上川離宮
旭川市神楽岡にある上川神社のお祭りが7月20日宵宮祭、21日例大祭、22日後日祭で行われた。
上の写真は明治44年の絵葉書で裏のスタンプに「皇太子殿下北海道行啓紀念」とある。
この時の皇太子は後、大正天皇に即位された。
その昔、第二代北海道庁長官となった「永山武四郎」は明治22年に北海道上川郡に北の京(北京)と離宮を建設すべきと総理大臣に進言したのである。
その離宮の建設予定地となったのが、現在の旭川市の上川神社がある場所である。
当時、永山武四郎は切々と北京と離宮を北海道上川郡に設置すべきと内閣總理大臣公爵三條實美に訴えたのである。
北海道上川郡にと指定してはいるものの、実際の候補地は旭川であった。(当時、旭川村はまだ無かったのである。)
その原文は次の通り。
北海道廳長官永山武四郎頓首再拝
謹惟に凡そ治國の要務は富強を謀るより急且大なるはなし
方今國家日に開明の域に進み富強の實倶に擧り復た議すへきなしと雖も大に慮るへきものは獨り北海道開拓の擧たり
明治中興の初 朝廷蝦夷を改て北海道と稱し開拓使を建てヽ之を管し尋て函館札幌根室三縣分治の制を布き更に北海道廳を置かれ前後二十餘年力を拓地殖民の業に致し土地の墾成人口の繁息産業の興起交通の便利より兵備教育等の事に至るまて復た昔日の觀に非す
其成績縷述するに勝へす
然とも其境域の廣濶なる今尚人口平均一方里四十六人餘田圃僅に總面積百分の三に上さす
未た地に遺利あり業に遺功あるを免れす豈に慨歎に堪ゆへけんや
夫れ北海道は總面積無慮六千九百餘方里其廣袤四國九州を合するも猶遠く本道に及はす海内四分の一を占る一大島にして土壌肥沃気候動植に物に適し鑛山森林に富み鱗介菜藻無盡の産あり
其状況恰も寶庫を開て以て人の取るに任すか如し
唯己れの力を致す如何にあるのみ
然り而して拓地殖民上た長足の進歩を見さる所以のものは何そや
交通尚未た不便なるか爲めか抑も又氣候沍寒なるか爲めか
是等皆其進路を遮るの一原素たるを免かれさるへしと雖も職として全國人民か敢爲勇奮進取の氣象に乏しく徒らに旧里に安し
僅に褊小の地を耕し藜藿を喰ひ襤褸身を纏て以て足れりとするもの之れか一大障害を爲すに由らすんはからさるなり
我邦人口歳に多きを加へ加之器械力の試用大に發達し細民の生計漸く困難に陥らんとするの時期に瀕すと雖も尚北海道を目して絶海の孤島とし痛く之を嫌厭し移住を欲せさるものヽ如し
何そ其れ思はさる甚きや
今此の一大障害を除却し人民を誘導して以て冨源を開通し國力を發達せんと欲せは北京を北海道に設定し天下の人心を北海道へ歸嚮せしむるに若くはなし
其設定すへきの地を擇はんとならは石狩國上川郡を尤も可なりとす
上川郡の地勢たるや殆と全道の中央に位し四面山を帯ひ沃野數里に亘り東は釧路に連り南は十勝に接し北は天盬北見両國に隣して天盬川に出つるの便を有し國境皆山あり
頗る要害の地勢を占むと雖も亦道路を開き鐵道を架するに難からさるなり
石狩美英忠別の三川平原を貫流して神居古潭(天𡸴の地名)の頭に合して本流をなし沃野數十里に横り河口は小樽の要港に近し
上川郡の清流も亦啻に運輸の便利を與ふるのみならす夏は軽舟に棹すに宜しく秋山の紅葉殊に美観を極む
已に選定ありたる御料地内忠英山より下瞰すれは新たる開くへきの屯田兵村地は井然として林樹の間に隠顯す風光の美なる眞に名状すへからす
茲に一両年を期し兵を置き地を開き復た漸を追ふて室蘭鐵道を延長し神居古潭の嶮を越へ上川平原に入り之を北見網走に及ほし終に釧路の鐵道に合し折れて根室に達し大道は南十勝に通し北は天盬川口に至らしめん事を展幾す
都下炎熱の候
龍駕此地に巡狩せられ
至尊玉體の御健康を衛らせ玉ひ又親しく拓地殖民の事業經營の顛末状況を
