鳳林山高幢寺古代誌
奉願口上書
拙菴、栖鳳林は嗣法の師、加州金沢城日本第二の本山椙樹林大乘護國寺前住良高大和尚、元禄九子年(1696)、武州足立郡中丸村加右衛門より百姓地を借り住菴し、其の節閑居安住の鎭守曠野金毘羅権現の小社三尺四方草葺に覆い、弐間に弐間半に建て置き申し候。
其の後、所縁之れ有り、中丸村より元禄十五午年(1703)、同國足立郡桶川町惣左衛門より百姓地を借り栖鳳林を引き移し、右鎭守の小社も前の如く引き移し申し候
寶永三戌年(1706)、備中國玉嶋と申す所の圓通寺に在住の良高先師、寶永六丑年(1709)六旬一歳にて遷化致し候に付き、武州桶川町栖鳳林を嗣法の弟子前住能州總持寺髙峯拙僧へ先師徳翁良高和尚の命に依りて右の菴栖鳳林を相い譲られ住菴仕り候。
又た所縁これ有り、寶永七寅年(1710)、同國荏原郡下目黒村の百姓、佐右衛門の借地へ栖鳳林並びに鎭守の小社ともに引き移し住菴仕り候ところ、享保三戌年(1718)、浪人御吟味の節、栖凰林御改め、同年八月十七日、伊奈半左衛門殿、公儀より、栖鳳林、右跡を借地、直證文なさること申し渡され、仰せ付け有り難き仕合わせに存じ奉り居り、同年戌八月二十日、関東三箇寺の内、越生龍穏寺孚説和尚の添書これ上げ、而して直證文二通、寺社御奉行松平對馬守殿へ持ち来り、寺社役人増田八郎左衛門之れを改見、納めおえる。
享保九年(1724)辰四月十日、屋敷改新地御奉行、蜂屋修理殿、大久保弥三郎殿、神保源右衛門殿、伊藤傳十郎殿、栖鳳林御改め申し渡され候、栖凰林、公儀表、借地右跡にして江戸邊借地の寺院並に、仰せ付けなさられ候間、貴院栖鳳林に本寺代付けらる可き候。
併せて静に住居なさるべき思し召し候はば、貴院御一代は御勝手次第になさられるべく候と申し渡され候。
享保十八年(1733)丑五月、寺社御奉行井上河内守殿之の御頼み由にて伊奈半左衛門殿用人田中傳七、目付小川藤蔵、栖鳳林菴地相い改め賣眷證文の寫し弐通、寺社御奉行、井上河内守殿御役所へ納めおえる。而して後、栖鳳林菴地の義、年貢地にして高領地なりと申され候。
中丸村、元禄九年已来、至于當亥にして四十八年に相い及び候に付き右鎭守の小社草葺覆ともに皆な悉く大破し候。
之れに依りて此の度び之の前より有り来り候通り修履し建て直し申したく願い奉り候。
之の願い通り仰し付け下さり候はば、有り難く奉り存ず可く候。
則ち有り来り候通り繪圖にし之を差し上げ候。 以上
寬保三癸亥年(1743)月
武州荏原郡下目黒村 曹洞宗 栖鳳林
◎誠に申し訳ありませんが、古文書不勉強の為、上記下記、読み間違いの箇所お許し下さい。
◎お願い この古文書の中、当方判読不能の字、或いは間違って読んでいる字がありますので、恐れ入りますが「お問合せ」にて訂正の御一報下さいますれば幸いに存じます。
(住職合掌)
この「高幢寺古文書」は下記に依れば、高幢寺十三世良雄の代に、開創当時よりの書類を書き改められた書冊のようです。
扣え書き覺え
一 寬保元辛酉年(1741)八月十三日の時まで、増上寺方丈へ栖鳳林口上書弐通、差し出し申し候。
