西條八十と飯坂温泉 ②

飯坂温泉案内図(白文字入れ:風間)
飯坂温泉案内図(白文字入れ:風間)

西條八十と飯坂温泉 ②

この「飯坂小唄」にはご当地福島(飯坂)を良く知らないと理解できない歌詞がある。
◎「信夫文知摺石」
これは曹洞宗「安洞院」のホームページに詳しく解説してあるのでご覧戴きたい。
◎「ちゃんこちゃんこ」は「石段」。
◎「桜桃(おうとう)」は「サクランボの一種」。
◎「春蚕(はるご)」は五月初旬頃飼育する蚕で、夏蚕、秋蚕に対していう。その糸は量、質ともに上品とされた。曽て福島は養蚕の盛んな土地であった。
以上、簡単に説明。

外は上に「飯坂温泉案内図」を載せたので参考にしていただきたい。

尚、西條八十は民謡小唄について下記のように述べている。

「唄の自叙傳(西條八十著)一七 民謡の旅」(168頁~174頁より)

「わたしがそもそも地方の民謡小唄に筆を染めたのは、曩(さき)に記した 『甲州小唄』が町田嘉章氏とのコンビの皮切りで、その次が中山晋平氏との『伏見小唄』であった。
以来今日まで旅して書いた新民謡は二百箇処に余ろう。
当時、こうした唄を書きに行って、きっと味わう厭な思いは、反対派の新聞の悪罵と、その土地に在住する天狗詩人歌人の攻撃であった。」(中略)

「どこの地方の町へ行っても、その土地生え抜きの詩人歌人が居て、風来坊のエトランジェに自分の土地の唄をつくられるのが癪なのであろう。かならず、何とかかんとか出来た唄に難癖をつけて書く。これが、こちらが受身の場合だけに相当うるさいものであった。中には『一日や二日見物しただけでなんでその土地の唄がかけるか』などという。そういうときには、わたしは『人間は第一印象で相当正確な判断が出来るというではないか。なまじその土地に居住んで、土地の因襲的な空気に慣れ包まれてしまった詩人よりも、却って外来者の方が大掴みな、そして、清新にその土地の風貌を掴み得るのだ』と答えて一蹴するが、これ在ることを予期しながら初めての土地の唄を書くのも、決して楽では無い。」

「もっとも田舎の郷土歌を書くのは、一般の唄を書くのにくらべて、楽しみも多々ある。ひとつは一般の流行歌というものは、浮草の花のようで、たとえば一時にパッと花やかに漂い流れても、間もなく全然姿を没してしまうことがあるが、郷土歌は自分の手で植えつけた木のようなものだ。じみながら永く残る。あるいは自分の死後にも、なお永く唱われるかも知れないという或る楽しみがある。次には旅の面白さだ。招かれて旅行して、飲んで、名所を見物して、おまけに芸妓まで見て、謝礼を貰って帰る。考えようでは実に割のいい商売である。」(中略)

「順序をつけていうと、こういう際、わたしたは暇さえ許せば、三度おなじ土地へ出かけてゆく。最初はただ見物で、まず遊びである。第二回は唄が出来て、それに節をつけた作曲者と連れ立って稽古にゆく。第三回は、その新作小唄発表会へ出席するだけだ。この時はせいぜい舞台から簡単な挨拶をすればいいのだから、いちばん閑である。あとはのんきな顔をして曲を聴き、振付を見て帰る。それに旅も作歌者、作曲者二人だけだと殺風景だが、振付の女師匠やその弟子が混ると、結構賑かな遊山気分の旅になる。」


と西條八十は書いているが、西條八十と組んで沢山の名曲を残している作曲家中山晋平は次のように述べている。

「西條先生の偉いところは、どこへ唄を創りに行く時も、出掛けるまでに、土地の特色や風習を調べ、昔からその土地に伝わっている古謡の歌詞などをメモし、それから現地に行かれることです。こういう努力をする作詞家は他にありません。」(「『民謡の旅』解説」森一也著)

さらに、この「飯坂小唄」は昭和6年5月、福島飯坂温泉「角屋」のご主人に依頼されて作成され、昭和6年5月20日に飯坂小唄新作記念会が桝屋大広間にて盛大に行われた模様。