わらしべちょうじゃ・佐藤忠良 画

わらしべちょうじゃ・佐藤忠良 画
わらしべちょうじゃ・佐藤忠良 画

 

わらしべちょうじゃ・佐藤忠良 画

 

 ぶん: さいごう たけひこ

 え: さとう ちゅうりょう

 1967年12月第一刷 むかしむかし絵本17 株式会社ポプラ社:発行

 

この「わらしべちょうじゃ」(わらしべ長者)の物語は誰もが知るところであろう。

 

ある男が、最初に掴んだ「藁しべ」を「みかん」に替え、さらにそれを「反物」、「馬」、「屋敷と田圃」に替えて「長者」となる話である。

 

この話の原話は古く、「宇治拾遺物語」や「今昔物語集」にある。

「宇治拾遺物語」には「長谷寺参籠の男、利生に預る事 」と題されている。

 

「宇治拾遺物語」や「今昔物語集」もその冒頭は「むかし、むかし」ではなく、「今は昔」で始まる。

 

そこには「今は昔、父母、主もなく、妻も子もなくて、只一人ある青侍ありけり。すべき方もなかりければ、観音たすけ給へとて長谷にまいゐりて、御前にうつぶし伏て申けるやう・・・・・」とある。

一人の喰うや喰わずの貧乏な青侍が長谷寺の観音様に詣で願をかけたところ、「なににてもあれ、手にあたらん物を取て、捨ずして持ちたれ」との仰せに従い寺を出ようとした所、「大門にてけつまづきて、うつぶしに倒れにけり。起きあがりたるに、あるにもあらず、手ににぎられたる物を見れば、藁すべといふ物をたゞ一筋にぎられたり・・・・・」、お寺の大門に躓いて倒れた時、「藁すべ」を偶然手にした。

その「藁すべ」に虻を括りて歩いてゆくと、「長谷にまいりける女車の、前の簾をうちかづきてゐたる児(ちご)の、いとうつくしげなる」に逢い、「藁一筋が、大柑子(こうじ)三(みつ)になりぬる事」となった。

その後、やんごとなき女房の喉の渇きを大柑子三つにて鎮め、「此柑子の喜をばせんずるぞといひて、布三匹取らせたれ」と布三匹を得た。

「布三匹」の内、布一匹で「馬」交換し、更に布一匹で「「轡(くつわ)や鞍(くら)」に替え、京都に上り宇治に渡り布一匹で「馬の草と食料」とに替えた。

京の九条辺りで馬を売ろうとしたところ、馬を所望している家の主に、「絹や銭などこそ用には侍れ。おのれは旅なれば、田ならば何にかはせんずると思給ふれど、馬の御用あるべくは、たゞ仰にこそしたがはめ」とて、「鳥羽の近き田三町、稲すこし、米など」と馬を引き渡し、その家を預けられ、「おのれ、もし命ありて帰のぼりたらば、その時、返し得させ給へ。のぼらざらんかぎりは、かくて居給へれ。もし又、命たえて、なくもなりなば、やがてわが家にして居給へ。子も侍らねば、とかく申人もよも侍らじ」と云って、その家の主は馬に乗り何処かへ行ってしまった。

結局、その屋敷の主は帰ることなく、その家と田圃は青侍のものとなった。

「その家あるじも、音せずなりにければ、其家も我物にして、子孫などいできて、ことのほかに栄へたりけるとか。」と「宇治拾遺物語」にはある。

 

ほとんどこの「わらしべちょうじゃ」の絵本と「宇治拾遺物語」とは同じで話であるが、けつまずいたのは「石」と「大門」の違いがある。

寺の大門は門を閉じる戸を納める為、下に横木がある所が多い。

その大門の横木に躓いたのであろう。

 

又、こういう短い文章の絵本では仕方が無いのかもしれないが、「わらしべちょうじゃ」では、この男は労せずして長者をなったように感じるのに対して、「宇治拾遺物語」のほうが観世音菩薩の慈悲はもとより、この男の善良さ、他人への優しさが功を奏したように感じられるような気がする。

 

はせでら長谷寺

奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派の総本山。山号は豊山。天武天皇の勅願により道明が草創した本 (もと)長谷寺に始まる。のち聖武天皇の勅願寺。天正年間( 1573~1592 )専誉が再興。本尊の十一面観世音菩薩は長谷観音として著名。西国三十三所の第八番札所。桜・牡丹の名所。ちょうこくじ。はつせでら。泊瀬寺。初瀬寺。豊山 (ぶざん)寺。長谷観音。(スーパー大辞林3.0 (C) Sanseido Co.,Ltd. 2010)