探訪画趣 序 楚人冠

探訪画趣 岡本一平著並画
探訪画趣 岡本一平著並画

探訪画趣 序(楚人冠)

 

 その書いたものを讀むと如何にも陽氣な賑やかさうに聞える人が、會つて見て存外しんむりむッつりした「辛氣臭い」人であることがある。これと反對に、氣のめいるやうな物淋しい心持をさせるものばかり書く人が、實はがらヾヽと笑つてばかりゐるふざけた人であることも、能くある。僕は斯ういふ人を何だか好かない。
 僕が好かないといふ迄で、僕はそれを善いとも惡いとも言ふのでない。善いか惡いかは僕の知らぬ所である。僕は言行の一致不一致といふが如き倫理上の問題を、藝術の上にまでもつて來て、兎やかう言ふほどの勇氣はないが、併し書いたものに表れた個性が、その通りにその實際の人間に表はれたのを見る時、僕は言ふべからざる快感を得るのである。之をひつくり返して、著者の個性がはつきりとその作物の上に出たのは、藝術としても善いものでないか知らんといふ位のことは、恐るヽヽ考へてゐないでもない。この故に僕は、僕の書物をよんで見て、それから初めて僕に逢つた人が、僕に向つて、讀んだ時に想像した通りの人であつたと言はるヽと、無上に嬉しい。
 わが岡本一平は、かういふ意味に於て、僕の大好きな男である。彼奴の書いた畫にも文にも、全く岡本一平そのまヽが出てゐる。彼奴は外勤から社に歸つて畫をかく時、ノートもスケツチも取つて來て居らぬ。只記憶に任せて、すらヽヽと書いてしまふ。そんな小面倒なものを持つてゐると、足手纏ひになつて邪魔臭いといふ。彼れの描く所は、ノートやスケツチに縋りついてやつと生き殘つた印象を筆にするのでなくして、彼れの頭の中で、ちやんと消化吸収された奴を吐き出してくるのである。だから彼れの畫には、ノートやスケツチが出ずして、岡本一平が出てゐる。
 彼れの畫には、人物に不相當なべらぼうに大きいな手をかく。が彼れは飯を食ふ時、あの小さい口に不相當な大きな物をかき込んで頰ばる癖がある。彼れの文には、眞面目くさつて馬鹿々々しいことを書いては人を笑はせるが、彼奴は編輯局の眞中で、變な目つきをして畫をかきながら「カチウシヤ可愛いや」などを歌ふ男である。彼れが御大葬の新聞に入れる花枠の圖案を書かせられた時、彼れが如何に苦心惨憺、ガラにもない定木やコムパスをもつて、シムメトリカルな線を引いてゐたかは、彼れを見たものヽ誠に一世の奇觀とする所であつた、彼奴は到底シムメトリカルな男ではなかつた。
 僕のこの大すきな岡本一平君がその變幻不思議な畫集と文集とを公にするに當つて、僕は此に僕の觀たる變幻不思議な筆者岡本一平君を紹介する。
 大正三年六月一日     楚人冠

 

杉村楚人冠(すぎむら そじんかん)
明治5年7月25日(1872年8月28日) - 昭和20年(1945年)10月3日
和歌山県生まれ、本名は杉村廣太郎。
明治36年(1903年)12月,東京朝日新聞社に入社。
名文家として知られ、朝日新聞倫敦特派員時代の「大英遊記」は有名。後「アサヒグラフ」の創刊の関わる。
大正12年の関東大震災の翌年、千葉県手賀沼湖畔に「白馬城」と名付けた別荘に家族と共に移住。

朝日新聞社取締役、取締役副社長、記事審査部長、監査役を歴任した。

白馬城 楚人冠著
白馬城 楚人冠著