曲垣平九郎 愛宕山馬術勲

曲垣平九郎 愛宕山馬術勲
曲垣平九郎 愛宕山馬術勲

 

曲垣平九郎(曲垣實傳 愛宕山馬術勲)
 曲垣平九郎は、筑紫市兵衛、向井藏人等と共に、寛永の三馬術と稱せられた随一人であるが、本篇はその平九郎を主として他の二人をも關聯せしめたものである。
 生駒家に仕へてゐた平九郎が、愛宕山の石階を駈上って三代將軍家光の御感にあづかれるより、一度浪人したが尾州侯に仕へて重用せられるまでを綴る。
 粗豪磊落なる平九郎の面目躍如たるの傍、百々平と假稱して來た向井藏人との情誼を説き、或は筑紫市兵衛の誠忠を説き、或は三者の馬術の奈何に巧妙なりしかを説いて、徳川初政の武人の面影を偲ばしめると同時に、武術の一部門たる馬術が如何に珍重せられ、又鍛錬せられたかを語ってゐる。

 

曲垣平九郎 6-7
曲垣平九郎 6-7
曲垣平九郎 8-9
曲垣平九郎 8-9
曲垣平九郎 10-11
曲垣平九郎 10-11

 

曲垣平九郎(まがきへいくろう)出世の石段

☆ 徳川三代將軍増上寺に墓參す
  台命を蒙りて盛澄馬術を現す

 徳川二代將軍秀忠公と申すは、東照神宮にも勝り聡明英智の君なりしが、御年五十四寛永九年正月二十四に薨じ給ひければ、諡して台徳院殿と稱し芝南縁山増上寺に葬り奉る。
此御三週忌即ち十一年の正月二十四日御祥月なるを以て、三代將軍家光公には御參詣あらんとせられしが、當日は雨天且つ御風邪なるにより同月三十日と定められ、一時御延引と相成しが、其當日御供の諸役人、御老中には酒井讃岐守、堀田加賀守、若年寄には阿部豊後守、三浦志摩守、御側御用人には秋元但馬守、大目附には柳生但馬守を初めとして、此他御旗本御家人に至るまで威儀堂々として前後左右を警固し、其外諸大名は陸續として列を正しく、其日の御成は尤も善美を極めしとぞ。
 扨將軍には増上寺に成せられ御參詣も相濟て愛宕神社の下通りを還御ありしが、抑も愛宕山と言るは將軍地藏尊を祀れる者にて、其昔天平年中行基大師江州信樂に於て刻み給ひし尊像と云へり。
 慶長十八年徳川家に於て諸堂宇建立せられし者にて、當山は懸崖壁立石階八十六級疊々として最も高く、崖頭より見渡す時は江戸市街の半面を望み、又海水渺々として千里の風光を蓄へ、實に絶景の勝地なるが、時しも春暖の氣候に際し、愛宕山境内には紅白の梅花今を盛りに爛漫たる有様を、家光公は遥に御覧ぜられ、「誰ぞある那れなる梅花一枝を手折參れ」との厳命に御近臣等は直様に馳出さんとする折しも、將軍重ねて宣ふよう、「騎馬にて手折參れよ」と命を蒙り人々何れも大に打驚きしが、遅々する事も相成ねど、誰も命を奉ずる者なし。
 此時御側衆の人々は大に焦ち「誰にもある疾々君の命なるぞ、乘上る者非ざるや、如何に如何に」と呼はりける。

 此時御旗本の一人なる水野新次郞進み出「私台命を奉ぜん」と然も勇しく述ぶるが否や、忽ち馬に打跨り、ハヨウーと一聲上ぐると諸共鐙を踏張り乘出し、直ちに進んで石階を二十四五段上りし折柄、馬は後足踏辷らし踏留難く倒れしに、何かは以て堪る可き水野は馬より轉び落しが、石段の爲め數ヶ所を負傷し再度乘出す氣力も無し。
 此體を見て御側の面々「誰ぞ續いて乘上ずや」と呼はる間も無く近藤登之助現れ出で「私台命を奉ずる」と云ひつヽ馬を乘出し、我こそ首尾能く乘上げて君の御感に預らんと思ひ詰たる事なれば、一層聲を張上て一鞭當ると諸共に馬は一●〈走参・サン〉に馳せ出し、忽ち愛宕の坂の半腹まで勢ひ込んで乘上しに、將軍を始めとして諸侯方には手に汗を握り瞬きもせず見詰て居られしが、程も有せず馬は前足を踏外し、途端に又も後足を踏辷らして倒れしにぞ、登之助何かは以て堪る可き逆まに轉び落ち、數ヶ所へ傷け動き得ざる程なれば、何れも大いに興覺めて何と言出る者無し。

