氷点下41度

氷点下41°  高橋製菓株式会社
氷点下41° 高橋製菓株式会社
氷点下41°  高橋製菓株式会社
氷点下41° 高橋製菓株式会社
氷点下41° 高橋製菓株式会社
氷点下41° 高橋製菓株式会社
氷点下41° 高橋製菓株式会社
氷点下41° 高橋製菓株式会社

 

氷点下41度

 

昨日(1月20日)は暦の上では「大寒」であった。

 

写真は「氷点下41°」というお菓子である。

北海道旭川市の「高橋製菓株式会社」が製造販売している。

 

この「氷点下41°」のネーミングは日本最低気温から採ったもの。

 

明治35年(1902年)1月25日に北海道上川測候所(現在の旭川地方気象台)で氷点下41.0度の日本最低気温が記録された。

 

次の日1月26日、北海道帯広で氷点下38.2度が記録されている。

これは日本で二番目に低い気温である。

 

三番目に低い気温は北海道江丹別の-38.1度(1978年2月17日記録)。

四番目に低い気温は静岡県富士山の-38.0度(1981年2月27日記録)。

 

明治35年(1902年)1月25日、北海道旭川で氷点下41.0度の日本最低気温が記録された時、青森県の八甲田山で遭難大事件が起きていた。

この時、日本、特に青森・北海道に大寒波が押し寄せていたのである。

 

八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)

 

日本陸軍第八師団は青森県八甲田山において雪中行軍訓練を計画した。

明治35年(1902年)1月20日、弘前歩兵第三十一聯隊は弘前より十和田湖を回るルートで行軍を開始した。

一方、同年1月23日出発した青森歩兵第五連隊は青森市街から八甲田山の田代を経て増沢に向かい、陸羽街道の三本木(現十和田市)まで行くルートであった。

弘前歩兵第三十一聯隊は三本木に到着したが、しかし青森歩兵第五連隊は1月25日に雪中行軍の途中で寒波と猛吹雪に遭い遭難したのである。

この雪中行軍訓練への参加者210名中、実に199名が死亡(うち6名は救出後死亡)した。

これは日本の歴史上最大の山岳遭難事故である。

 

この遭難事件を小説化した新田次郞著の「八甲田山死の彷徨」には次のようにある。

「・・・・・この時の暴風雪と寒気は記録的なものであった。

異常寒冷は第五聯隊雪中行軍隊が出発した一月二十三日の午後からその徴候を現わし始めた。

北海道に根を据えた高気圧は頑として移動せず、その勢力は東北地方の北部に及んだ。

高気圧の停滞に伴う輻射冷却によって急速な気温低下が起こり、二十五日には北海道旭川において零下四十一度という、日本における最低気温の記録を出した。

この最低気温の記録は現在に於ても依然として破られずにいる。

当時、北海道から東北地方北部にかけての酷寒気団がいかに優勢なものであるかを窺知することができる。

雪中行軍隊は、たまたまこの頃近くを通過した低気圧による暴風雪とその後に襲って来た寒気団に打ちのめされたのであった。」

(新田次郞著「八甲田山死の彷徨」218頁より)

 

 新田次郞著の「八甲田山死の彷徨」はあくまでも小説であるが、この「八甲田雪中行軍遭難事件」史実記録として調査し私家本で出版したのが、小笠原孤酒著の「吹雪の惨劇」である。

この「吹雪の惨劇」は当初第五部まで出版する予定であったが、第二部を発行して著者・小笠原孤酒は亡くなってしまった。

 

八甲田山死の彷徨・新田次郞 著
八甲田山死の彷徨・新田次郞 著