再「上川平原之實景」

上川平原之實景(其一~其四)
上川平原之實景(其一~其四)
上川平原之實景(其五~其八)
上川平原之實景(其五~其八)
上川平原之實景(其九~其十二)
上川平原之實景(其九~其十二)
上川平原之實景・旭川區発行封筒
上川平原之實景・旭川區発行封筒

再「上川平原之實景」

この「上川平原之實景」は前に一度掲載したことがある。
それは「続続・上川離宮」の項にて掲載したが、あまり良い状態のパノラマ写真葉書ではなく、又、其一、其二が欠けていた。
その後、新たにほぼ完全な「上川平原之實景」を入手することが出来たので、再度掲載することにした。
前回は分からなかったが、この二枚連結のパノラマ写真葉書は其一から其十二まであり、封筒に入っている。

そこには「大正五年五月二十四日撮影」と印刷されていて、当時の「旭川區」が発行したものである。

岩村通俊達が明治十八年八月二十七日、近文山に登り、実際に見た上川盆地はまだ草木が生い茂り、原野のままの状態であったが、このパノラマ写真葉書では既に田畑が広まり、旭川の区画が定まり市街地が整備されつつあり、鉄道が敷かれ蒸気機関車も走っている。
しかし、石狩嶽(大雪山旭岳)などの近隣の山々、石狩川、忠別川、美瑛川の流れはそのままであり、当時の面影が見て取れる。

この雄大な上川平原を実際に岩村通俊達が見て、感激し近文山に碑を立てたのである。
そのことは岩村通俊の「貫堂在稿」の「上川紀行」では『上川に達し、近文山に上る。山は川を距ること十餘丁、原野を一矚すべし。時に微雨瞑曚(めいもう)、眼を馳する能はず。既に雨霽(は)れ雲散じ、山河形勢、歴歴睫上(しょうじょう)にあり。余、此の行を圖る年あり。而して職事鞅掌、東西を奔走し、之を果すこと能はず。今や山に臥し野に宿する六日、始て此に至る。天にして知る有らば、亦當に雲霧を披きて以て相酬ふべきなり。乃ち福士をして全景を寫さしむ。上川、東西約四里、南北七里、石狩嶽高く半空に聳え、遠く十勝・忠別の諸峰と相接し、群巒重畳、波の如く濤の如く、起伏際り無し。而して石狩・美瑛の諸川、其の間を貫絡す。皆曰く、何ぞ甚だ西京に類するや。是れ實に我が邦、他日の北都なりと。蓋し石狩嶽は比叡山に似、其の川は鴨川の如くにして、規模の大、遠く之に過ぐるなり。』と記した。
又同書、『奠北京於上川議」では『始て上川に達し、近文山に登る。偶(たまたま)雲霧瞑朦、眼を馳すること能はず。已にして雨晴れ雲散し、山嶽原野、歴歴として目睫(もくしょう)に在り。欣然として以爲(おもえらく)、是れ上川開くの前兆なりと。蓋し其の地を概見するに、東西四里、南北七里ばかり。石狩、忠別、美瑛等の諸川、其の間を貫穿し、而して石狩嶽高く東方に聳え、遠く十勝、忠別の諸峰と相接し、群巒起伏して、其の状(かた)ち波濤の如し。』と記したのである。