取り次ぎ諸化役は、潮巌念潮。二人の内、潮巌取り請け、内見取り次ぎ、方丈へ披露相い渡し、潮巌申され候は、先年已来當(寺)の領地、下目黒村に御座る、公儀より成る御改め候に逢い成され候次第御書付け、此の度當山へ御届にして御座候。
但し御届け一と通りにして御座候の条、仍にて御書付け納め届け置き申し候。
享保十八年丑(1733)五月寺社奉行井上河内守殿より、伊奈半左衛門殿へ御頼みの由にて伊奈半左衛門殿用人田中傳七、目付小川藤蔵、右両人の役人、伊奈半左衛門殿、御代官所武州荏原郡五本木村名主杢兵衛宅へ罷り越され、下目黒村の百姓屋鋪賣眷證文、改られ候に付き、栖鳳林も改られ、借地の地主佐右衛門の代わりに栖鳳林、所持し仕り候。
賣眷證文弐通書き写し御代官の役人中へ差し出し申し候。
維れ時、弘化三丙午年(1846) 霜月吉旦
鳳林山高幢禪寺
十三世 良雄代 之を(書き)改める。
奉願口上書
拙菴栖鳳林者嗣法之師、加州金沢城日本第二之本山
椙樹林大乘護國寺前住良高大和尚、元禄九子年武州
足立郡中丸村加右衛門与申百姓地を借り住菴仕其節
閑居し安住之鎭守曠野金毘羅権現之小社三尺四方覆
草葺弐間ニ弐間半建置申候、其後所縁有之、中丸村
よ里元禄十五午年同國足立郡桶川町惣左衛門与申百姓地
を借り栖鳳林を引移志右鎭守之小社毛如前引移シ申候
寶永三戌年備中國玉嶋与申所圓通寺在住良高先師
寶永六丑年六旬一歳而遷化致候ニ付、武州桶川町栖鳳林
を嗣法之弟子前住能州總持寺髙峯拙僧江先師徳翁
良高和尚依命而右之菴栖鳳林を被相譲住菴仕候、又所
縁有之、寶永七寅年同國荏原郡下目黒村百姓佐右衛門借地江
栖鳳林並鎭守之小社共引移シ住菴仕候處、享保三戌年
浪人御吟味之節、栖凰林御改、同年八月十七日伊奈半左衛門殿
被申渡従 公儀栖鳳林直證又借地古跡ニ被爲 仰
付難有仕合ニ奉存居、同年戌八月二十日関東三箇寺之内
越生龍穏寺孚説和尚之添書上之而直證文弐通
寺社御奉行松平對馬守殿江持来寺社役人増田八郎左衛門
改見之納訖 享保九年辰四月十日屋敷改新地御奉行
蜂屋修理殿大久保弥三郎殿神保源右衛門殿伊藤傳十郎
殿栖鳳林御改被申渡候栖凰林 公儀表借地古跡ニ而
江戸邊借地之寺院並ニ被爲 仰付候間貴院栖鳳林ニ
本寺代可被付候併静ニ住居可被成思召候ハヽ貴院
御一代者御勝手次第ニ可被成候与被申渡候 享保十
八年丑五月 寺社御奉行井上河内守殿御願之
由ニ而伊奈半左衛門殿用人田中傳七目付小川藤蔵栖
鳳林菴地相改賣眷證文之寫弐通 寺社御奉行
井上河内守殿御役所江被納訖而後栖鳳林菴地之義
年貢地丹し高領地奈利と被申候中丸村元禄九年
已来至于當亥ニ而四十八年ニ相及候ニ付右鎭守之小社
草葺覆共ニ皆悉及被仕候依之而此度前之よ利有
来候通り修履仕建直シ申度奉願候願之通リ被
仰付被下候ハヽ難有可奉存候則有来候通リ繪圖
仕度上之候以上
寬保三癸亥年 月
武州荏原郡下目黒村 曹洞宗 栖鳳林
乍恐書付を以奉願上候事
私儀高峯和尚祈願之好身有之ニ付數年来歸依
仕持地之内を借地ニ仕爲致家候前置申候御所
高峯和尚大願之子細有之由ニ而寺建立之念願之
御座候所相應之地面無之年久敷此義を被相歎
