皇太子殿下北海道行啓・明治44年 ①

皇太子殿下北海道行啓・明治44年-1
皇太子殿下北海道行啓・明治44年-1
皇太子殿下北海道行啓・明治44年-2
皇太子殿下北海道行啓・明治44年-2

皇太子殿下北海道行啓・明治44年 ①

 

明治44年、皇太子殿下嘉仁親王は北海道各地を行啓された。

この皇太子殿下北海道行啓について旭川行啓を中心として書かれたものに「旭川市稿」がある。

「旭川市稿」には詳しくこの東宮行啓について記載されているが、長文な為、三回に別けて掲載する。

 

皇太子殿下北海道行啓・明治44年 ①

「旭川市史稿・上巻」 (661頁~667頁より)

第十五章 東宮行啓

 第一節 旭川御巡啓

明治四十四年八月皇太子嘉仁親王(大正天皇)本道行啓。

十八日東京御發、仙臺・青森を經て、二十日軍艦香取に御乘艦函館御着。

小樽・札幌を經て、三十日午前旭川に向はせられたり。供奉員左の如し。

(東宮大夫波多野敬直・・・中略・・總計百四十四人)
同日午後神居古潭御通過、御徐行を以て同所の景勝を台觀。

午後三時五十五分旭川驛御着、馬車にて御旅館第七師團偕行社に成らせられたり。

此日師團の將校・兵卒より、旭川町を初め、近きは附近の村落、遠きは石狩國濱益、天盬國士別・名寄等各地の士民雲集麕至し、師團は皇禮砲二十一發を放ち、奉迎極めて盛んなりき。

夜町立各小學校尋常科第三學年以上の兒童男約二千人、提灯行列を爲し、御旅館前に至り、整列して萬歳を三唱し、第七師團砲兵・騎兵・輜重兵約千人、騎馬にて矩火行列を爲し、軍歌を奏し、御旅館前に至り、同じく萬歳を三唱し春光臺に馳せ登りたり。

其状頗る壮観なりき。

(小文字記載省略)

同月三十一日午前御旅館に於て、鐵道院技師稲垣兵太郎他五十五名に謁を賜ひ、夫より歩兵第二十七聯隊に成らせられ、營内の台觀畢り、庭上に椴松一株を御手植あり。

將校集會所に於て御休憩の後、師團司令部に成らせられ、各將校に謁を賜ひ、尋で野砲兵第七聯隊中庭に於て、騎兵・輜重兵の軍刀試合、器械體操場に於て將校及び下士卒の器械運動を台觀。

次に厩舎を台觀、同聯隊將校集會所に於て御休憩。

庭上に水松一株を御手植ありて後、上川競馬會の競馬場に御着、競馬を台觀あらせられたり。
尋で練兵場に於て歩兵の大隊教練を台觀の後、御歸館あり。

午後近文臺の高處千代の山に於て、師團諸兵の聯合演習を台觀。

演習終りて兩軍將校御野立所の前に集り、東西両軍支隊長(略)其想定行動並に戰略を陳じ、師團長上原勇作の講評後、御歸館。

夕刻御旅館前庭に於て、師團の催に係る源平二隊の銃槍試合を台觀あらせられ、御晩餐の際、中將上原勇作・少將宇宿行輔・歩兵大佐横地長幹・同足立龜冶・一等主計正今井武雄・理事佐原寅三郎・歩兵少佐卯木菊之助等に御陪食仰付られたり。

夜旭川有志者約三千人、提灯行列を爲し、御旅館前に至り萬歳を三唱したり。

此日田内東宮侍從を上川郡美瑛村藤野牧場及び東川屯田兵村に差遣はされたり。

(東川屯田兵村は東旭川屯田村の間違いと思われる。)

尚ほ御旅館に於て獻上又は傳獻したるもの、上川支聽管内の分左の如し。(省略)

 

皇太子殿下北海道行啓・明治44年 ②に続く)

 

尚、「、」を「。」に替え読み易くした箇所有り。

さらに本頁掲載の絵葉書の消印は44.7-8.となっているが、これは事前に購入した為と思われる。