西條八十 「懐かしき母」

抒情詩と随筆 わが詩わが夢 西條八十
抒情詩と随筆 わが詩わが夢 西條八十

 

西條八十 「懐かしき母」

 

西條八十はその著「抒情詩と随筆・わが詩わが夢」のなかで自身の「母」を語っている。

 

 

「懐かしき母」 西條八十

 

 母といふ文字に形容詞を添えるなら、わたしの母は『なつかしい母』であつた。『親しい母』であつた。『賢い母』とか、『ありがたい母』とかいふやうな言葉は、どうもぴたりとあてはまらない。

 物ごころついてから、わたしは母に叱られたこともなく、特に教訓めいたものを授けられたこともない。わたしが甘えるよりも、わたしに甘える母であつた。

 わたしは十六歳で父を喪つた。七人の子を生んだ母德子は、次男であるわたしを頼り、わたしが二十三歳の青年時代から、昭和九年七十四歳の高齢で亡るまで、わたしと一しよに暮した。默々の裡にわたしを了解し、いかなる場合にもわたしを信じ、指圖せずまた障げず、わたしをして思うところに赴かしめてくれた寛容な母であつた。

 わたしの幼いころの記憶に、もつとも強く殘つてゐる母の印象 ―― それは、或夜、母が燈火の前でわたしにひろげて見せた兩の掌であつた。

 『若いとき、あんまり働かされたものだから、指がみんなこんなに不具になつてしまつた』と、母は歎くやうに云つた。

 びつくりするほど尖端(さき)がすり減つて、みにくく歪んだ指であつた。

母は美しいひとであつただけに、その指のみにくさが特に目立つた。

 相模野(さがみの)に生れた母は、少女時代に西條家へ貰はれてきて、寡婦で男まさりと云はれた祖母に下婢同様に働きながら育てられた。なんら青春時代のよろこびを知らなかつた。その上に、長じて娶(めあ)はさるべき相手であつた西條家の嗣子といふ人 ―― これがわたしの母にとつて生涯にたヾ一つの甘美な夢であつたらう ―― が夭折したため、二十年も年長のわたしの父と結婚を餘儀なくされたのであつた。

 母のみにくい指を眺めたとき、わたしは、早く大きくなつてこの母に安樂をさせてやらねばならぬと考へた。幼ごころにその決意をした日のことを、わたしは今もはつきりと覺えてゐる。

 さうしてわたしは、母が死歿する日まで、この決意を忠實に實行した。

 きびしい姑が死ぬと、母は、今度はまるで父親のやうな良人の手に抱かれて、少女の昔に還り、全く世間といふものを知らずに暮した。わたしの父は、勤儉貯蓄、たヾ孜々營々家産をつくることに専念した人で、家計の切盛りなどもすべて自分でやつたので、母はそれこそ米の値段も知らなかつた。

 父はかなりの富を殘して死んだが、その資産は、いくほどもなくわたしの長兄の事業の失敗から、母が知らぬまに蕩盡され、西條家は歿落した。さうして、母はおどろいた小鳥のやうに、次男であるわたしの肩にとまつたのである。

 この不幸な母は、死ぬ十數年前、底翳のために兩眼の明を失つてしまつたが、まだそれほど目が悪くないころ、わたしは母と二人で數日間、相模の伊豆山温泉で暮したことがあつた。たまたま附近の山野を散歩して、わたしは母があまりに多く植物の名を知つてゐるので、びつくりした。そこらの黑土に生えてゐる灌木蔬菜の名を呼びながら、嬉々として彷徨つてゐる母の姿には、十七歳の乙女の春、訣別した故國の友に久闊の情を叙する者の歡喜があつた。

 (お母さんは生れながらの詩人だ)

 その時、わたしの心の中でさう思つたが、考へてみれば、わたしの詩人としての素質も、この母からうけついだのであらう。

 盲目となつてから十餘年間、わびしい暗黑の中で春秋を暮してゐた可哀さうな母が、わたしのためにせめてもと盡してくれた助力は、長火鉢の前で、原稿をとぢる紙縒(こより)をつくつてくれることであつた。

丹念に縒つてくれた紙縒を束ねては、その胴をキチンと括り、わたしのために毎日塗盆のうへへ並べておいてくれた。

 だが、私がその手づくりの紙縒によつて、ひそかに母の健康を卜(うらな)つてゐたことは、母も氣がつかなかつたであらう。最初のうち、いかにも昔氣質の人のつくつたらしく、頑丈にビンとのびてゐた紙縒が、母の健康の衰へるにつれ、めつきりとその勢を失つてきた。そして、死ぬ年の三月、病臥する前ごろにはほとんどベッドの芯の藁のやうにクタクタになつてゐた。わたしはそれで、今度の母の病症のなみなみならぬを直感した。で、もうその貴重な紙縒をつかふことをやめて、ふたヽび起ちえぬ病床につくその當日まで、相變らず私のために、せつせとそのクタクタの紙縒を縒つてゐてくれたのであつた。

 母は所謂良妻賢母型の人ではなかつた。どちらかといへば、生れながらの赤ん坊のやうな、我儘で氣むづかしやで、感情中心の母であつた。殊に、盲目になつてからは、この性癖は一そう強くなつた。その性癖は、わたしにとつては嬉しい懐かしいものであつたが、わたしの妻にはかなり辛い負擔だつたにちがひない。今にして想ふと、わたしはあまりに母を愛したために、妻の幸福を少からず犧牲にしたやうな氣さへする。

 失明の二十年間、忠實に母を看護(みとり)してくれた妻の献身をおもふと、わたしは感謝の涙なきを得ない。

 

(西條八十著「抒情詩と随筆・わが詩わが夢」79~85頁より)