泣虫寺の夜話 岡本一平著

泣虫寺の夜話 岡本一平著
泣虫寺の夜話 岡本一平著

泣虫寺の夜話 岡本一平

 

「序」
 おやぢの死んだのが大正八年秋であつた。おやぢは六十三で死んだ。おやぢは癌であつた。右の頸に腕程の肉瘤が出来て酷烈なる痛みを催さすのであつた。
 癌である事は死ぬ一年前に醫者から予に通じられてあつた。けれども病人には知らせる事をとめられた。
 このおやぢは予に取つて怨めしく息苦しいおやぢであつた。彼が子に對する愛は融けて居なかつた。子に對しても孤獨な己れといふ殻を除かなかつた。詩である生きた少年に對し世間が齋す物質的恐慌を彼は餘りに現實に説き過ぎた。
 『──であるから兎も角も飯を稼ぎ乍ら勉強しなくては──』
 『わし迄は凡々だが三代目のお前から確(しつ)かりやつて家を興して貰はんでは』
などヽも始終云つて聞かされた。
 おやぢがこういふのには無理もない次第もあつた。彼は少年にして父、母、兄と順次、柱を失つて行つた孤兒であり人に過ぎた惨風悲雨を浴びて來た。その實證から得たのつ引きならぬ信仰なのであつた。
 詩であり生きた少年はこれに消極的に反抗した。服從の形に於て然も内面は己れの性格をおやぢの嫌ふやうな反對の方向へ持ち代へて鬱憤を晴らした。
 警察の厄介にならぬ程度の不良少年。いつも落第と及第の境に彷徨する假及第の怠惰な中学生。放歌亂酔の美術學生。──乃至──卑俗な興味を犬の如く獵る道化ものヽ漫畫家。
 かくて形に於てはおやぢが金を得る爲めに便宜であるとの理由から選んだ畫家といふ名誉な職になつて予は兎も角も世間に顔を出した。さり乍ら畫家は畫家でも内容は雪と炭の漫畫家である。
(讀者は速斷してはいけない。こヽではこのように説くが、現在の予は漫畫をもつて現代に對し價値も責任もある藝術であるとの證左を既に發見して居る)
 かくて予の人生に對する反發的な否定傾向は予を遺憾なく傷けた。妻として得た女をも傷けた。
 大正三四五年と予の家は滅茶苦茶であつた。予等は色心共に壊滅の界にあつた。
 この壊滅の界にある予の家(予は結婚と同時に別居して居た)とおやぢの家との關係は實に通り一遍のものであつた。彼よりあたヽかき慰問を加へず予より悲しみを訴へない。
 遇へば父に對して予は國語讀本の中にある親孝行の息子のやうな位置の座り型の如く彼の安否を問ひ、予が作つて語る予の榮達の兆を彼は家長の格式をもつて嘉(よみ)するのであつた。
 破滅の頂上の大正六年になつて予等に一轉機が來た。
 奇蹟があつて予と予の一家は基督の救ひに入つた。予等の狂信は山手の某教會のロ牧師を手子擦らしたり、米國人のM女史の薄い口髭を不審がりながら讃美歌を合唱したりした。
 理論に於て基教に行きづまつた。予は法然親鸞の絶對他力の信に牽かれた。歎異鈔に曰く
『善人ナホモテ往生ヲ遂グ況ンヤ惡人ヲヤ──』云々
又彌陀の因位について解釋に蹴つまずいた。日蓮上人の遺文録に走り込んだ。曰く『四十餘年未顯眞實──逆化──二乘作佛──後々五百歳──久遠實成の佛陀──』等云々
に息のつまる程強い根本力の魅力を感じた。さりながら理屈では判つて居ながら名字即の題目はギコチなく唱へては法悦を味へぬのに焦慮した。
 迷い出しては信仰が毎日變つた。頼みなき心を繋ぐに持(もち)ものが必要だと思つて芝露月町の珠數屋へ行つてある日眞宗の珠數を買ひ求めた。そして又あくる日は法華の梅の木で作つた珠數を買ひに行つた。
 この動揺は一方おやぢの病勢の進んで來た事から大に影響を受けて居つた。おやぢは甲斐も無き光線治療に頼みをかけ一週に二三回鴻の臺の隠宅より東京へ通つた。その時は癌の上皮に色がついて來て既に痛みを覺え出した。
 癌の爲め首が曲つて仕舞つた。瘠せた身體へ折目正しい着物をつけ、細巻の洋傘を老人らしくきちょうめんについて京成電車に乘つてるおやぢの姿に對しその死を豫知してるこつちは見るに堪えなかつた。
 この心も身も瘠せ枯れて僅に己れだけを守るに精を盡した。孤獨の彼れが味もそつ氣もない冥界へ入つて行つた時にはどんなであらう。とてもその冷たさに堪へないだらう。無窮の生命力に彼を結びつけて、彼を永劫に活す術(すべ)もがな。彼の眼前でアーメンと祈つた。おやぢは吃驚した。
 然し彼は予に人は宗教を持つ事は必要で且善事であるといふ意味を家長の格式をもつて教訓した。とても深く汲み取つて呉れてそれでもつて生死の灘を乘つ切つて貰へそうにもない。眞宗聖典をも、もつて行つて讀むよう勸めた。禪書をも贈つた。どの救ひにか、まぐれ當りに當つて信仰を得て呉れヽばいヽが。子に取つては怨めしく息苦しきおやぢに對しその子の予がこのもどかしさを覺ゑるのは眞に因縁であつた。
 このつらき最中に予が執筆したのが泣虫寺の夜話である。予の如き萍(うきくさ)にもふさはしかる救ひもがな。も一つおやぢの生涯を纏縛した形式の力を開顕して其處に理由を認めて遣り度い。この二つの求願が妙にもつれて一文を織り出した。勿論その時依頼された「新小説」よりの紙面に限りがあつて結果は企ての序文だけの處で切れて仕舞つた。縁があつたら又書き繼ぐ積りで居る。
 予の信仰はその後どう固まつたか。おやぢはどういふ風に死んだか、その時に樣子が判るであらう。
 この書の出版には随分人に厄介をかけて居る。始め出版を慫慂(しょうよう)して呉れたのが雑誌「日本一」の上野一也氏と横田正夫君である。横田君が催促に何十度となく通つて呉れられた。横田君に代つて戸澤辰雄君森田憲次君が骨を折つて來て呉れられた。間が餘り永いので引受けた書肆N社がD社と組織を改めたりした。それでも出來なかつた。
 D社より予の馴染の磯部君が出版を引継ぎ丁度おやぢの三回忌時分にこの本が出來る。随分存在意志の強い本だ。
 この機會に。以上諸氏にお禮を申し度い。
  大正十年十月    一平生


「泣虫寺の夜話」岡本一平 著
「目次」
泣虫寺の夜話
 第一夜 涙の淨土の話
 第二夜 木魚を嘗める話(その一)
 第三夜 木魚を嘗める話(その二)
 第四夜 木魚を嘗める話(その三)
 第五夜 木魚を嘗める話(その四)
深川踊の話
 ある夜
 次の夜
漫畫の世の中
 不思議な性慾
 水瓜の種の話
 持つて行つて借りる話
泥酔漢の始末書
お稽古の中止
歳晩情景

 

 大正十年十二月一日:発行
 発行所:磯部甲陽堂