松はみな枝垂れて南無観世音
松はみな枝たれて南無観世音(味取観音堂の耕畝として):下記参考参照
私はお寺のこの枝を垂れた赤松の木と菩薩堂の九輪(相輪)が見える角度に立つと思い出す句がある。
それは種田山頭火の「松はみな枝垂れて南無観世音」という句である。
この東川寺菩薩堂内の中央正面には龍頭観世音菩薩が鎮座している。
松の木は大きくなる前に下枝を打ち払ってしまう。
そうした松は大きくなると自身のバランスを保つために、下へ下へと枝を下ろしてくる。
その姿が丁度、観音様の裳裾のように見える。
あるいは観音様が手を下へ垂れ、我々衆生を救う姿のように見える。
種田山頭火は明治より昭和初期に生き、行乞し時には酒に溺れながらも、季語や定型に拘らない自由律俳句を沢山残したことで有名な曹洞宗僧侶である。
その種田山頭火がそれまでの人生の色々な事から逃れるように出家したのは大正十四年二月のこと。
熊本市曹洞宗報恩寺の住職の望月義庵の弟子となり出家得度した、種田山頭火四十四歳の時である。
僧名を「耕畝(こうほ)」という。
出家はしたものの、まだ得度したばかりで、一寺の住職を務める資格はない。
そこで師の望月義庵は曹洞宗瑞泉寺の住職が留守がちなので、そこにある味取(みどり)観音堂の堂守(お堂を守る役)として山頭火を住まわせた。
観音堂とは観音様をお祀りしているお堂である。
その観音堂は少し小高い所にあり、松が生い茂っていた。
その観音堂の松が下へ枝を垂れている姿を見て、詠んだ句が
「松はみな枝垂れて南無観世音」
である。
(参考)山頭火の「行乞記・三八九日記」の最後に下記のように記してある。
味取在住時代 三句
久しぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる
けふも托鉢、こゝもかしこも花ざかり
ねむり深い村を見おろし尿する
追句一句
松はみな枝たれて南無観世音(味取観音堂の耕畝として)
行乞途上
旅法衣ふきまくる風にまかす
毎朝、山頭火は観音堂で観音経を読んでいたのであろう。
観音経とは「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」のことである。
その最初は
「爾の時に無尽意菩薩は即ち座より起て、偏に右の衣を脱いで肩をあらわにし
合掌し佛に向いて 是の言を作さく、世尊、観世音菩薩は何の因縁を以て観世音と名すか。
佛 無尽意菩薩に告げたまわく 善男子 若し無量百千万億の衆生あって諸の苦悩を受くるとき
是の観世音菩薩を聞き一心に 名を称せば 観世音菩薩は即時に其の音声を観じ
皆な解脱することを得せしめんとす。・・・・・」
とある。
山頭火は本名種田正一、明治十五年山口県佐波郡西佐波令村に竹治郎の長男として生まれた。
山頭火十一歳の年に、母ふさは五人の子を残して、自宅の井戸に身を投じ、三十三歳にして自殺した。
父は大地主であったが、女に溺れ政治に顔を出したりして、家産はだんだん傾いていく。
山頭火は周南學舎も、山口高等中學も常に首席で通し、早稲田の文科に進んだが、強度の神経衰弱となり、卒業まぎわになって退学帰郷する。
その後、彼は佐波郡和田村佐藤咲野(サキノ)と結婚し、父と協力して酒造業を営むことにしたが大正五年破産してしまう。
父は妾をつれて他郷に走り、山頭火は妻子と共に熊本へ移った。
熊本で額縁その他文房具・絵ハガキ類を商う「雅楽多」と云う店を始めるが、店は妻に任せ、単身東京に出る。
東京で、あるときは区役所に勤め、また一橋図書館にも勤めたが、勤め人にもなり切れず、熊本と東京間を迷うて往復しているうちに、大正十二年東京で大震災に遭い、熊本に帰ることを余儀なくされる。
大正十三年のある日、彼は酒に酔って熊本公会堂前で進行中の電車の前に突如仁王立ちした。
その時、木庭という新聞記者か何かをしている人が現われて、彼をつかまえて市内の報恩寺へ連れて行ったのである。
そこが後に、山頭火が出家することになる望月義庵住職の「報恩寺」であった。
山頭火の悩みには一筋縄では解決出来ない大きなものがあった。
それは母の自殺である。
山頭火は一生涯、母の位牌を背負うて生きていくことになる。
彼は様々な苦悩を懐き、一心不乱に観音経を読誦し、観世音菩薩に救いを求めたのか。
味取観音堂の回りの村人達は彼に良くしてくれたが、しかし、大正十五年四月、その堂守となった味取観音堂の一年二ヶ月の山林独住を捨てて、一鉢一杖、飄々として風の如く行乞の旅に出たのである。
(「あの山越えて」大山澄太編 和田書店:発行(昭和27年10月11日) 「あとがき」参考)
山頭火五十一歳の時、昭和七年(1932)六月二十日、句集『鉢の子』(八十八句)を発行している。
編輯兼発行者は木村綠平、発行所は三宅酒壺洞。
この句集『鉢の子』の最初に「松はみな枝垂れて南無観世音」の句が収められている。
そこには次のようにある。
「大正十四年二月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林獨住の、しづかといへばしづかな、さみしいとおもへばさみしい生活であった。
『松はみな枝垂れて南無觀世音』
『松風に明け暮れの鐘について』 (正誤表には「松風に明けくれの鐘ついて」とある。)
『ひさにぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる』
大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて行乞流轉の旅に出た。
『分け入つても分け入つても青い山』
『しとヾにぬれてこれは道しるべの石』
『炎天をいたヾいて乞ひあるく』
(鉢の子・後述略)」