佐藤忠良・佐藤忠良作品集●大きな帽子

佐藤忠良作品集●大きな帽子 少年記
佐藤忠良作品集●大きな帽子 少年記

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佐藤忠良作品集●大きな帽子

 

「佐藤忠良作品集●大きな帽子」と題した大きな本は、横27㎝×縦38㎝で外箱と内箱の二重箱入り。

 

この本は昭和53年(1978)12月1日に現代美術社が「現代少年美術館」シリーズの第一巻目として発行したもの。

 

この本の中に佐藤忠良著の「少年記」がある。(106~113頁)

この「少年記」には佐藤忠良自身の出生から二十二歳までのことが書かれている。

 

その冒頭には「佐藤家の本家は代々農家です。農学校の教師をしていた私の父は、この本家で生まれ、最後もこの家に戻って亡くなりました。私が七歳のときです。二十七歳であった母は、私と弟の二人を連れて、北海道の夕張町にあった母の実家に戻り、それから私たちの北海道の生活がはじまります。『母さんは夜なべをして・・・・・』という歌がありますが、和裁のできた母は、本当にそういう毎日だったのをおぼえています。昔の女の人だから、二夫にまみえずというのでしょう、今おもうと、私たち兄弟のために随分大変な道を選んだものでした。・・・・・」とある。

 

「佐藤忠良作品集●大きな帽子」の内箱に掲載した写真のブロンズ像は佐藤忠良の長男をモデルにした「たつろう」という作品。

この本の中(18頁)で「モデルと私1」「●達郎」として次のように書いている。

 

「●達郎」

「一九四一年生れの私の長男です。ラジオの軍歌を子守歌に、防空演習の警報で、眼をさまして育ったようなものでした。色は白かったけれども、子供らしく、ふっくらしたのを一度も見ずに、私は一九四四年に戦争に出てしまいました。《たつろう》は私がシベリアから帰還して二年目に作った顔です。瞼が一重で、あまり大きいとは云えない眼なので、この息子の眼を作るのには苦労させられました。後の《少年》のときの眼の処理も穴ぼこにしてしまいました。達郎が小学校の時だったか、中学の時だったか忘れましたが、裸で立っているのを作ったことがあります。展覧会に出した後、壊してしまって、今はデッサンが一枚あるきりです。医者になりました。後に、彼の子供の竜平と、未菜がモデルとして登場することになります。」

 

さらに「子どもたちが危ない-彫刻家の教育論-」佐藤忠良:著 1985年2月20日(岩波ブックレット№.41)の中で「私の少年期」を書いている。

 

この後、佐藤忠良伝としては、市瀬見が昭和60年(1985)5月 25 日「彫刻家 佐藤忠良」(一光社:発行)を出版している。

 

佐藤忠良自身が七十六歳までの半生自伝を書いたのは、昭和63年(1988)6年1日から同年6月30日まで日本経済新聞社の「私の履歴書」として連載され、それに加筆して出版したのが佐藤忠良著「つぶれた帽子」(1988年12月15日、日本経済新聞社:発行)である。

 

佐藤忠良作品集●大きな帽子 書箱
佐藤忠良作品集●大きな帽子 書箱
佐藤忠良作品集●大きな帽子 書籍
佐藤忠良作品集●大きな帽子 書籍