認可改称、四十一年十月三十日勅語謄本下賜、四十二年四月増築。通学区域は基線以北西七号より西十号に至り、最遠二十六丁なり。

職員現在校長は木村宇市君にして、代用教員西尾氏、外裁縫専科代用教員木村ヤス女の三名なり。

在学児童及び出席歩合は

 在学児童、男八十二人、女四十五人(是れは四十三年一月現在)

 出席歩合、男九十三、女八十四、平均九十。児童貯金、三十五円七十七銭

 (四十二年十二月現在)


一、東川第二尋常小学校

仝絞は西四号北三十二番地に在り。明治三十三年十二月の創立にして、初め東川第二簡易教育所と称す。後、四十一年十月十九日組織変更と仝時に東川第二尋常小学校と改称す。

仝年仝月勅語謄本下賜せらる。

通学区域は四線道路以北、キトウシ山迄、東三号より西七号迄、戸数百八十余。

現在職員は校長、宮城嘉助君、外馬場重次郎君一名にして、在学児童及び出席歩合は左の如し。

 現在児童、百四十名(四十三年三月調査)(仝年四月よりは百九十名の見込)

 出席歩合、男女平均九十三、就学歩合、九十七強。


一、東川第三簡易教育所

仝絞は明治三十三年十二月十六日の開校なるも、仝三十五年九月二十八日火災に罹り、校舎器具諸帳簿悉く皆焼失したる為め、仝年十月再築、校舎絞坪数、三十二坪。内、教室、二十坪、宿直室、六坪、其の他、六坪、物置小屋、六坪なり。

学期の編制は最初尋常四学年単級教授なりしが、現在は六学年となれり。

通学区域は東二号より仝二十号に至る。

現在校長は、治部宇助氏なり。開校当時より教員の転任せしものは山宮定吉、齋藤徹郎、杉谷秀若、松岡禮藏、柳田福方、今川良策、新國城、寺出楠の八名にして、現在校長を合わせ九名の変転なり。明治四十三年勅語謄本奉載せり。而して本校の在学児童数及び其の他を示せば左の如くにして、開校以来年々其の数の増加を見るは其の部落の発達せるを表明するものと云うべし。

 現在児童、九十名、出席歩合、明治三十六年に於いては、男八十五、女八十六、四十一年には、男八十一、女九十四、四十二年にありては、男九十二、女九十の割合なり。


一、東川第四簡易教育所

仝絞は明治三十九年五月の創立にして、地方有志の寄附金に依り成れるものなり。

明治四十年四月迄は第二教育所の分教所なりしが、仝月より独立せり。

明治四十三年勅語謄本を奉載、現任教員は小野寺銀藏氏なり。


以上の如き状体なれば、本村の教育は比較的進歩したるものと云うべく、亦擔當者一同も相競うて其の教授に熱中せらるヽものと云うに憚からざるなり。


 東川村尋常高等小学校 (東川村發達史掲載)
 東川村尋常高等小学校 (東川村發達史掲載)
 東川村第三簡易教育所 (東川村發達史掲載)
 東川村第三簡易教育所 (東川村發達史掲載)

第八 衛生
第九 軍事

 

第十 宗教


凡そ国民を撫育するに必要なるものは教育、亜(つぎ)にて宗教なりとす。

彼の往古にありて僧侶が地獄極楽説を唱え因果応報の恐るべきを戒め、抜山蓋世の豪傑を泣かし、又は頑迷不霊の痴漢を遷善せしめたるなど、其の効力の偉大なる、他に及ぶものなかるべし、蓋し宗教は多く偏頗に傾き易きの獘ありて、其の宗旨の素主に反する事あれども、幷は之れ布教者が自己の我慾より打算して愚夫愚婦を迷はしむるの結果なれば、此の如き布教師が之れを圏外に放擲して神聖無垢光明慈善の高僧を選擇するを可とす。

本村には寺院二ヶ所、説教所一ヶ所ありて、何れも布教に熱心忠実なれば、村内の人情も至つて温和篤実なり。

左に各寺の創立起原其の他を列挙して参考に資すべし。

 

一、曹洞宗東川寺

仝寺院は仝村西六號五百二十一番地に在り。

明治三十四年七月の建立にして曹洞宗説教所と称し敷地一町歩、惣建坪五十二坪七合七勺餘内本堂三十五坪、厨十六坪八合餘なり。

尚基本財産として四町歩の地積を有せり。

明治四十二年五月二十二日寺號公称出願、仝年十二月二十二日許可、曹洞宗東川寺と公称す。

當時檀家は百八十餘戸、本村第一の寺院たり。

現総代は永谷鎌次郞、日比野堅次郎、川本万吉、稲垣喜代次郞、寺尾治三郎、水野鶴次郞の六氏にして、住職は牧玄道氏なれども目下上京中、留守代理として篁祐孝氏院務を鞅掌(おうしょう)せり。

抑々(そもそも)本寺院建立の當時は彼の凶作とも称すべき明治三十二三両年の翌年にて人気一般に消沈し建設費等の収集も容易の事にあらざりしが現総代なる永谷、日比野外四氏及び信徒重立ちの有志は東奔西走殆んど自家の業務を放れて尽瘁せられたる結果斯く宏大なる寺院を建設せるに至れり。

本寺院の位置たるや基線道路に沿い、本村中央の眺望に富めるケ所にして春夏の候、本堂に坐して四方に眼を放てば青々たる田圃は見渡す限りなく、亦瞳を転ずれば石狩、ヌッタプカムウシペ(大雪山)の連山峨々として白帽を戴ける状、眞に之れ紅塵万丈の俗界を脱したる仙境と称するに憚(はば)からざる所なり。

