佐藤忠良・上村六郎Relief・国際染織美術館
佐藤忠良は旭川市の優佳良織工芸館の隣りにある、「国際染織美術館」の入口前の右横壁に、上村六郎博士のレリーフを1968年に作成し設置している。
この「「国際染織美術館」は昭和61年(1968)に開館した。
そのため、昭和61年(1968) 佐藤忠良はこの「「国際染織美術館」の開館に合わせて、「上村六郎博士のレリーフ」を作成し、入口前の壁に設置したものだろう。
旭川市の台場付近の高台に優佳良織工芸館はある。
その優佳良織工芸館の駐車場から真っ直ぐ上にあるのが「国際染織美術館」である。
駐車場から右に昇り、さらに建物に沿って行くと「優佳良織工芸館」がある。
その優佳良織工芸館の下を降りて行くと「雪の美術館」がある。
この優佳良織工芸館と国際染織美術館、雪の美術館とを合わせて「北海道伝統美術工芸村」と称している。
優佳良織工芸館は昭和55年(1980)に「木内綾」がその息子と共に建設した。
その開館記念の誌に「上村六郎」が讃歌を載せている。
麗人讃歌 上村六郎
遙かなる北の国
旭川の丘の上に
雨に堪え
風に耐え
雪をしのぎ
美しくも建てる北方民芸の殿堂
燦として輝くその艶すがた
まさに北の麗人
私はこよなくそれを愛し
こよなくそれを喜ぶ
芸術にあれ
工芸にあれ
学問にあれ
すべての美しきもの
すべての優れたるもの
すべての偉大なるもの
それはただ人間の
情熱と愛情とによってのみ成る
私はこのことを心から感じている。
北方の麗人よ
とこしえに美しき花を咲き続けよ
私はそれを期待し
心からそれを喜ぶ。
(日本染織文化協会会長) 優佳良織工芸館開館記念
【上村六郎】 (1894.10.10.~1991.10.29.)
上村六郎は染織文化研究の第一人者であった。
明治27(1894)年10月10日、新潟県刈羽郡に生まれれ、京都高等工芸学校、京都帝国大学で染色学・繊維学を学ぶ。
武庫川女子大学教授、大阪学芸大学教授、新潟女子短期大学教授、新潟青陵女子短期大学学長、四天王寺女子大学教授、日本染織学園園長を歴任する。京都大学理学博士。
晩年は旭川市にある優佳良織工芸館に隣接する国際染織美術館の館長を勤めた。
日本染織文化協会名誉会長であり染織文化研究家で、茜(あかね)・萌黄(もえぎ)・山吹(やまぶき)といった 日本の伝統色の【色】を決めたとも云われている。
国際染織美術館には、上村六郎氏のコレクションを引継ぎ、日本及び世界各地の染織工芸品数千点が収蔵されている。
まさによき配色 上村六郎
(日本染色文化協会会長・理学博士)
「私が、エルムユーカラ織を初めて知ったのは極く近年の、新しい出来事である。
四年前の、日本民芸協団と大阪工芸館との共催で行われた、全国日本民芸公募展の展覧の際に、ハッと立とどまって見入ったのが、そもそもこの織物との初めての出会であった。(-浮織の話-)
私は木内さんがこの浮織に目をつけられたということに、まさに重大な意味があったと考えているところで、この展覧で、初めてエルムユーカラ織にめぐり会った私は早速その出品物を手に入れて、日常の着物として楽しみたいと思い、そのことを申し出たところ、これはすでに三宅忠一館長のものとして予約されているというので、すぐにもう一枚作ってもらうようお願いし、木内さんの好意で、ついにそれを手に入れることが出来た次第である。
そらから一年たって、一昨年(昭和五十二年)の全国日本民芸公募展で、私は再びエルムユーカラ織のなつかしい姿に、幸いにもまためぐり会うことが出来たのであった。
この度のものはベスト(袖無)である。・・・・・・・(中略)
その時の私の感想は次の通りであある。(「日本の民芸」誌に発表)
「今回の展覧会で私の目をひいたものの一つは、まさに北海道のユーカラ織であった。その中で、私が特に推賞したいのは、この袖無(ベスト)の色の使い方である。あれだけの、美しい色の調和は、並大抵の人では出来まいと思う。私は織の方は素人(しろうと)で、よくは分からないが、色については多少の鑑識眼をもっているものと自惚れている。よくもあれだけのうまい配色が出来たものと、感心する。沖縄の染織と同じく、どこかエキゾチックなところがあって、その点、見る人の眼をひき易いという利点もあるが、しかし、そういう意味では決してなくて、まさによき配色である。」
以上が私の審査評である・・・・・・(以下省略)」
(「優佳良織作品集」木内綾 昭和55.5.27 発行:東京美術 121~123頁より)
尚、国際染織美術館発行の「染織美の展観」の中で、国際染織美術館館長として上村六郎は「染色の発見と発展」と題して29頁から41頁に亘り書いている。