東京府郷土史談 全 ②

東京府郷土史談 全 岡本竹二郎 編輯
東京府郷土史談 全 岡本竹二郎 編輯
東京府郷土史談 全 絵図2
東京府郷土史談 全 絵図2

東京府郷土史談 全 ②

 

東京府郷土史談 全 ①」よりの続き

 

 市中の水道
江戸の地漸く殷賑となり、多量の飲料を要すれども、土地海濱に接し卑濕なるに因り、井水多くは不良の物質を含みて飲料に適せず、是に因りて寛永年間、北多摩郡井頭の池の水を引き、東流して関口に至らしめ、埋樋之を受けて小石川區の中央を流し、神田川に架せる筧を經過して、數條に分流し、神田川以南、京橋以北の各所に達せしむ、之を神田上水と稱す、
承應年間に至り、西多摩郡羽村に於て多摩川の水を引き、東流して四谷大木戸に至らしめ、埋樋之を受けて數條に分ち、四谷、麹町、赤坂、芝及び京橋以南の各所に達せしむ、之を多摩川上水と稱す、元禄年間に至り、又多摩川上水を分ち、千川上水を設けしが、天明年間に至り、一旦之を癈せり、然るに明治十三年に至り、再び其舊に復し、本郷下谷の二區に達せしめたり、

 江戸文運の隆盛
家康以為らく、應仁以来君臣父子相賊ふは、皆道を知らざるに出づと、因りて林信勝を京師より聘し儒員となし、大に講學の風を起し、遺書を求めて盛に之を刊行せり、又戰亂の餘、禮樂諸雑工皆古の如くならざるを憂ひ、心を悉くして採訪し、凡そ一藝一技に名あるもの、皆之を採用せしかば、名儒名工續々と江戸に集りたり、綱吉に至り、神田に大學校を建て、號して聖堂と曰ふ、諸藩俊秀の士、競ふて之に入り、鴻儒輩出し、江戸の地文學の中心となれり、
綱吉又歌人北村李吟、畫工土佐廣澄、伶人狛(コマ)髙規を京師に徴し、歌を鬪はし畫を品し、散樂を張り、驕奢を事とせしかば、江戸の俗之に化せらる、此後技藝益々巧に赴き、著書出版甚盛となれり、
 [備考]初め元和の頃、岩佐又兵衛時様を寫す、世に之を浮世繪と云ふ、延寶、天和の頃、菱川師宣又之を畫き、元禄以後此技益巧に、享保以後紅繪と稱して盛に行はれ、終に今の錦繪となり、江戸美術名産の一となる、

 市中の制度
德川氏已に江戸城に在りて天下に號令す、江戸市街は、南北町奉行を置き之を管せしむ、奉行は今の知事にして警視及び裁判の事をも司れるが如き職なり、奉行の下役に與力(ヨリキ)同心(ドウシン)あり、今の府屬及び警察官の職を行へり、外に又町年寄、町名主、家主、自身番等あり、町に関する公事訴訟喧嘩口論、公費徴集、祭禮、消防等の事を處理せり、
 [備考]町奉行は當初一人にて全市中を支配し、慶長の初年相繼で任命せられたる人々は神田與兵衛、岸助兵衛、板倉勝重、彦坂小刑部、青山常陸介、内藤修理亮等なりしが、江戸市街の漸く大なるに及びて、之を南北二部に分ち、北は慶長十一年、米澤勘兵衛、始めて之を命ぜられ、南は同十三年、土屋權右衛門、始めて命ぜられたり、
町年寄は、江戸市中に唯三人あり、樽藤右衛門、館市右衛門、喜多村彦右衛門等にて、家康三河より伴ひ来れる由緒ある家柄なり、苗字帯刀熨斗目(ノシメ)着用の特典を許され、又神田、玉川兩上水の支配を司り、武州豊島郡、関口村小日向村、金杉村の代官をも兼ねたる者にして、幕府の待遇頗優なり、
町年寄の三家は、月番を立て、其當番の者は更に町奉行に出頭して、、町觸即ち令達を聞き、更に自己の名を署して之を市中に達し、地主之を名主に傳へ、家主之を自身番に掲示し、又は店子に觸れ示せり、後には名主に權力を與へ、地主の手を經ずして、直に町年寄より受けて家主に傳ふる事となれり、

 市中消防の制
江戸の地平衍にして、冬月は疾風多く、而して民舎は大抵茅屋なるに因り、一たび火を失することあれば、延焼數萬家に及ぶ、将軍吉宗之を患ひ、資財を貸し、瓦を以て之を改造せしめ、又市中に消防夫を設備せしめしが其災猶連年絶えざりき、維新後に至り、各所に消防署を置き、警視総監之を指揮監督し、防火線路の制立ちて、樞要の市街は、不燃物を以て家屋を改修せしめしかば、延焼の災大に減ずるに至れり、

