

「ビルマの竪琴」ができるまで』竹山道雄著 抜粋
竹山道雄著の「ビルマの竪琴」(昭和46年4月10日発行:ポプラ社刊)の196頁~210頁に著者の『「ビルマの竪琴」ができるまで』と題して書かれた記述がある。
下記にその抜粋を記す。
「ビルマの竪琴」ができるまで 竹山道雄
戦後まもなく、「赤とんぼ」(児童雑誌)の編集長の藤田圭雄さんがわたしの家にこられ、なにか、児童むきの読物を書け、といわれました。・・・・・
あの物語は空想の産物です。モデルはありません。
最初には、場所は、シナの奥地の、ある県城というつもりでした。・・・・・
しかし、この合唱による和解という筋だては、場所がシナではどうも、うまくいきませんでした。日本人とシナ人とでは共通の歌がないのです。・・・・・
共通の歌は、われわれが、子供のころからうったていて、自分の国の歌だと思っているけれども、実は、外国の歌であるものでなくてはなりません。
「庭の千草」や、「ほたるの光」や、「はにゅうの宿」などでなくてはなりません。そうすると、相手はイギリス兵でなくてはならない。とすると、場所はビルマのほかにはない。
――実は、こういう事情から、舞台がビルマになりました。
ところで、わたしは、ビルマにはいったことがありません。いままで、この国には関心も知識もなく、敗戦のもようなどは、なにも報ぜられなかったのですから、ようすは少しもわかりません。・・・・・
(第一話は昭和二十一年1946年、書きあげたのが九月二日)ようやく翌年三月号に掲載されました。・・・・・
第二話以下が雑誌にのったのは、昭和二十二年九月号からでした。
しかし、あのころは、材料が手にはいりませんでした。・・・・・
第二話以下の構想をたて、日夜それが頭にあったとき、ある日、ぐうぜんのことから、ビルマの戦争についての、わずかな知識をえる端緒ができました。・・・・・
ある日、電車にのっていました。(隣の人の手の雑誌)・・・・・
見るともなくみると、その記事は、ビルマの戦争のようすを報じたものでした。・・・・
それが「月刊読売」であることがわかりました。
わたしは駅におりると、すぐにそれを買いました。四ページばかりの短い記事でしたが、ここにはビルマ全国に日本兵の白骨がるいるいと野ざらしになっていることが報じてありました。・・・・・・
わたしの知人が、ビルマから帰還してきました。
あまりくわしい話を聞くことはできませんでしたが、ただ「日本兵が敗戦後に脱走して、ビルマ僧になっている者がある」ということを聞き、これだと思いました。
これで、筋だての輪郭がきまりました。・・・・・
あちらこちらに、ずいぶん無理な筋や、へたなつくりごともできてしまいました。
戦場のもようは、ニュース映画などを見た知識から、あるていどまでの想像はつき、それに本格小説ではありませんから、あのくらいのことをかくのは空想ですみました。
ただ、いかにもこまったのは、ビルマの風土や風俗でした。ちかくの図書館で、「世界地理風俗大系」を読みましたが、これはかんたんにすぎました。ひまがないので、遠くの大きな図書館に調べに行くことはできませんでした。・・・・・
一冊のビルマの写真帳をみつけ、二十円で買って、これが大きな参考になりました。
物語が世にでたあとになってから、ビルマに関する本をかなり読みましたが、それで見ると、具体的な点では、まちがっているところがいくつもあることがわかりました。なにも知らないで書いたのですから、まちがっているほうが当然なくらいです。たとえば、ぼうさんの生活などはなにもわかりませんでした。
ぼうさんがはだしであるいているようにかきましたが、それはあやまりで、ぼうさんにかぎって、日本人が「ポンジーぞうり」と呼ぶものをはいているのだそうです。
ビルマから三人の新聞記者がきて、あの英訳本を読んで、宗教関係にまちがったところがあるが、ビルマ人は宗教についてはきわめて敏感だから、これをビルマに紹介する時はこの点に気をつけるように、といわれました。あれをビルマ語に訳そうという計画があり、その許可をもとめてこられましたから、喜んで同意しましたが、はたして、仕事はすすんでいますかどうですか。
(以下省略)