続続・上川離宮

上川平原之實景-3.4.5.6
上川平原之實景-3.4.5.6
上川平原之實景-7.8.9.10
上川平原之實景-7.8.9.10

続続・上川離宮

 

上川離宮  続・上川離宮

 

上の4枚のパノラマ写真は「上川平原之實景」と題した2枚連結の絵葉書である。

残念ながら(其一、其二)は無い。

(其五、六)に鉄道が有り、蒸気機関車が走っているのが解る。

旭川までの鉄道は明治31年5月25日に開通したので、その後の写真で原板は航空写真ではないかと思う。

旭川は石狩川、忠別川、美瑛川の合流する所で、周囲山々に囲まれており、上川盆地の中でも気温の高低差が大きい所。

明治35年1月25日(1902年)上川測候所(現在:旭川地方気象台)で氷点下41.0度の日本最低気温が記録された。夏も結構暑い。

 

前述の「上川離宮」の如く、明治二十二年十一月十四日、永山武四郎は切々と北京と離宮を北海道上川郡に設置すべきと内閣總理大臣に訴えたのである。

その原文の最初に「北海道廳長官永山武四郎頓首再拝」とある。

北海道廳長官(岩村道俊、永山武四郎)としては以前にもこの事を建議したことがあるので「再拝」と書かれている。

 

明治15年(1882年)、岩村通俊(会計検査院長)は上川への北京(ほっきょう)設置を明治政府に建議。

明治18年(1885年)、岩村通俊(司法大輔)は永山武四郎、長谷部辰連、佐藤秀顕等を引き連れ、近文山から上川盆地を初めて視察。この視察の帰途直後、函館から「奠北京於北海道上川議」という建議書を内閣に提出した。

明治19年(1886年)に初代北海道廳長官として岩村道俊が就任。

明治21年(1888年)に永山武四郎が第二代北海道廳長官に就任。

明治22年(1889年)、永山武四郎は再度「北京と離宮を北海道上川郡に設置すべき」旨を建議した。

 

将に、明治18年(1885)8月27日朝、岩村通俊、永山武四郎等はアイヌの人々の案内で、近文山に登り自身の目で、上のパノラマ写真のような、上川盆地の大平原を見たのである。

 

その時のことを岩村通俊は紀行文の中で次のように述べている。

 (昭和6年12月28日・旭川市役所発行・旭川市稿上巻107~108頁参考)

 

「二十七日 暁、春志内を發す。巉巖河中に錯立し、流水奔りて之に觸れ、砕けて雪の如し、舟其間を過ぐ嶮甚だしく危甚だし。舟子乃ち棹を擧げ舷を叩く、云ふ河神に祈りて覆没を免るヽなると。八時上川に達し、近文山に上る。山は川を距ること十餘町、原野を一矚すべし。時に微雨瞑矇、眼を馳する能はず、久くして雨霽れ雲散じ、山河形勢歴々睫上にあり、余此の行を圖る年あり。而して職業鞅掌、東西を奔走し、之を果すこと能はず、今や山に臥し野に宿する六日、始て此に至る、天にして知る有らば、亦當に雲雨を抜きて、相酬ふべきなり。乃ち福士をして全景を寫さしむ。上川東西約四里、南北七里。石狩岳高く半空に聳え、遠く十勝・忠別の諸峰と相接し、群巒重疊、波の如く濤の如く、起伏際りなし、而して石狩・美瑛の諸川、其間を貫絡す。皆曰く何ぞ甚だ西京に類するや。是れ實に我邦他日の北都なりと。蓋し石狩岳は比叡山に似、其川は鴨川の如くにして、規模の大、良に遠く之に過ぐるなり。行厨を披きて一酌す。午時山を下り舟に上る、舟疾きこと箭の如く、瞬間春志内に達す。即時歸途に就き霧多布に抵りて宿す。」と。

 

その翌々日、札幌の公園偕樂亭で祝杯を挙げ、皆から「上川を檢する吾人を以て始とす。宜しく一碑を近文山に建て、以て永く後代に垂るべし」と云われ、岩村通俊はその草稿を撰した。

 

「明治十八年八月岩村通俊・永山武四郎・長谷部辰連・佐藤秀顕等、各以官事登此山。則山河圍繞、原野廣大、實有天府之富。他年大道如砥、都府已成、相與再登、擧杯酣飲、以談今日也。乃相謀建碑、以遺之後云。」と。

 

