木・佐藤忠良 画

木・佐藤忠良 画
木・佐藤忠良 画
木・佐藤忠良 画
木・佐藤忠良 画

 

木・佐藤忠良 画

 

 画/佐藤忠良

 文/木島 始

 こどものとも 539号

 2001年2月1日 株式会社 福音館書店:発行

 

佐藤忠良著「触ることから始めよう」(1997.3.10.講談社:発行)の『見るということ』の項(34~37頁)には次のようにある。

 

「この数年、アトリエを出て外で古木をスケッチすることが多くなりました。

以前から樹木には興味を持って描いていましたが、ある日、舟越保武(ふなこし やすたけ)が書いた『しわ』という随筆を読んだとき、まったく自然にスケッチブックを持ってアトリエを飛び出し、古木のスケッチに出かけていたのです。・・・・・・・」

「顔のしわが、ますますふえて来た。年相応というのか。この頃はしわの奥に顔があるようなものだ。『君はいい顔になった。しわがとてもいい』と言った友人がいた。これでも賞めたつもりなのか。私はちっとも面白くない。・・・・・・しわは顔だけではない。肘の後ろの所に、はっきり現れる。自分では、ちょっと気がつかないが、肘の後のしわは、そぞろ哀れ、といったところだ。・・・・・・・(舟越保武随筆「しわ」)── 中略 ──  この舟越保武の随筆が古木をスケッチするきっかけになったのです。

・・・・・・・木には、人間のようなずるさと誠実さとがないまぜとなったせつなさはありません。ただ、せつなさだけがある。風だとか雨などの自然の力に負けまい、あるいは地震に倒れまいとする闘いのせつなさ。人間でいうなら、ガンになった人ががんばって病を治そうとするのに似ています。木のこぶしは、そうした闘いのせつなさから出来たものなのでしょう。この頃はほとんど日記を書くように毎日古木を描きに出かけています。(後述略)」

 

この絵本「」の折り込みふろく『絵本のたのしみ』には『作者のことば・老木・佐藤忠良』があり、その冒頭には次のように書かれている。

 

「数年前、友人のエッセイに目を通していると、『人の皺は美しくない』と書かれていた。

たしかに私たちの身体のどの部分の皺も美しいとは言えないかもしれないが、皺はその人の履歴の現れでもある。

おそらく私たち人間は、年輪を重ねるにしたがって、生きることへの誠実さと、そこから逃れようとするあがきが、綯(な)い交ぜになり、顔に現れるのであろう。

そんなことを考えながら、ふと、日頃見過ごしていた樹木のことを思い浮かべ、スケッチブックを抱えてアトリエを飛び出した。

いつも何気なく通り過ぎていた近所の老木と対峙しひたすら木のデッサンを始めた。── 略 ──

これまでは、美しいとは思いながら路傍に落ちている枯葉を手にしたことはなかったのに、この頃は、虫に食い尽くされた葉脈だけの葉の美しさに『ごくろうさん』の声までかけて、拾ってしまう老人に私はなったようである。」

 

この絵本「」を描いた時、佐藤忠良は89歳で十年以上も木をデッサンしていると語っている。

老木と、様々な事があった自身の生涯とを重ね合わせていたのだろうか。

 

この「」を出版した次の年、2002年2月5日、親友の舟越保武は89歳で亡くなった。

 

晩年、ほとんど木を描いていた佐藤忠良は、2011年3月30日、老衰により98歳で逝去した。