「奠北京於北海道上川議」と「奠北京於上川議」

貫堂存稿(昭和9年発行)再本・風間蔵書
貫堂存稿(昭和9年発行)再本・風間蔵書

「奠北京於北海道上川議」と「奠北京於上川議」

 

岩村通俊が建議したものに「奠北京於北海道上川議」と「奠北京於上川議」とがある。

混同してならないのは「奠北京於北海道上川議」と「奠北京於上川議」は全く別の建議書であること。


奠北京於北海道上川議」は明治十五年(1882)十一月に当時、會計検査院長であった岩村通俊が太政大臣三條實美に出した建議書である。

これが本来の「奠北京於北海道上川議」であり、岩村通俊が後、明治十八年に建議したのは再建議書である。


それは明治十八年に再建議した「奠北京於上川議」の中でハッキリと書かれている。
『通俊、曩(さき)に會計検査院長を以て北海道を巡視す。上書し北京(ほっきょう)を上川に建設し、殖民局を置き以て之を管するの議を上書して、以て通俊十數年の素志を述ぶ。得失利害、備(つぶ)さに其の書に在り。』と。


しかし、岩村通俊が明治十五年と三年後の明治十八年に「上川議」を建議した為、紛らわしいことになる。
これを区別するに、「新旭川史第六巻史料一」(平成5年(1993)3月31日発行)では、岩村通俊の明治15年の建議書を「奠北京於北海道上川議」とし、明治18年のものは仮称として「奠北京於北海道上川再議」としている。


しかし、「奠北京於北海道上川再議」は仮称である。
そもそも、明治18年の建議には当初、題名が書かれていなかった可能性がある。
「新旭川史第六巻史料一」157頁に「奠北京於北海道上川議」と「奠北京於北海道上川再議」との二書の書き出し一頁目の画像が掲載されているが「奠北京於北海道上川議」は『奠北京於北海道上川議』と題して『通俊伏惟太政更始庶績咸熈云云』と書かれているのに対して、「奠北京於北海道上川再議」と称する書は題名が無く、『謹て白す通俊曩に會計検査院長を以て云云』と書き出されているのみである。

だが、最近あることに気づいた。
それは岩村通俊の『貫堂存稿』にある明治十八年の建議書には「奠北京於上川議」とあり、『北海道』の文字が記入されていないことである。


その為、明治15年の建議書を「奠北京於北海道上川議」とし、明治18年の提議書を「奠北京於上川議」とし、『北海道』の文字が入っているか如何によって区別するのが妥当かと思う。

『貫堂存稿』とは岩村通俊の遺稿をその長男岩村八作が纏め大正4年9月5日に和本上下二巻で出版したのが最初の『貫堂存稿』であり、その後、「男爵岩村通俊」銅像建設記念として上下二巻を一冊に纏め、昭和九年六月十五日再発行し関係者に頒布したものが上画像の『貫堂存稿』である。
ちなみに「貫堂」は岩村通俊の号である。