候處従之被及老年候ニ付念願空可相成義於且家
歎敷奉存候依之私所持之屋敷畑共々弐町八反五
畝歩之地面此度先祖爲菩提子孫爲祈禱丹高峯
和尚江寄附仕相應之引寺被致候様仕度奉願候志
私勤来候御年貢該役高峯和尚よ利被相勤候傳者
相障候義無御座候間願之通被 仰付被下候ハヽ
難有可奉存候 以上 増上寺
御佛殿料
寛延元辰年八月 武州荏原郡下目黒村
願人 百姓 佐右衛門 印
寺社御奉行所
御役人中様
右佐右衛門願之通高峯和尚江地面屋敷共寄附地ニ
被爲 仰付□而引寺等被爲 仰付候而茂佐右衛門
勤来候御年貢諸役高峯和尚よ利被相勤候得者
於村方相障候義無御座候間願之通被爲 仰付被
下候様 私共村一同奉願上候依之奥印仕一続ニ奉
願上候以上 増上寺
御佛殿料下目黒村
月数 弥次兵衛 印
年寄 傳左衛門 印
惣百姓代 傳右衛門 印
乍恐以口上書申上候
拙菴ニ御座候曠野金毘羅大権現取拂被仰付奉
畏候御處示曠野賓度羅黄色大権現菴ニ御座候金毘
羅之爲代右曠野賓度羅黄色大権現を拙庵之
鎭守ニ而後仕度奉存候此従被御聞置被下候様ニ
奉願上候以上
延享三丙寅年五月 武州荏原郡下目黒村
曹洞宗 栖鳳林
高峯 印
寺社御奉行所
御役人所中様
乍恐書付を以奉願上候御事
一 拙僧儀備中國玉嶋圓通寺良高よ里法系附属
仕候処亡師在命之節より大願之子細有之武州
於江府之地一ヶ寺建立仕永法孫を残国家安全
御武運御長久之御祈禱相勤次大願之志を相立申度
念願御座候處亡師及老年志之大願成就可仕余命無
之付数第之内拙僧江大願之志を継候様申残候間念
願成就不仕□ハヽ一生一寺之住職可仕儀不相免候之
間丹誠を盡し亡師存念之可相守旨末期之節迠申
置候依之野僧及老年候迠一ヶ寺ニ茂住職不仕御當地
一寺建立仕度勤行仕候得共一寺建立之幸無之年月
を送里空老衰之躰ニ罷成申候然處年来借地罷在候
増上寺 御佛殿料武州荏原郡下目黒村拙僧
地□百姓佐右衛門儀祈願之且縁ニ而随身御座候ニ付数年野僧
念願之志見聞之餘り候哉借地致置候佐右衛門所持之
御年貢地屋鋪畑共弐町八反五畝歩之地所先祖菩提
子孫爲祈禱拙僧江寄附可仕旨申之候間右地面譲
受申度奉願候且又此度同國神奈川宿此度喜六郎殿
御代官所之内真言宗金蔵院末同國久良岐郡戸部
村ニ有之候高幢寺と申古跡御年貢地境内四千五百
坪御水帳之記有之候小寺地面寺號共ニ金蔵院よ里
村役人共連印ニ而譲受仰方より茂相障候儀無御座候
間下目黒村拙僧此度寄附を受候御年貢地弐町八
反五畝歩之内江引寺仕法縁有之候間山城國綴喜郡
宇治田原禅定寺末寺仕相残候地面者抱地仕高
幢寺元地者取拂畑ニ仕双方御年貢諸役共唯今迠之
通拙僧方より相勤可申候間寄附地併引寺
御免被 仰付被下候らハヽ亡師念願茂相立難有
可奉存候□右願之非双方村奉百姓共少茂相障
候儀無御座候間御吟味之上偏以御慈悲願之通被
仰付被下候ハヽ難有可奉存候以上
寛延元年辰八月 増上寺 御佛殿料
武州下目黒村 百姓 佐右衛門 地借
曹洞宗 高峯 印
寺社
御奉行所
口上之覺
一 拙寺儀仰通良高大願之子細有之壹箇寺
致建立度念願之所老衰餘命無之大願之志を
相継申唯今まて壱ヶ寺ニ茂不致住職丹精を
尽候御處武州神奈川真言宗金蔵院末同國戸
