奠北京於北海道上川議(岩村通俊)

奠北京於北海道上川議-1(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-1(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-2(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-2(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-3(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-3(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-4(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-4(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-5(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-5(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-6(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-6(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-7(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-7(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-8(画像作:風間)
奠北京於北海道上川議-8(画像作:風間)

(上記画像は実物ではない。私が本文を写して画像にした文書である。尚、誤字・脱字がありましたなら御寛容のほどお願い申し上げます。)

 

 奠北京於北海道上川議(岩村通俊)

通俊伏惟太政更始庶績咸熈而分教月洽武威歳
熾中興之業可謂偉矣然而シテ今ヤ洪業殆ト成
リ而シテ功猶一簣ヲ欠クモノアリ何ヤ曰北海
道開拓是也伏惟
陛下即位ノ初年首トシテ開拓之議ヲ羣臣ニ下
ス二年九月遂ニ開拓使ヲ北海道ニ遣ル通俊謹
テ當時其授クル所ノ勅ヲ按スルニ其
聖意北海道ハ北門ノ鎖鑰而シテ開拓ハ皇威隆
替ノ係ル所一日モ之ヲ忽ニス可カラス他日皇
威ヲ邊彊ニ宣ハ遂ニ北顧ノ患ヲ絶テヨト云フ
耳由是觀之開拓ノ重且大ナル昭々乎其明也
三年札幌ヲ闢キ始テ使廳ヲ建テ以テ北海道ヲ
總管ス先之通俊乏ヲ使班ニ承ク而シテ札幌創
始ノ業通俊實ニ之ニ任ス方此時道路未開舟楫
未利百物搬運ノ難キ殆ト絶テ僅ニ通ス雖然不
出數年移民漸増土田稍闢商賈亦随テ市ヲ為ス
於是乎開拓ノ規模乃始テ立ツ通俊曽聞札幌ヲ
距ル東四十里沃野アリ上川ト云フ山河襟帯重
鎮之地也ト於此竊ニ以謂ラク嗚呼有是哉以テ
開拓ノ大業ヲ興スニ足レリト然ルニ時草創ニ
属シ機會未タ至ラス而シテ通俊亦尋テ亰ニ還
ル恒ニ以テ憾トス
今茲十五年廟議遂ニ使ヲ發シ縣ヲ置ク於是通
俊復々本官ヲ奉シ北海道ヲ巡視ス爾来形勢一
變風教亦新而シテ農桑ノ播種牧畜ノ豢養ヨリ

土木ノ建築鉄路ノ布設ニ至ルマテ率ネ長ラ歐
米ニ取リ其成迹ノ顕着ナル復タ曩昔ノ比ニ非
ス雖然北海道ノ地タル沃野千里滄海四周陸ニ
ハ則鑛植ノ冨ヲ有シ海ニハ則漁塩ノ利ヲ剰ス
実ニ所謂天府ノ國也然而今其土田ヲ問フニ僅
ニ一萬五千町人口亦貳拾三萬ニ過キス是以テ
之ヲ大觀スレハ則索漠無人ノ境ト云フモ蓋シ
誣言ニ非ス
抑開拓使ノ業ヲ創ムルヤ他ノ沿海至便ノ地ヲ
措テ却テ使廳ヲ幽深曠野ノ札幌ニ置ク所以ノ
モノ他ナシ歩一歩ヲ進メ所謂難ヲ先ニシ易ヲ
後ニシ専ラ力ヲ開拓ニ盡スニ在ル耳
然ルニ獨リ憾ム其地タル今日ヲ以テ之ヲ観ル
ニ位置猶ホ偏隅ニ在リ未タ以テ開拓ノ大本ヲ
立ルニ足ラス然則宜ク別ニ一大根軸ヲ定メ以
テ永遠不朽ノ鴻基ヲ建テスンハアル可カラス
其策如何曰北京ヲ上川ニ置キ大擧民ヲ移シ土
ヲ闢キ農ヲ勧メ以テ一大都府ヲ開クニ在リ
夫レ上川ノ地タルヤ北海道ノ中心ニ位シ石狩
川ノ上流ヲ占メ土地肥沃森樹叢生河川以テ舟
楫ヲ通スヘク平原以テ鉄路ヲ設ク可シ苟モ今
日一大根軸ヲ開キ以テ永遠不朽ノ鴻基ヲ建ン
ト欲セハ之ヲ北海全道ノ廣キニ擇モ断シテ此
右ニ出ル者ナキヲ知ル是通俊ノ敢テ此議ヲ獻
スル所以ナリ
議者或ハ云ハン北京ヲ北海道ニ置クハ則可ナ

