忠別ダムの水没地区

忠別川と共に生きて-忠別ダムふるさと誌-
忠別川と共に生きて-忠別ダムふるさと誌-
わがふるさとは永遠に-忠別ダム水没地の記録-
わがふるさとは永遠に-忠別ダム水没地の記録-

 

忠別ダムの水没地区

 

ここに忠別ダムで水没した地区の記録がある。

本「忠別川と共に生きて-忠別ダムふるさと誌-」とDVD「わがふるさとは永遠に-忠別ダム水没地の記録-」である。

 

本、DVD共に、平成19年(2007)3月に完成した「忠別ダム」によって水没してしまった地区の記録である。

 

水没した地区は主に美瑛町忠別である。

 

旭川市から東川町を通って大雪山旭岳、天人峡へ行く道路は、忠別川の「志比内橋」を通り過ぎると東神楽町に入り、しばらく進むと一旦美瑛町に入り、再び東川町へ入って行く。

この道路は忠別川に沿って出来ているため、その地形上、三ヶ町に跨がっている。

 

忠別ダムで水没した地区「美瑛町忠別」は東神楽町志比内を過ぎ、大雪山旭岳、天人峡へ行く道の途中にあった。

 

この地区は特に目立った所も無かったが、酒・雑貨店の「武重商店」があり、そのまま道を大雪山旭岳、天人峡へ進むと他に商店が無いため、人々はここで喉を潤したり買い物を済ませて行った。

 

住所は美瑛町忠別であったが、美瑛町市街に行くより、東川町を通り旭川市へ行く方が便利なため、古くから東川町とは縁が深かった。

 

美瑛忠別小学校閉校記念碑
美瑛忠別小学校閉校記念碑

忠別川の対岸は東川町野花南(ノカナン)地区である。

ここの住民はこの忠別地区の人々と共に暮らしていた。

 

野花南から東川市街へ行くにはどうしてもこの忠別地区を通って行かなければならなかった。

忠別地区には忠別小学校があった。

この小学校に東川野花南の子供達は通っていたのである。

 

だが病院へ行くにも、高校へ通うにも不便な所であった。

そのためか、戦後何度か美瑛から離町して東川へ編入しようと云う問題が持ち上がった。

 

何処へ行くにも、何をするにも不便な所であったが、人々の心はいつも寄り添っていたし、何か問題が起こると皆なが我が事のように心配してくれた。

子供達はいつも温かく回りの人達が見守ってくれていた。

 

春遅い所であったが、雪の中にネコヤナギ、川淵に福寿草、少し顔を出したフキノトウなどを見つけた時は、長い冬から解き放たれる喜びに満ち溢れていた。

夏には畑でトマト、キューリ、トウキビ、スイカ、様々な野菜が採れた。

秋にはジャガイモ掘り、大根抜きなどで皆な働いていた。

忠別大根の有名な産地でもあった。

冬には寒い中、ストーブを真っ赤にして、漬け物をつまみながらお茶を飲み、正月が来ると兄弟親戚が集まり、ご馳走を食べ酒を酌み交わした。

 

野原にはキツネ、タヌキ、エゾ鹿、野ウサギ、ヘビ、時には熊が、我が庭のように平然と歩いていた。

親も子も孫も、爺ちゃんも婆ちゃんも、地区の皆なを知っていたし、何処にでもあるような田舎の長閑な忠別地区だった。

 

昭和63年(1988)3月31日、ダム水没に伴い美瑛忠別小学校が閉校になり、75年の幕を閉じた。 

 

それから28年経った今日(こんにち)、今更、事の是非を論ずるつもりは毛頭無い。

ただ、誰も住んでいない所にこの忠別ダムが建設された訳ではないことを知ってもらいたいが為である。

 

この水没した忠別地区の人々の故郷への思いは住んでいた家々、田畑、小学校、地区会館などの跡地と共に、忠別湖の湖底に静かに眠っているのだろうか?。

 

尚、湖畔に望郷広場があるが、そこに「望郷之碑」が立っている。

その碑文には

「私達、忠別、ノカナン、志比内地区は 大正二年 主に長野県下伊那地区より移住し 開拓に全員が力を合わせ 田畑を切り開き 小学校・中学校の開校と 地区発展へと 又、両神社も設置され 開拓者の心の支えとし 色々な行事も行われていた。

又、高原野菜の名産地としても 名をとどろかせ 道外市場から期待されていたのである。昭和六十二年調印後 三十八戸がこの地を去り  七十五年の歴史と 先人の労苦に感謝し この地を去る民の新生活に幸多かれと祈るものである。

 忠別・ノカナン・志比内世帯者名

美瑛地区   23名 (個人名略)

東川地区     4名 (個人名略)

東神楽地区 3名 (個人名略)

      協賛1名 (個人名略)

 平成十九年六月吉日 忠別ダムふるさと会」

とある。

 

忠別ダム湖畔望郷広場・望郷之碑
忠別ダム湖畔望郷広場・望郷之碑
忠別ダム湖畔・望郷広場
忠別ダム湖畔・望郷広場
忠別湖・美瑛忠別側より
忠別湖・美瑛忠別側より