探訪画趣 自序と例言(岡本一平)
こヽに刷入した畫及文句は僕が大正元年八月東京朝日新聞の入社して以來大正二年末月末日までの間の同紙上げ發表したものヽうちを集めたものである。この一年間餘に朝日に描いた畫はザツトこの三倍程あつたが探しても版が無かつたり後で見ては畫の興趣が大部分削がれたり同じ標題の下に數多く描かれてあつたり等した爲め他はこの本から淘汰された。
帝劇の背景部でウマ(踏臺)に跨つて高さ七間幅十八間の背景(バツク)を粗つぽい泥繪具(どろゑのぐ)で引つ沫(こす)つて居た男が新聞紙一段一寸八分と定まつた狭い天地の中に時に寄ると二個師團の兵隊に觀兵式をさせなければ叱られちまふといふきつい事になつた時は流石に心配した。描き方は畫描きの事だからどうなりとこなせない筈はなからうけれど描くものヽ趣向の見當が皆目わからない。こりやなんでも取的になつた氣で社會といふ横綱にぶツつかり揉んで貰つて扨後の思案に若く事なしと兎に角も歩き廻つた。事件があつても無くても無闇に歩いた。そして自分では正直に寫生して來た積りのものがこれ等の畫である。毎日毎日歩いて一年半にもなると腹ばかりぢやない可成り下駄の歯も減つた。
一体新聞の挿畫(さしゑ)にはその日その日が生命(いのち)だ。或はその朝その朝が生命(いのち)かも知れぬ。發行當日、もつと精密に言へば發行時間に勃興(おこ)した社會の最大出来事に挿畫(さしゑ)の内容を最も密接にもつて行けば行く程その日その日の挿畫の生命が太くなる。その朝その朝が強くなる。二日置いて見ても見られるとか一週間後に見ても面白いとかいふ挿畫は新聞のものとしては必ず善良でないと僕は窃に獨斷して居る。その獨斷して居る男が約一年半も前のものを何故又見せるかといへば僕のこの獨斷に例外を附け加へる勇氣を僕に與へた有難い一つの事があるからだ。
社の同僚氏が夏目先生のところへ伺つた節先生が自分の畫を集てはといふ樣な話を同僚氏にしたと同僚氏が自分に告げて呉れた。嘘にしても嬉しかつたからそれから半信半疑で畫の版を集め出しどうで切抜きなぞして置かなかつたから文句は一々版に照り合せて新聞の綴込みから臨寫(ひきうつ)しかくて半(なかば)成つた頃恐る恐る先生の邸宅へ上(あが)つて伺つて見ると序文を書いて遣ると仰つた。人は何といふか知れぬが僕自身はこれ丈けでもう充分この本を作る値打ちがあつた。
杉村先生はいつも僕が仕事をして居る机へぶらりと來て眞正面から睨み下(おろ)してどうもいけない。そしてえんげい(園藝)のえはえぢやばいゑの字だとか踏青と麥を踏むとは意味が別だとか原稿紙へペンを下ろす毎の叱言(こごと)許り言つてて遣り切れぬ。仕舞ひにはお前の樣な小さな口へ飯をそう餘計頬張つちや見つともないとそれぢやあ俺れはおぢおぢ飯も喰へやしない。どうせ御世話ついでに序文の御面倒をも見て頂いた。
和田先生が僕の似顔の戯畫(カリカトウル)を描いて下さつたのも有難いものの一つ。先生には學校時代より種々(いろいろ)深い御厄介に成つた。自分が美術學校の二年の時分考へがこじれて來てどうにもこうにも遣り切れなくなりさけ(酒)を飲んで廻つたりけんくわ(喧嘩)して見たり畫版は塵の儘すつぽかしてぶらぶらして居た揚句先生に喰つてかヽり叱り飛ばされのが縁の始めでその後修學旅行に静岡方面へ先發隊で行つた時三保の松原で仲直りし今年で七年の間仕事の手傳ひをさせて頂いて御厄介のかけ通しだ。御厄介になるのもこう永年になると平氣になつてまともに御禮を言うのも極りが惡い樣だ。こういふ機會にでも御禮を言はせて頂く。
この本の出版には東京朝日新聞社の好意松崎天民氏の御配慮に預る處が多かつた。表紙の字はおやぢに書いて貰つた。
大正三年六月 一平生