竹田厳道と一枚の繪
横路孝弘は1983 昭和58 年3月、42歳で北海道知事選挙立候補のため衆議院議員を辞職し、同年4月に北海道知事初当選した。
その若い新しい横路孝弘北海道知事と竹田厳道氏の対談である。
☆「別冊一枚の繪『宝の島 北海道』」VOL.10 1983 「特別対談 宝の島 北海道」世界の中の北海道 ― みんなで開発します。
☆横路孝弘(北海道知事)と竹田厳道(一枚の繪〈株)会長)
若い知事はいま開道110年の北海道の将来を見据えて東奔西走の毎日である。・・・・
竹田厳道と横路孝弘との対談
★別冊「一枚の繪」宝の島「北海道」(76頁より77頁から抜粋)
〈竹田〉横路さんも北海道だし、僕も北海道だし、北海道というのは私がつけたようにやっぱり宝の島でしょうかね。
〈横路〉それはそう思いますよ。よく遠いというイメージだとか、寒いというイメージがあるんですけれども、まず北海道の緯度というのは地球の中で見ると、ヨーロッパでいうとパリやロンドンより南なんです。ローマより北ですがね。この地帯というのは世界の主要な文化地帯だとか工業地帯ですね。大体東京だとか九州だとかいうよな南の地帯の工業地帯なんていうのは世界じゅうないわけです。
〈竹田〉精密機械なんていうのは寒いところがいいものね。
〈横路〉文化もやっぱり暑いところより北のほうに栄えているんですね。
〈竹田〉大宅壮一がよく北海道に来て「人体でいうと北海道は日本列島の頭だ。頭だからもっと北海道の人は自信を持ってやれ」といってた。
〈横路〉ですからそいう可能性が非常にある。だから日本の国内の発展途上地域だというように思います。
四季の区別がしっかりついていて、同時に自然環境が非常によくて、そんなに公害とかなくて生活環境は非常にいいですから、あとはいまの交通手段だとか、情報だとか、通信のネットワークが完成すれば、非常にいい生活環境、自然環境の中で生活をして、生活のレベルとか文化の行事だとかいう問題は、東京や大阪と同じようなものを受け取ることができるということになるじゃないかと思うんです。ですから子供を育てて生活をしていくには非常にいい地域だと思います。
そういう大事なものを北海道の人たちはあまり知らなくて、よそから来た人たちに指摘されるというものがありますね。
〈竹田〉だから僕なんかも「北海道はいいね」とよくいわれるんですよ。まぁ遊びに行けばいいらしいけど、それにしても、たとえば風景が全然違うでしょう。絵のほうからいうと色彩が違うでしょう。鮮やかだ。それから食べ物がうまいとみんないうものね。それは生のものは非常にうまい。加工は僕はあまりうまくないと思う。味、美しさ、北海道というのはやはり残された・・・・・。日本だけでなくて世界の中でもいい意味の観光の土地じゃないかと思うんです。
(後述略)以上
竹田厳道氏は幾多の困難を乗り越えて「一枚の繪」社を創業し成功に導いた人である。
このことは、大下英治著の『ゼロから出発した男たち』(PHP研究所・出版)に詳しく書かれている。
この本のなかから竹田厳道氏の略歴を抜萃させていただく。
【竹田厳道】略歴
●大正7年(1918)12月1日、北海道夕張市で生まれる。父の照道は浄土真宗の朋心寺の住職。
小学生頃から成績は優秀であったが素行は良くなかったらしい。
●昭和16年(1941)、専修大学法学部卒業後、満州国通信社に入社し、満州ハルビン支社編集部に配属される。
新聞記者として活躍していたが、昭和20年敗戦と共に満州国通信社は解体する。しかし厳道は満州国に留まり、難民収容の日本人会の仕事に携わる。
●昭和21年(1946)10月末、引き揚げ船にて帰国する。その後、毎日新聞社系列の「北海日日」新聞の札幌支店の記者となり、炭鉱関係の記事を書く。
●昭和23年(1948)暮、「夕刊北海タイムス」に移り、報道部次長になる。
●昭和24年(1949)、「夕刊北海タイムス」は「新北海」と合併し「北海タイムス」となり、厳道は東京支社編集部長になった後、支社長になる。
●昭和32年(1957)、「札幌テレビ」開局に力を尽くし、40歳で取締役編成局長となり、東京支社長、業務部長を兼務する。
●昭和41年(1966)、「北海タイムス」社長になる。
●昭和42年(1967)8月、辞表を提出し、「北海タイムス」社長を辞める。(48歳)
●昭和43年(1968)11月、美術関係の「一枚の繪」社を起こし、東武百貨店池袋店で「一枚の繪」の最初の絵画展をひらく。
さらに美術絵画を一般家庭に普及させることを考え、絵画1枚5万円(毎月5千円の10ヶ月払い)で販売しようとカタログ雑誌「一枚の繪」を出版する。
竹田厳道は政界、経済界から文化人、知識人に至るまで幅広く人脈があった。
その後「一枚の繪」は順調に業績を伸ばし現在に至る。
美術雑誌「一枚の繪」