(通俊は是より函館に到り、旅館に於て北京を上川に奠くの議を草して内閣に郵送し、尚ほ歸京の後、本道の經營に關し、復命する所ありたり。永山武四郎も亦此行に於て、殊に上川の要地たるを感じ、上川開拓の爲め大に盡力することヽなりたり。)

 

(近文山の碑は札幌縣屬白野夏雲に委託し、明治十九年近文山に建てたるものにして、旭川市を距る二里餘、近文驛を距る二十丁、近文山の頂上に在り、高さ四尺五寸にして、方四寸の標柱狀に作られ、三面に前掲文章を刻したり。) 

 (以上、旭川市役所発行「旭川市稿」上巻107~108頁参考)

 

この碑は現在、旭川市嵐山の国見峠に「国見の碑」として建っている。

まさに岩村通俊、永山武四郎等が見た上川平原は素晴らしく、興奮冷めやらぬ樣子がうかがい知れる。 

 

上川離宮予定地
上川離宮予定地
神楽岡碑
神楽岡碑
神楽岡碑・説明文
神楽岡碑・説明文

現在、上川神社にある「上川離宮予定地」の記念碑の側面には次のようにある。

 

「神楽岡は、明治天皇が明治二十一年この岡を上川離宮(皇居のぼかにある天皇の宮殿のこと)の予定地と宣達あらせらた歴史的意義深い地である。これは本神社配祀の祭神である第二代北海道庁長官・屯田兵司官永山武四郎将軍が、初代道庁長官岩村通俊の北京を上川におく上川開発の意志をつぎ、幾多の辛酸をなめて明治二十一年九月二十四日この岡に登り、離宮造営を決意し、上川の清き流れに身をそそぎ 神楽の岡に行幸仰がん。畏みし神のまします位山 民仰ぐべき行幸をぞ待つ。と詠まれ、翌年十一月上川離宮造営の建白があったことによるもので当時将軍が書かれたこの御歌短冊は神社の宝物となっている。

上川神社には本道開拓に功労のあった鍋島直正(初代開拓使長官)、黒田清隆(第三代開拓長官)、永山武四郎(屯田兵本部長、第二代北海道庁長官)、岩村通俊(初代北海道 長官)が共に配祀の神としてまつらている。」  

 

又この後には「神楽岡」の碑と、永山武四郎の「歌碑」が建っている。

 

神楽岡碑 宮内大臣正二位勲一等法學博士 一木喜徳郎題額

旭川市の南に丘陵あり神楽岡と稱す 眺矚曠豁風光明麗忠別の清流に臨み大雪の峻峯に對し上川の平原一眸の下にあり洵に景勝の區たり 而して上川の平原は地積廣大土壌膏腴にして夙に天府を以て稱せらる 明治十五年同十八年岩村通峻官事を以て本道を巡視し前後両次北京(ほっきょう)を上川に建設するの議を上(たてまつ)る 其後永山武四郎道廳長官と爲(な)りて通峻の素志を嗣き明治二十二年十一月更に建府の議を上(たてまつ)る 同年十二月朝廷之を嘉納し給ひ神楽岡を以て離宮豫定地と定められ翌年十一月附近一帯の地を世傳御料に編入せらる 是に於て人心歸嚮し庶民來集し開拓の業比に就(な)り月に將(すす)み 熊羆(ゆうひ)の窟(いわや)忽ち化して大都と爲り荒蕪(こうぶ)の野(や)終(つい)に變して美田と爲る 明治四十四年九月 大正天皇 東宮にましましし日此岡に行啓あらせられ開拓の功を嘉賞し給ふ 大正九年五月上川神社の境域として此岡を借り同十三年六月神社を移遷す 大正十年八月世傳御料を解除せられ同十三年十月神社の借地を神域に編入せらる 茲に居民胥(あい)謀り此事跡を碑石に勒して後世に傳へ以て昭代(しょうだい)の豫光を頌(しょう)する也

 昭和六年歳在辛未十月  北海道廳長官従四位勲三等池田秀雄譔文

             縣社上川神社社司    柴田直胤拝書

                     石巻市 石井敬三郎 刻

大正十四年五月十日 建碑を計画

昭和八年十一月二十五日 建碑竣工除幕式

 

後方の歌碑は永山将軍神楽岡の詠

「上川の清き流れに身をそヽき 神楽の岡に美幸仰かん」

を令嗣男爵武敏氏にご揮毫を戴き建碑

 

明治44年 皇太子殿下御旅館(偕行社) 旭川町・絵葉書
明治44年 皇太子殿下御旅館(偕行社) 旭川町・絵葉書
上川神社・拝殿
上川神社・拝殿