リ而シテ之ヲ札幌ニ置カスシテ上川ニ置ク所
以ノモノハ何也ト曰夫レ上川ハ形勢雄勝土地
膏腴以テ立トコロニ數萬戸ヲ移スニ足ル且ツ
上川ノ札幌ヲ距ル僅ニ四十里道路既開舟楫既
通セハ復々何ソ札幌ト擇ハン況ヤ上川既ニ盛
ナレハ札幌ノ如キハ自ラ其餘栄ヲ承ク勢固ヨ
リ然リ語曰登髙而呼其聲及遠ト其レ之ヲ謂フ
也是レ札幌ヲ棄テヽ上川ヲ取ル所以ナリ
嗚呼此挙タルヤ皇威ノ振フ所北門ノ鎖ス所事
固ヨリ盛大仰願
皇帝陛下羣臣ヲ率ヒ鸞輅親臨此ニ皇居ヲ相シ
假ニ行宮ヲ經シ以テ官衛ヲ営シ以テ市街ヲ畫
シ大ニ殷冨ノ基ヲ敷カン事ヲ果シテ然ハ則一
大根軸於是乎始立矣
夫レ根軸既ニ立ツ茲ニ又移民ノ方法開拓ノ秩
序ナカル可カラス請フ得テ詳ニ之ヲ陳セン蓋
シ方今移民ノ要ハ華士族ヲ誘導シ以テ之ヲ移
スニ若クハナシ何以言之夫レ華士族ハ曽テ藩
屏干城ノ任ヲ盡シ即チ帝室ノ股肱爪牙即チ國
家元氣ノ由テ振フ所顧フニ明治昇平ノ今日ヲ
致ス華士族與カツテ力アリ
然ニ桑蒼一變世途復タ古ニ非ス前ノ頼ンテ以
テ股肱爪牙トスル者ハ大率相率ヒテ窮乏飢寒
ノ氓トナリ其惨状豈之ヲ視ルニ忍ヒンヤ古人
有言曰古之君子相其君也一夫不得其所如已推
而内之溝中ト今華士族ノ如キハ何ソ啻タ一夫

ノ其所ヲ得サルノミナランヤ數十萬人殆ト将
サニ溝中ニ陥ラントス
今而早ク之カ計ヲ為サヽレハ其勢ノ至ル所散
シテ流亡無頼の氓トナラサレハ聚テ嘯合不逞
ノ徒トナラン耳
事既ニ此ニ至ル復タ奈何トモス可カラス故ニ
今速ニ之ヲ上川ニ移シ授ルニ之カ産業ヲ以テ
セハ不出數年恒産斯ニ足リ恒心斯ニ生シ而メ
志氣亦自ラ振ハン然則上ハ北門牢固ノ効ヲ致
シ而メ永ク治安ノ基ヲ廣メ下ハ優遊無為ノ徒
ヲ励マシ以テ遠ク子孫ノ計ヲ為サスム可シ是
レ実ニ禍福ノ由テ分ル所利害ノ由テ判ル所察
セスンハアル可カラス
議者又或ハ言ハン此擧クル美ハ則美ナリト雖
トモ獨リ華士族ニ厚クシテ他民ニ薄キハ何也ト
此言固ヨリ理アリ然レトモ是レ徒ニ空理ニ明ニ
シテ事實ニ暗シ如何トナレハ今他ノ農ト云ヒ
工ト云ヒ商ト云フ者ハ數世其土ニ安ンシ其力
ニ食ミ慨シテ之ヲ有業ノ民ト云フモ豈其レ不
可ナランヤ華士族ハ之ニ異ナリ一朝觧職彷徨
失途其窮乏ヲ致ス實ニ勢己ムヲ得サルニ坐スル
ノミ況ヤ華士族一タヒ移ルトキハ則他民亦随テ
其利ヲ収メ其益ヲ得ル是理ノ最モ覩易キモノ況又
功烈如彼其大ニシテ之ヲ棄ルニ忍ヒサルニ於
テヲヤ
然則此事タル遠謀大慮一刀両断々シテ而シテ

之ヲ決行スルニ在ルノミ尚何ソ區々ノ議ヲ顧
ルニ遑アランヤ
然而シテ其開拓ノ秩序ニ於ル首トシテ石狩川
ヲ浚ハ以テ舟楫ノ利ヲ通シ河ニ沿ヒ馬車道ヲ
布キ以テ往来ノ便ヲ開キ然後村落ノ位置ヲ定
メ阡陌ヲ開キ溝渠ヲ疏シ毎戸ニ耕地一二萬坪
ヲ授ケ以テ其家屋ヲ造リ之ニ加ルニ其移轉ノ
費用耕耘ノ器具ヨリ日常需用ノ米噌ニ至ル迄
一切之ヲ給シ専ラ恩恤保護ノ道ヲ盡シ移民ヲ
シテ感發励精以テ興産ノ志ヲ堅クシ以テ回顧
ノ念ヲ絶タシム可シ
雖然凡法寬猛並ヒ行ハレサレハ勢ヒ徒為ニ流
ル是以其法令ヲ明ニシ其約束ヲ厳ニシ怠惰ヲ
励マシ不良ヲ懲シ力メテ必成ヲ期スルヲ要ス
以上叙述スル所ノモノハ其事業繁且大ナリ勢
ヒ之ヲ地方官史ニ委スルヲ得ス因テ特ニ殖民
事務局ヲ上川ニ置キ其総裁ハ皇族之ニ任シ副
総裁ハ勅任以テ之ニ充ツ苟モ此ニ従事スル者
ハ総裁以下擧テ皆任所ニ駐在シ躬以テ率先衆
ヲ励マシ誓テ大成ヲ期スルニ在リ其レ既ニ如
此ナレハ宜シク又警虞ノ備ナカル可カラス故
ニ鎮臺ヲ札幌ニ置キ分営及ヒ警察署ヲ上川ニ
設ケ併テ以テ北海全道ヲ鎮壓ス可シ
然而今也開拓日尚浅其輸入ノ物價ハ常ニ不廉
ニシテ輸出ノ生産ハ亦販路ノ不便ニ苦シム故
ニ速カニ一大會社ヲ創設シ之ニ若干ノ資金ヲ