叡覧あらせらるヽこときは人民の感情更に深きを加へ粉骨韲身以て至仁の恩旨に荅へ奉るへきのみならす天下民心の歸嚮する所大に定まり移住を嫌厭したる迷夢は倐ちに消滅し千里の波濤比隣も啻ならさる習慣を馴致すへきは毫も疑を容れさるなり
或は曰く北海道は極北沍寒帝都を置くの地に非すと是れ何の言そや
彼の海外各國の都府を視るに多くは皆四十三度乃至五十九度の位置にあり寒氣北海道の上に出る所なきにあらさるも能文明繁華を極め宇内に雄飛するにあらすや
殊に北海道の空氣清爽人身に適し内地惡疫滋きの比にあらさるは衛生に關する各統計に就て之を觀るも明かにして論者の言固より取るに足らさるなり
夫れ上川の地たる前已に述ふるか如く四通八達所謂天府の地にして全道を控御するに足る
縦令俄に宮殿の尊嚴輪奐の美を仰くを得さるも一旦帝都の名定まり加ふるに東北鐵道青森に達し空知室蘭間功成り之と連絡するの日に於て萬機の餘暇車聲轔々北海に幸し玉はヽ官民歡呼して奉迎し衆目瞻仰し是に於て乎北海の風氣愈開け人民堵の如く聚り益産業に富み獨立不覊國家の富強を賛け其當道の事業に裨補する豈に淺鮮ならんや
武四郎 任を此土に承くる前後十有五年既徃を察し将來を考へ内外の大勢を顧れは轉た感慨に禁へさるなり
伏願くは一日も速く上川に北京を定められんことを聊か卑言を陳し敢て尊嚴を冒瀆す
幸に採納を賜らは何の榮か之に過きん恐懼の至に堪ゆるなし誠恐頓首謹言
明治二十二年十一月十四日 北海道廳長官永山武四郎 印
内閣總理大臣公爵三條實美殿
これを受けて、宮内大臣土方久元は内閣の各大臣にこの建議を回覧させた。
明治二十二年十一月十九日 内閣書記官 印
内閣總理大臣 内閣書記官 印
各省大臣(外務・大蔵・海軍・文部・逓信・内務・陸軍・司法・農商務、連印の欄)
宮内大臣建議北海道石狩國上川郡に北京を設定せられ度の件
右 回覧に供す
宮内大臣並北海道廳長官建議北海道石狩國上川郡に北京を設定せられ人心を北海道に帰嚮せしむるの件
右特に法制局調査に付せられ候間御審議の上勅令案御上申相成度此段及御照會候也
明治二十二年十二月二日 内閣書記官長小牧昌業 印
法制局長官 井上毅殿
法制局長官井上毅は難色を示したが(この文書は省略)、内閣總理大臣は山縣有朋となり、宮内大臣土方久元は再び建議をする。
北海道は土地膏腴魚藻豐饒國家の冨源に付同道石狩國上川郡内の地をとし他日一都府を立て離宮を設けらるヽに付夫々計畫施設可致旨被仰出候右申牒す
明治二十二年十二月二十五日
宮内大臣子爵土方久元 印
内閣總理大臣 伯爵 山縣有朋殿
内閣總理大臣は「上川郡内に一都府を立て離宮を設ける」と北海道廳長官宛に通達することを決定する。
明治二十二年十二月二十五日
内閣總理大臣 印 内閣書記官長 印
別紙宮内大臣申牒の趣に依り左案の通北海道廳へ可被達哉
達案
北海道石狩國上川郡の内に於て他日一都府を立て離宮を設けらるヽに付夫々計畫施設可致旨被仰出此旨相達す
明治二十二年十二月二十八日 内閣總理大臣
北海道廳長官 宛
官報へ掲載案
北海道石狩國上川郡の内に於て他日一都府を立て離宮を設けらるヽに付夫々計画施設可致旨 去年十二月二十八日内閣總理大臣より北海道廳長官へ達せられたり
明治二十三年一月十六日官報
しかして後、北の都・北京は成立しなかったが、北海道石狩國上川郡の内(旭川)に離宮を建設すべく、その予定地は神楽岡に設定されたのである。
この絵葉書では「旭ヶ岡」となっているが、後の正式名称は「神楽岡(旧上川郡字ナエオサニ)」である。
皇太子殿下北海道行啓の折りに、上の絵葉書に書かれている「離宮建設予定地」を視察されたと云う。
その後、「離宮建設」はいつの間にか無に帰し、その地に大正13年「上川神社」が移転建設された。
尚、上の永山武四郎の建議書などは“国立公文書館・変貌-江戸から帝都そして首都へ-15.北海道上川郡に「離宮」設置”公開文書に依った。