上川離宮物語り-お休み所の再現-
ここに「上川離宮物語り-お休み所の再現-」という小冊子がある。
昭和55年2月に旭川観光協会が発行した小冊子である。
前述の「上川離宮・お休所」を復元し、それを重要文化財に指定して欲しいと旭川観光協会が中心となり旭川市開基90周年を迎える記念の年に「上川離宮史跡保存準備委員会」が発足した。
この小冊子の巻頭に当時、旭川観光協会会長・大西功氏は「重要文化財指定に付き文化庁長官に訊ねる-史蹟の再現について」と題して次のように書かれている。
「日本の近代資本主義の揺籃期に明治政府は国策的見地、すなわち開拓政策などの実現を目途として、旭川市神楽岡の地を上川離宮予定地として決し、離宮造営の方針を固めた。しかるに惜しむらくはその後の日清、日露の戦いなど御造営計画は幻と消えた。とはいうものの離宮予定地として決定していたという歴史上の事実は厳然として残りこの予定地こそ立派な史蹟であると考えられる。」として「このことについて私は昭和五十一年、文化庁を訪れ、時の長官(現東宮大夫)安嶋彌氏と長官室で親しく語り合い旭川観光協会会長として上川離宮予定地を日本の文化財と指定してほしいとの願望を具陳要請をした。」とあり続けて、「その折り、長官は『国としては国政上の史蹟は考えれるが、例えば三笠山行在所は南北朝時代国政的史蹟として顕著なるものであるから文化財として指定している』と語り、さらに語をつないで『上川離宮は遺憾ながら予定地であることに問題がある。ただしその史蹟に何らかの物があれば、最近のリバイバルブーム即ち一城一廓を各地で再現を行っているようにその史蹟を史蹟を保存会の名において歴史を生かし史蹟を生かすことを考えてはどうだろう』との話であった。はしなくも上川離宮予定地の史蹟のなかには大正天皇皇太子時代ご来旭のみぎり『お休所』が造営され、ここにお立寄りをいただいている。(以下省略)」
以上の経過により、この「お休所」を再現し、それを上川離宮史跡として保存しようと上川離宮史跡保存準備委員会は運動を起こしたが、結局この「お休所」の再現は実現することは無く、上川神社に「史蹟 上川離宮予定地」の記念碑を残すのみとなった。