加之秋季水稲の半は熟して一面黄金色を呈したる状は之れ亦一層の光景なり。


一、大谷派瑞寶寺

東川村西三号の地に荘厳無比、此の新開の地にして稀れに見る大建物あるは問はずして知る是れ大谷派瑞寶寺なり。

仝院の開基は明治三十二年三月十四日にして、仝年五月十九日大谷派説教所の許可を得、後、明治四十一年十二月二十六日寺号公称を許可せらる。

本寺院の敷地は七百坪にして総建坪九十九坪の広堂なり。尚、基本財産として二町二反七畝九歩の水田を有し財政頗ぶる豊富なりと聞く。

現在の檀家は百余戸にして、目下の総代は三井助四郎、紙谷初次郞、窪田浅次郎の三氏なり。

又、創立当時の功労者としては、以上三氏の外、吉野伊次郎、海野元次郎、増田忠四郎の諸氏なり。

現住職宗隆霊瑞は本山の開基にして富山県の産なり。明治三十二年、初めて此の地に来るや、未だ茫漠たる原野にして現在の部落にありては人家殆ど稀れなるの時、一意専心布教に力めて克く信徒の心を融和し、冬季は藁靴に足を固め、春夏泥濘の節は脚絆鞋等の出で立ちにて檀家を回るなど、其の辛苦の状惨憺たるものなりしと。蓋し本寺院が今日の如く多数の檀家を有して隆盛を呈したる所以に堅忍不抜にして霊知高徳なる宗隆氏の開基に因るや論なしと雖ども、総代諸氏の奔労と檀家一統が能く尽す處あるに依るや、亦大なりと云うべし。而して宗隆氏には長男教正氏ありて既に郷里富山県中学校を卒業し、本年東都に笈を負い、新宿なる真宗大学の門に入り、近き往来に於て瑞寶寺第二の興隆を図らんとするものなりと、其の望み春海の如しと謂うべき也。


一、本派東願寺(本派本願寺?)説教所

東川村に於いて宗教の開祖と称すべきものは仝説教所なりとす。

仝所の設立は明治二十九年八月にして目下旭川市街第一の寺院を建立せる慶城寺住職石田慶雲氏が開かれたるものなり。後、杉谷徳念氏是れに代わりしが、故ありて他に転す。明治四十年現住國長月桂氏、其の後を襲えり。仝説教所は明治三十五年七月十日其の筋の許可を得、敷地二町五反歩を有せり。現総代は丸谷久之助、西川林治、増田助三郎の三氏にして信徒は百余戸なり。仝所は西二号基線沿いの小高き位置にして東北に面し風光頗る佳なり。現住國長氏は越前福井の産にして、先代より僧侶を以て其の任とせり、氏は本住職として日未だ深からざるも既に信徒の敬慕すること厚く、布教亦大に力めらる。故に近々中に於いて寺号公称の認可を得んと目下信徒総代一同と協力手続き中なれば不日其の運びに至るべし。尚、仝所現在の本堂は建坪二十五坪にして、説教其の他の集合に際し信徒一同を容るヽの手狭まなるを以て、寺号公称認可以前是れが増築を為すの必要なりとて目下計画中の由なれば、右建立の暁は前記の二寺院に譲らざる宏荘の新院を覩るに至るべし。而して仝所にては地方部落に裁縫教授所の乏しきを気の毒とし附近の女子十数名を集め、冬季農家の閑暇なる時期を利用し専ら是れが教授を施せらる。


一、村社(神社)

本村には未だ村社として其の筋の認可を得たるものなしと雖ども、村民が一年一回の祭日として、天下泰平、五穀豊穣、家内安全を祭るは毎年八月二十五六の両日にして、社は村内西四号基線沿いの南に鎮座せらる。

今此の村社を祭りたる起源を索ぬるに、本村は既に述べたる如く屯田移住にあらずして単純なる植民移住者のみなれば、内地府県の別なるは他村の比にあらず。故に開村最初の頃は何れも忘郷の念禁じ難きに驅られ、其の休日の如きは各戸別々にして、甲は流汗農事に励むに、乙は故郷の祭日なりとし神酒を捧げて鼓腹の快楽を為すが如き、常に一致和合の団楽を採ることなかりしなり。当時三木定次郎の老翁大に之れを慨嘆し、凡そ一村の平和を保つは常に歓楽哀情を共にするにあり。然るに本村民は徒に忘郷の念に迷い、現住地の交誼を厚うせず。之れ鄕に入つて鄕に従いの道を知らざるものなり。須からく此の時に於いて祭日を定め、一村の礼を厚ふするに如かずと、時恰も西原安太郎氏外二三の賛同するものありしより、村内西八号に社日即ち地神を祭りて一部落の祭日とせり。

爾来是れに做うて村内各所に地神を祭るもの数ヶ所に及びたる結果、更に一大歩を進め、現在地即ち西四号に村社として、天照皇太神を安置し、八月二十五六日を以て祭日とせらる。因みに此の両日は東川村全部貸付許可の当日なる故、後世永く忘れざらんkとを期する為め特に此の日を以て祭日と定めたるものなると云う。

 

第十一 戸籍事項

第十二 馬籍
第十三 交通運輸
第十四 通信
第十五 土功水利
 一 東川村土功組合
 一 東川土功組合職員名簿
 一 東川村水利会
第十六 農業
 第一回東川村農会立毛品評会規則
第十七 工業及び林産
第十八 牧畜
第十九 営業種別
第二十 雑編
 一 勤倹貯蓄組合規定
附録
写真銅版挿絵
 一 人物略歴
 二 農場概況
 三 営業案内