 此時御旗本の其内にも人に知られし一個の勇士、阿部四郎五郎は進み出で、「私台命を奉ぜん」と願ひ上て馬に打乘り、我こそ愛宕の坂を首尾能く乘上げ、君の御感を蒙るのみか名譽を子孫に殘さんと思ひ詰たる處より、是また大に勇氣を現はし、鐙を以て障泥を蹴立て、鞭を加へて一●(走参・キ)に乘上たりし現状は最勇しく、馬術を以て名の有る者から必らず首尾能乘上んと、瞬きもせず見詰て居しに、八十六段の石階を今や半を過んとす、此時馬は後足を踏外したる處より馬上に在し四郎五郎は鞍に堪らず轉び墜ち、手足を傷け再度乘出す氣力も無し。

 將軍斯と御覧ぜられ「扨も言甲斐なき者共かな、旗本の内に誰なりと乘上る者非ざるや、如何に、如何に」と宣へど、水野阿部近藤等は當時有名の人々なれども皆乘損じたる上なれば、最早何れも大に臆し又乘損じなば恥辱と思ひ、誰も御受に及ぶ者なし。

 家光公は焦燥たまひ「近臣等にて乘得ねば諸侯の家臣に非ざるや」との君命を受て、御老中なる堀田加賀守正盛殿早くも台命を傳ふる折柄、阿部豊後守進み出られ「豫て承はる生駒讃岐守の家臣にて、間垣何某なる者は尤も馬術の譽あり、讃州幸ひにして御供なれば召出されては如何に」と在る。
 將軍斯と聞召れ「疾く讃岐守を招げよ」と命じ給ふ程もなく、生駒殿には家光公の御側近く罷り出れば、將軍御聲高らかに「其方家來曲垣何某馬術を以て名のあるの趣き豊後守申し出たり、今日曲垣を召連たるや、同道ならば速に愛宕の石階を乘上て境内の梅花を手折參れと申付よ、近臣の者三人迄乘上たれど何れも落馬致したり、疾く命ぜよ」と宣へば、讃岐守殿再拜し「台命畏り奉る、右家來曲垣平九郎は折能く召連居りますれば、直ちに台命を奉じ奉らん」と御受に及んで退かれ、其旨斯と命ぜられしに曲垣は謹んで命を受け「身不肖なれ共必ず石階を乘上申さん、御心安く思召せ」と曲垣は主君の曳馬 黛と名附けし名馬に跨がり、悠々然と乘出せり。
 將軍を初めとして之を詠る諸侯の面々、生駒の家臣曲垣と言へるは馬術名譽の者と聞く、渠こそ首尾能乘上るや、併し旗本三人とも未熟の人には非ざれど、名に負ふ嶮しき那の石階馬足も確とは留難きに皆乘損じたる事なれば、縦令や曲垣なりとても輙く乘上る事能ふまじ、如何なる者やと、諸侯の面面瞬きもせず詠めて居られたり。
 偖又曲垣盛澄は徐々馬を乘上し、輪乘に及ぶ事四五度にして漸次に馬の足をば早め、軈て一聲上ると諸共鞭を加へ、愛宕の坂へ乘附しにぞ、●すはや上ると見詰て居らるヽに、曲垣は馬の頭を向け障泥をポンと蹴立し儘忽ち馬を引返し、徐々足を運ばせて乘返すにぞ、人々は大に望を失ひて詠る折しも、平九郎は又駿馬を引返し乘附ては坂に向ひ、其儘にしては引返し、斯する事六七度に及びし末、一層聲を張上て一鞭當ると見えけるが、馬は忽ち馳上り足の運びも亂さずに上りし樣を、家光公を初め諸侯の面々瞬きもせず見詰居られしが、曲垣は今日ぞ一世の名譽と日頃の術を現はして、手綱の緩急鐙の踏張腰の据方に至るまで、前の三士と大に異り、見る見る内に四十二三段も上りしにぞ、之を詠る人々は手に汗を握りて居らるヽ間も無く、這は●そも如何に盛澄の容は馬上に非ずして、馬のみ上り行く體に將軍を初め諸侯の方々「曲垣は如何なしをるや、落馬もせざるに容の見えぬは奇異の事よ」と私語給ふ程も無く、忽然として平九郎は何時か馬上に現はれて、ハヨウーハイハイハイと馬に充分の勢ひを勵まし、又二十段も上らせしに、曲垣は再度見えざる者から這は又不思議と思ふ中、閃りと鞍に打跨り乘上る事以前の如し、這は是曲垣盛澄が千辛万苦に工夫を凝し竟に自得の奥義を極めし、玉隠れ敵隠れと稱へたる妙術を、今此懸崖たる石階中に現はしたるものなるが、抑も敵隠れと稱するは馬の腹に其身を潜め、兩足を障泥の下に挟●むねがひに手を掛て居り、又玉隠れと稱するは敵左の方に在ば馬の右片鐙にして其身を匿し、敵右の方に在る時は馬の左りに附きて馳しむるものなり。
 偖も曲垣平九郎は斯る驗しき石階の其半腹にて兩術を現はし、竟に愛宕の境内に乘上げ、社殿に向ひて三拝し頓て紅白の梅花を手折り、腰に挟みて箙の如くし、又候馬に打跨り社内に於て輪乘に及び馬の頭を坂下に差向ては引返し、又差臨ませては輪乘に及ぶ。
 其形勢を將軍は遥に御覧ぜられて「誰ぞ在る疾く馳參りて下馬を止めよ、再度坂を乘下さば、必ず過ち在る可きぞ、早く止めよ」
 その巖命に御扈從の者馳出し、坂の下にて扇子を開き左右に打振り、大音あげ、「暛や曲垣氏台命なり、下馬を止り候へ、過ち在ては相成ず、乘下すには及ばぬなるぞ、台命なるぞ、止り候へ、下乘を止めよ」と大音聲に呼はる聲は聞取たれど、曲垣は更に聞えぬ態にて、猶ほ二三回輪乘を濟せ、軈ての事に平九郎はさしも嶮しき石階を何の苦も無く乘下せしに、將軍斯と御覧ぜられ、餘りの御感に床几を離れ扇子を開いて差招かれ「曲垣とやら苦しからず、近う近う」と宣ふにぞ、發と許りにお答をなし、馬より閃りと飛び下り、腰に差たる紅白の梅花を出して奉呈するに、將軍殊の外御機嫌能く「汝平九郎とやら天晴なり、感じ入る、其方坂の半腹にて再度容を匿せしは如何なる術ぞ」との御尋に、盛澄地上に額着て、「敵隠れとは箇様箇様、玉隠れとは云々」と兩術の奥義を言上すれば、家光公は彌彌御感淺からず、「日本無雙の馬術者とは汝を指して云ふなる可し、家光感じ入たるぞ」と御聲爽然に宣ひしに、平九郎は身に餘り在る將軍の御詞を蒙りて直ちに御答も成兼ね、大地に平伏在のみなり、此時生駒讃岐守殿將軍の御側近く進み出で、「恐れ入りたる仰せを蒙り、讃岐の身に取り恐縮至極に存じ奉る」と言上するに、將軍重ねて宣ふよう「讃州には宜き家來をば持れたり、家光はからず馬術の達人を知れり」と宣ふにぞ、彌々生駒殿にも諸侯の手前大に面目を施して退かる。
 偖將軍にも夫より還御に相成り、曲垣平九郎へは金三枚に時服を賜ふ。
 是より曲垣盛澄の美名は一時に相現はれ、門に入る者最も多しと云う。

