

「ビルマの竪琴」の批判(現地ビルマの人)
「ビルマという国――その歴史と回想」という本がある。
この本は元駐ビルマ大使であった鈴木孝氏が「ビルマ」について書かれた本である。
この本、第三章『ビルマ回想』の中に『ビルマの竪琴』として、現地ビルマの人がこの『ビルマの竪琴』を批判しているKO・KO氏の抗議文が載っている。
「ビルマという国――その歴史と回想」
(八)『ビルマの竪琴』(246~249頁)より
第二次大戦直後、わが国がまだ虚脱状態にあった頃、ベストセラーとなり劇化もされた竹山道雄教授の名作『ビルマの竪琴』は、後にビルマ語の翻訳されビルマでも市販されたので、かなりよく知られている。(中略)
私がビルマに在勤している間の一九七二年三月十一日付のビルマの国営英語日刊紙ワーキング・ピープルズ・デリーに、この著作に抗議する一文が載ったのである。
『この不潔で不便極まる国の国民』という標題で、著者の名はKO・KO。むろん仮名であろう。私が興味をもって読んだところ、彼の言い分はこうである。
〈わたしは最近、タケヤマ・ミチオ氏の『ビルマノタテゴト』という日本語の本の英訳を読んだが、読んでみて、これは読まなければよかったと思った。
というのは、他人が自分をどう見ているかぐらいのことは自分で分かるようになったつもりでいたのに、この本を読んだら、他人の自分に対する見方が分かるためには、ロバート・バーンズ(スコットランドの詩人)の言葉の通り、それだけの〝才能〟を要することを思い知らされたからだ。
そう思うと、わたしはこの本に無性に腹が立った。
わたしの憤慨が正しいかどうかは、この本の内容を正しく読者の皆さんに紹介できるかどうかにかかっているが、結論的に言うと、この日本の若い高校生に推奨されている世界文学の古典の一つであると聞いては、わたしは狼狽せざるを得ないのである。
しかもこの本がアメリカの一教授によってユネスコの翻訳集のために英訳されたと知っては、いよいよ驚くのほかはない。(中略)
この本の文学的価値そのものについては、ビルマ人も含め誰も文句は言わないにしても、真実が無責任な空想の犧牲となっているという点では、この本は読者のみならず作者にとっても翻訳者にとってもまたユネスコにとっても、何ら意味のないものである。
いわんやビルマは被害者である。
日本の毎日新聞社がこういうことを看過して作者に文学賞を授与したのは、いったいどうしてだろう。
理解に苦しむ。
この本は、ヒロシマ原爆後にビルマのジャングルを縫い、山を越えて敗走する日本軍の一部隊を描いた物語である。
きびしい困難の中で歌を合唱することによって彼らがいかに士気を支えたか、またその兵士の一人が戦死した戦友を弔うためにいかなる思いを抱いてビルマ僧となり、日本に送還された部隊のあとに居残ったかが語られている。
『栄光の代償は何か』といった意味での、ある感情が表現されている点で、また一民族の横柄さや貪欲さが長い目で見てどんな価値があるのか質問を投げかけている点で、この本は考えさせられる著作だといわれている。
それはこれでもちろん結構である。
しかし日本の兵隊の目を通してビルマの慣習が示されているが、その示し方はいかにも不遜で恩着せがましく、わたしはこれには全くびっくりする・・・・・
しかもこの本の中には、あまりに滑稽なので、まさか嘘だとは言えないようなナイーブな話が書かれている。
例えば、ビルマの追い剥ぎはピストルを携行しているのみならず、相手のロンジーを取り上げてしまう場合に備えて、相手に与えるバナナの葉も携行していると書かれている。
そしてビルマ人に、『我々は極めて低い生活水準に満足している。我々には欲はない。もっとハッキリいえば、我々には野心というものがないのだ。』と言わせている。
有難う、ミチオさん。
この本が書かれた頃には、今、ビルマ政府が行っている『ヤミ撲滅運動』は始まっていまかったのだから。
我々ビルマ人は自分自身の在り方を大いに反省してはいるのだが、この本の中には次のような二人の日本人の会話が出てくるのである。
『それなら、いつまでもこのビルマ人のように未開のままでいていいというのかね?』
『ビルマ人が未開かね?われわれの方がよっぽど野蛮じゃないかと思うことがよくあるのだが』
『これはおどろいた。こんなになにもかも不潔で不便極まっていて、学問や労働によってひとり立ちになろうという意志もない国民より、われわれの方が野蛮なのか?』
大変手厳しいやりとりだ。しかし我々は、それほどひどい国民だとは思っていないのだが、どうだろう。
また、わたしのカチン族の友人がこの本の中の次のくだりを読んだら、どう感じるだろうか。
『カチン族といえばきいたことがあります。これは二十四、五万人もいる種族で、かれらは首狩りをして、人間の肉を食う。捕虜をつかまえると、それを焚火のそばにねかせて汗をながさせ、まんじゅうのような食物にその汗をしみこませて食べる。そして、そのあとで人間をも料理する』〉
(以上の会話は『ビルマの竪琴』の原文から引用した。)
ここでこの一文は終わっているが、筆者KO・KOが問題にし憤慨しているのは、彼も言っているように作品の文学的価値ではなくて、ビルマが『不潔で不便極まる国』とされ、ビルマ人が「野蛮」とされていることにあるようである。自分の国や国民について読者にこのような印象を与える叙述は、我慢ならないということのようである。
私はこのKO/・KOの憤慨は無理ないと思う。
自分が意識し反省をしている弱点を他人からするどく指摘されたら、その人はどう反応するだろうか、ということである、ビルマの国民は総じて内省的でおとなしく、いわゆる言挙げをするのを好まないから、外部からはよく分からないけれども、『ビルマの竪琴』を読んで案外心の中では反発している人も一人二人ではないのではないかと、この一文を読んで感じたことである。というのは、私が観察した限り、ビルマ国民はそれなりに大変高い誇りを持ち続けている国民だからである。
【鈴木 孝 すずきたかし】
明治44年東京に生まれる。昭和10年、東京帝国大学法学部卒業。日本ビルマ合同委員会政府代表代理、在カナダ大使館参事官、駐南アフリカ共和国プレトリア総領事、大臣官房国際資料部長を経、70年駐ビルマ大使、74年駐メキシコ大使、76年駐インド大使となる。日緬両国間の友好の貢献者としてしられる。ビルマ在任中にビルマの人間としての良さに直接触れ、日本人のビルマに対する正しい理解を得たいとの意図から『ビルマという国――その歴史と回想』を執筆した。
【ビルマという国――その歴史と回想】
昭和52年6月23日 初版発行
著者 鈴木孝
発行所 国際PHP研究所
参照 「ビルマの竪琴」の批判(本文)