ビーバーの星・佐藤忠良 画
「ビーバーの星」
中村草田男 作
佐藤忠良 画
福音館創作童話シリーズ 218
1969年10月1日初版発行 福音館書店
この「ビーバーの星」の最後の書かれている瀬田貞三の「解説」には次のようにある。
本篇の作者は、俳句作家として名高い中村草田男(なかむら くさたお)にほかなりません。その人が、よく知られた「降る雪や明治は遠くなりにけり」の作者であるといえば、おおかたは、ああ、そうかといわれるかもしれません。しかし俳句を知らないかたがたのためにいえば、斎藤茂吉が短歌をしんに近代化したのとおなじように、俳句の歴史のうえでは俳句をしんに近代化した詩人ということになりましょう。江戸時代からだれにでも作れて、すっかりよごれた十七文字の風流の道具を、明治のころ、正岡子規が一度洗いなおしたあと、その洗いなおされた、もっとも短い詩形に、生きた人間の切実な声を、美しくひびきとおるようにしたのは、この人だったと、いえます。(中略)
この中村草田男さんに、みずからメルヘンとよぶ、このような物語作品のあったことは、じつは作者をかこむ俳句の世界の人たちのあいだでさえも、よく知られてはいませんでした。それは、そのメルヘンの一篇さえ、一度も本の形になったことがなくて、あまりにも俳句一途な作者のそちらの名声におおわれていたことと、メルヘンの発表が、終戦あとのごく短かい、混乱した一時期にすぎなかったこととによると思われます。すなわち、この物語は、昭和二十一年四月のある子ども雑誌に、まず子どものための短篇を一つのせたのを皮切りとして、二十四年七月までに、おとなの雑誌に四篇のおとなにあてたメルヘンを発表して、わずか四年のうちに五篇だけで、制作をうちきられました。そして、そのさいごの作品、昭和二十四年七月号の「文芸」にのせられた「海狸(ビーバー)」とよぶ一篇が、ここに紹介された作品です。(中略)
挿絵の佐藤忠良さんは、新制作派に属する日本有数の彫刻家で、かつ私たち子どもの本の関係者にとっては、「おおきなかぶ」や「ゆきむすめ」など、北方ロシアの童話の美しい挿絵でよく知られている絵本の画家でもあります。その画家がふたたび寒気りんりんとした北方の物語にとりくむことになって、このように実体的なドローイングで彫りこむような、きびしい、物語にふさわしい挿絵がつけられました。物語とともに深く味わっていただきたいと思います。 (児童文学者)
この「ビーバーの星」の絵本の書き出しは
「むかし、あるアメリカ・インディアン──北方の、海岸からずっと遠のいた森林地帯に住む、ある種族──のあいだに、あるとくべつの言い伝えが代々受けつがれ、また、それを正しくあかす事実も、つぎつぎとあらわれていたことがありました。
それは、こういう言い伝えでした。この種族のなかのだれかの家に、新しく子どもが生まれたとき、七日目の夜に、親はその子の胞衣(えな)を森林の奥にたずさえていって、地中へうずめ、三日三晩だけそのままにしておく。すると、そのあいだにいろいろな動物がその地点の上をたまたま横切るであろうが、いちばんはじめに横切った動物が、その子の一生の『守護神(まもりがみ)』になる──というのです。・・・・・・・」
と書かれている。
さらに「著者紹介」として下記のようにある。
中村草田男(なかむら くさたお)
1901年、中国廈門(あもい)に生まれる。本名清一郎。1933年、東京帝国大学文学部卒業。1929年以後高浜虚子に師事し、1946年、主宰誌「萬緑」を創刊、以後作句を指導して今日にいたる。現在は成蹊大学名誉教授、朝日俳壇選者をかねる。おもな著書に「長子」「火の島」「萬緑」「来し方行方」「銀河依然」「母郷行」「美田」(以上句集)ほかに「新しい俳句の作り方」「草田男自選句集」などがある。東京在住。
佐藤忠良(さとう ちゅうりょう)
1912年、宮城県に生まれる。1934年、東京美術学校彫刻科卒業。新制作協会創立当初より会員として活躍。1958年、まねかれて中国、朝鮮を訪問。1960年、日本人の顔の連作に対して高村光太郎賞を受賞。現在は新制作協会会員、東京造形大学教授。
おもな絵本に、サンケイ児童出版文化賞大賞を受けた「ゆきむすめ」「おおきなかぶ」のほか「おひゃくしょうとえんまさま」(以上福音館書店)、「森はおおさわぎ」などがある。東京在住。
(尚、この著者履歴は1969年初版発行当時のこと。)