柳田国男 島崎藤村と絶縁

朝日選書7 柳田国男 故郷七十年
朝日選書7 柳田国男 故郷七十年

柳田国男 島崎藤村と絶縁

 

柳田国男は島崎藤村とは学生時代より親しく付き合っていたが、後に柳田が台湾旅行した時、藤村の兄の依頼の件で憤慨し、藤村とは絶縁してしまった。
そのことが「故郷七十年拾遺」に書かれているが、この本にも詳しく書かれている。

 

柳田国男「故郷七十年」『文学の思い出』より

 

 私が島崎君と親しくしていたのは大変旧く、おそらく田山が彼を知った時よりは旧かったろう。初対面はまだ学生中で明治二十八年であった。(椰子の実の話、省略)

  参考:(柳田国男は大正六年、台湾から大陸にかけて旅行する。)
 私が台湾へ発つ時、島崎藤村君が非常に長い手紙を寄越して、台北に行かれたら、自分の兄がお目に掛かりに行くから是非一つ会って下さいと頼んで来た。その兄さんという人には私は会ったことはなかったが・・・・(藤村の兄の妻君の話、省略)
 それで台北へ着いたことを報せてやるとその兄貴の方がやってきた。問題は簡単で、どこかの山の下げ渡しを申し出たいのだが、居住期間が短くてそれが出来ない。だから貴方から安東総督に口添えをしてくれないかというわけである。外地にはそんな話はいくらでもあったのだろうから、何とかしてやってくれと頼めば出来たかもしれない。しかし私は、春樹(藤村の本名)さんはその話の内容を知ってるのかと聞いて見た。兄さんはヘエ知っておりますと答えた。二度も三度も念を押しても先方では知っておりますという。
 そこで私は非常に腹が立った。自然主義者などといっていながら、そんな不正をするのが役人の実際だと思っているのは怪しからん、恐らく東京の役人でもそれが実情だと思っているのだろうが、そんなことを思う奴は駄目だと考えて、そんな話は取り次げないとすげなく断ってもうそれきりその兄という人に会わなかった。自然主義と称してその頃ありのままを書きさえすればいいのだといっていた仲間の藤村が、役人というものはそんな私事ができるものと見て、それをありのままの役人の姿だと思われているとすれば、役人にとってこれ位侮辱はない。しかもそのことで兄の人と打合せをしておきながら、東京で会ったとき、一言もそれに触れずに、ただ兄に会ってやってくれと頼んだのには、憤慨した。それで私はそれっきり藤村と絶縁してしまった。
 その後一ぺん『新小説』の島崎特集号に藤村のことを書いてくれるよう頼まれた時にも、下心が悪いものだから、はなはだ面白くないことを書いてやった。それは載せられなかったが、他の機会に別の雑誌に載せられた文章が今でも残っている。それにはこの台湾事件のことはいわなかったが、まあいくらか同情持たない書き方をした。それが本人にも判ったのであろう。
 忰の嵡助などは時々来ていたが、親爺の方とは文通も往来もなくなった。ある時、朝日新聞の入口で偶然会ったものだから、立話をして別れたのがお仕舞いとなった。
 こんな話はしない方は或いはいいのかもしれないが、もう何十年も前の小さなエピソードとして記して見た。


(「故郷七十年」柳田国男 朝日選書7190~191頁より)

 

参考
柳田国男は明治34年、柳田家の養嗣子となった。旧姓は松岡。
明治35年に法制局参事官、明治41年に兼任宮内書記官、明治43年に兼任内閣書記官記録課長、大正3年に貴族院書記官長などを歴任している。

 

尚、この本「朝日選書7『故郷七十年』柳田国男」の後書き「『故郷七十年』について 鎌田久子」には

「昭和三十二年十二月十四日、嘉治君神戸新聞社の二記者を伴ない来る。社の六十年記念の為に昔話をする。十時半より夕方まで」これは「『故郷七十年』に関する柳田先生自身の記録の最初である。(中略)
本書はのじぎく文庫版と「定本柳田国男集」(別巻第三巻)の「「故郷七十年拾遺」とをあわせ、さらに柳田先生の書き入れ本を参考にして、装を新たにした。(後述略)昭和四十八年十二月」

とある。
つまり「故郷七十年」と「故郷七十年拾遺」とは別々の本であったが、鎌田久子はこれらを一緒にして書き直し装いを新たにしたと云うのである。