 

『曲垣平九郎のその他の物語』

☆ 曲垣平九郎酒を嗜て妻妾を斷
  備前邸に盛澄名馬二頭に御す

☆ 信友に戯れて盛澄結婚を託す
  君命を受て平九郎馬術を現す

☆ 一僕を抱へんと盛澄身元糺
  一夫大言を吐て平九郎を詰る

☆ 盛澄一僕を傭て百々平と名附
  百々平心を竭して曲垣に仕ふ

☆ 曲垣主從島田驛に川留に逢ふ
  農馬を借て盛澄大井川を渡る

☆ 百々平雪中に不圖浪士と戰ふ
  盛澄助言に及んで大害を醸す

☆ 侫人毒舌を振つて曲垣を讒す
  平九郎百々平と主家を離散す

☆ 無禮を責て廣武獅子堂を殺す
  後難を慮りて藩主廣武を放つ

☆ 百々平馬術を現して本名を明
  曲垣青雲を得て尾州侯に仕ふ

☆ 市兵衛奴僕と成て主君を救ふ
  冤罪を受て廣武苛刻に責らる

☆ 哀訴に及んで老女親戚に逢ふ
  冤罪を免れて廣武立身に及ぶ

☆ 鐵鞭を振て市兵衛衆敵と戰ふ
  馬を躍せて平九郎信友を救ふ

尚、この物語は下記の書籍による。
「近世實録全書」第十一巻
 黒田騒動 曲垣平九郎 箕輪奇談
 昭和三年九月四日 發行
 發行所 早稲田大學出版部