補給シ以テ物價ノ平准ヲ得セシム可シ
於是乎請フ得テ移民召募の制限併セテ經費ノ
支出ヲ論セントス通俊以為ラク今夫レ華士族
ノ窮困スルモノ何ソ限リアラン而シテ國帑ノ
歳計素ト自ラ限アリ有限ノ歳計ヲ以テ無限ノ
窮民ヲ救フ萬能ハサル所ナリ故ニ先ズ其移民
ヲ限ルニ戸數壱萬四千人口七萬ヲ以テシ而シ
テ之ヲ各府縣ニ召募シ漸次之カ移住ヲナサシ
メント欲ス
乃其経費ノ概算ハ殖民費聯帯費共ニ合セテ九
百八拾餘萬圓ナリ而シテ其経費ハ事業ノ緩急
ニ應シ之カ豫算ヲ立以テ之ヲ九ヶ年ニ支消シ
竟ニ其成功ヲ期スルニ在リ
因テ今其支出ヲ按スルニ廟議既ニ決スル所ノ
士族授産金五拾萬圓アリ且十五年度歳計豫算
ニ據レハ紙幣ノ消却ハ實ニ三百三拾萬圓ニシ
テ其百五拾萬圓ハ減債方案ノ支消ニ係ル則其
差額ニ於テ既ニ百八拾萬圓ノ餘裕ヲ見ル然則
今ヤ士族授産金ヲ以テ殖民費ノ原資トナシ之
ヲ補フニ前陳ノ餘裕ヲ以テセハ結局九ヶ年間
ニ九百八拾餘萬圓ヲ支出スル敢テ難キニ非ス
願クハ此機ニ際シ断然其支出ヲ吝マス速カニ
之ヲ決行セン事ヲ
夫レ九百八拾萬圓ハ巨額ナラサルニ非ス紙幣
消却ハ要務ナラサルニ非ス然ニ之ヲ北海道開
拓ノ有益ナルト華士族授産ノ急要ナルニ比ス

レハ其得失果シテ如何ソヤ試ニ他年開拓成功
ノ後ニ就テ其結果如何ヲ顧レハ即チ其移民ハ
七萬人其墾田ハ七萬町而シテ其一ヶ年ノ収穫
タル大約麦七拾萬石即金百五拾四萬圓ヲ得此
収穫タル実ニ永遠不窮ノ國益ニシテ乃チ他ノ
九百八拾萬圓ヲ以テ之ヲ九ヶ年間ニ買収シタ
ルト亦何ソ異ナラン果シテ然ラハ其殷冨何ソ
獨リ上川ニ止ランヤ其餘勢北海全道ニ波及シ
遂ニ邊陲不毛ノ地ハ變シテ生産繁殖ノ饒土ト
ナリ窮乏飢寒ノ徒ハ化シテ有産淳厚ノ良民ト
ナランノミ況ヤ此時ニ及テハ航海既ニ盛ニ鉄
路方ニ成リ千里一過頃刻啻ナラス北海道ノ遠
キモ殆ト比隣ノ如ク人民争テ之ニ趨リ猶水ノ
下ニ就クカ如ケン聞ク近来歐人ノ米國ニ移ル
者毎歳數十百萬ニ及フト是他ナシ航海鉄路ノ
便以テ之ヲ致スノミ而況ヤ我内地ノ北海道ニ
於ケル之ヲ歐米ノ懸隔ニ比スレハ僅ニ咫尺ナ
ルニ於テヲヤ夫レ能ク如此ナレハ普天之下遍
ク聖化ニ浴シ率土之濱孰レカ皇威ヲ仰カサラ
ン伏惟
陛下當初ノ勅旨於是乎始達矣嗚呼亦盛哉通俊
區々ノ心自ラ禁スル能ハス乃チ謹テ此議ヲ上
リ副ルニ經費概計殖民事務局組織概要及ヒ札
幌地方畧圖上川地勢畧記ヲ以テス請フ閣下裁
之通俊頓首

明治十五年十一月  會計検査院長岩村通俊

太政大臣三條實美殿

 

続く「奠北京於北海道上川議について