 市中の祭典
江戸市民の豪華を好むこと、市中祭典の時に於て見るべし、各町皆鎭守の神あり、年を隔てヽ大祭を行ひ、花車を出し、球燈を掲げ、盛に歌舞管絃を張り、飲食酔飽歡を盡し、貧者と雖敢て一歩を譲らず、而して祭典の大なる者を、神田神社及び日枝神社とす
神田神社は創立最古く、元和二年今の地に移し、大己貴神を祀る、日枝神社は長禄年間に創建し、萬治二年今の地に移し、大山咋神を祀る、此兩祭典は、之を天下祭と稱し、将軍の観覧に供せり、花車壮麗、掛燈籠の如きも、亦武者繪、景色畫、見立畫、押繪細工等ありて華美甚し、後燈籠癈して球燈となる

 江戸の風俗
德川氏江戸に居りてより以来、人衆大に聚り、風俗尤豪奢を極め、年始、歳暮、盆會、暑寒、五節句には往来訪問して時物を贈り、以て親戚朋友の多きに誇り、市民の女兒は、一般に歌舞管絃を習ひて父兄の娯樂に供し、衣服用具、新様を競ひて漸く驕侈に流る、時に執政官、屢々政令を下して之を禁じたれども、終に成る能はす、而して俗義俠を尚び、強を挫き弱を扶くるの風有りと雖も、多くは客氣の致す所にして、眞に理非を辨じて然るに非ず、市民一般に貯蓄心に乏しく、勞働者は其得る所の賃金を直に費消するを以て得意となす、故に、江戸に在り富を致すものは、多くは他の地方の人にして、江戸に生れたるものには少し、然るに維新以降教化の及ぶ所、漸く勤儉の重ずべきを知り加ふるに政府貯金の事を管理し、人民自在に其所得を委托することを得るに依り、舊来の弊風漸く止む、

 維新以後東京市の昌運
德川氏治所を江戸に定むること十五世、将軍慶喜政権を奉還するに及び、参與大久保利通遷都の議を上る、明治元年七月十七日、大詔を發し江戸を以て東京となし、尋て車駕東幸し給ひ、二年皇居を定め政府を設く、此に於て前代未聞の治化隆々とし興り、工商百般の事業日に繁盛に趨き、全國の才俊學生商賈都下に輻湊し、此市の繁榮日に益進くと云ふ、

    維新以後府内の制度
維新以後朝廷東京府廰を設置し、府知事をして府の行政事務を執行せしめ、以て往時の奉行に換へ、其裁判權は裁判所に移し、警察權は警視廰に移し、府内各所に警察署消防署あり、警視總監之を總轄す、
町年寄名主を癈し、郡區役所を置き、市町村に関する事務を取扱はしむ、府市區會あり、其議員は公撰に係り、府市區の事務に関する經費を議す、

 維新以後市區の改正
初め德川氏居城を江戸に定め、三百の諸侯皆邸第を城の周圍に列し、其別邸及ひ幕臣數萬の邸宅は各處に散在せしが、維新後に至り、皇城の周圍に在る邸第は、大抵之を官省兵營となし、幕臣各處の邸宅は、漸々市街となれり、而して又全市を貫通せる道路幅を廣めて之れが人道車道を分ち、其他狭隘なる道路を改め、間々溝渠を通じ、市區改正の事業將に年を期して成らんとし、水道改良、東京灣築港の事業の如きも、亦其經畫に就けり、後來此市の益隆昌に趨かんこと誠に祝すべし、

 東京府郷土史談 終

 康正以後年號表
康正 二 長禄 三 寛正 六 文正 元 應仁 二 文明 十八 長亨二 延德 三 明應 九 文龜 三 永正 十七 大永 七 享禄 四 慶長 十九 元和 九 寛永 二十 正保 四 慶安 四 承應 三 明暦 三 萬治 三 寛文 十二 延寶 八 天和 三 貞亨 四 元禄 十六 寶永 七 正德 五 享保 二十 元文 五 寬保 三 延享 四 寛延 三 寶暦 十三 明和 八 安永 九 天明 八 寛政 十二 享和 三 文化 十四 文政 十二 天保 十四 弘化 四 嘉永 六 安政 六 萬延 元 文久 三 元治 元 慶應 三 明治 萬々歳


 熊澤 秀 畫
 岡本可亭 書
 東京府郷土史談 終

明治二十五年十一月二十七日 印刷出版
仝 二十六年 八月 三十日 訂正再版印刷
仝    年 九月  三日 發行
仝    年 九月二十八日 文部省檢定濟

 編者 岡本竹二郎 東京市日本橋區數寄屋町十三番地
 発行兼印刷者 廣岡鱗之助 仝市仝區呉服町二十六番地
 発賣所 榮泉社商店 仝市仝區呉服町二十六番地