部村ニ而高幢寺与申古跡寺號を譲請且又年来
致借地候地面百姓佐右衛門檀家ニ付念願之志見聞之
餘り候哉佐右衛門所持之御年貢地畑弐町八反五畝
歩致寄附右高幢寺之寺號下目黒村佐右衛門寄
附之地面江引移シ一寺致建立度候右戸部村高幢寺
跡地者戸部村ニ而畑ニ致シ御年貢是迠之通於勤可申
旨 寺社御奉行所江奉願候所願之通被
仰渡候依之當 御役所江茂寺社御奉行御
連印之御状を以奉願候處場所御見分被遊御吟
味御窺之上御帳面江御書戴被下候□□ 仰
渡奉畏候少茂相違之儀仕間鋪候爲□證此期
御座候以上
寛延二己巳年三月二六日
武州荏原郡下目黒
高幢寺 印
新地御奉行
本多平右衛門 様
西尾小左衛門 様
筒井治左衛門 様
蕗木伊兵衛 様
御役所
右之□私共儀茂可奉所知旨被 仰渡奉畏
候以上 下目黒村
年寄月数 弥次兵衛 印
同村寄附人 佐右衛門 印
右表事證文之写己三月二十六日 新地奉行所内寄
合御列席江前出上納候本證文之写也 江戸目黒
高幢寺
源尊 印形
奉願上口上之覺
一拙菴ニ有来候鎭守曠野金毘羅権現之小社三尺四
方小社覆茅葺弐間ニ弐間半 先年元禄九子年
已来建置申候處 此前大破損仕候ニ付取除置此
度元之通立直シ申度奉願候願之通リ被 仰
付被下候ハヽ難有可奉致候以上
寬保元辛酉年十二月
武州荏原郡下目黒村
曹洞宗 栖鳳林 印
寺社奉行所
御役人中
乍恐以口上書申上候
拙菴ニ御座候鎭守曠野金毘羅権現之儀者 元禄九
丙子年已来有来ニ而御座候 拙僧先師日本第二之本山
加洲石川郡金沢城下椙樹林大乘寺前住徳翁良高 草
菴栖鳳林鎭守江金光明最勝王経第九之巻諸天夜叉
護持品ニ御座候曠野金毘羅大権現を奉移五十
壱ヶ年来先師よ里所持仕候菴之内ニ有来ニ
而御座候右申上候通リ讃岐國金毘羅大権現
之写ニ而者毛頭無御座候 先師勧請之鎭守
ニ付是迠朝夕奉拝候儀ニ御座候得者唯
今迠之通リ菴之内ニ被差置被下候様偏ニ
奉願上候以上
延享三丙寅年五月
武州荏原郡下目黒村
曹洞宗 栖鳳林
高峯 印
寺社御奉行所
御役人所中様
乍恐以口上書申上候
拙菴ニ御座候鎭守曠野金毘羅大権現之事天竺
國に現れ玉いてハ霊鷲山者鎭護之神之金毘羅権神
と申候又右之神震旦國に現れたまいてハ招寶七郎
大權修利菩薩と申候又右之神日本國に現れた
満い亭者火徳星君火部聖衆曠野金毘羅賓度羅
黄色大権現と申候三國各神之名者異と申せ共彼神
之神體とは本世利一躰丹て御座候 昔釋迦牟
尼佛よ里靈鷲之付囑を□より□いて正法五百年
像法千年末法万年之間如来之正法修行之法師
を擁護加被したもふ神之而御座候若人何り此神
越信敬し奉れハ人間の果報む那(な)し加らず其
信す流仁人之壽命越延長し福智越何さく
苦悩厄難災障越消除し諸之病魔業障越悉
除し一切之人之願とし亭成就せずといふ事
那(な)し今申候火徳星君火部聖衆曠野金毘羅賓度羅
賓度羅黄色大権現之神體とはその面容より大
夜叉之如両翼移り多満いて右之手にハ大刀劔越
取り左の手にハ縛の索越握り持ち六角頭襟額ニ
當冠り□の袈裟越掛ケ腰越巖上に遍寿んじ長
き爪ヲ履之内耳蔵す其神體大威靈□厳にし
て□く近ク遍□□次この神□慈悲ハ観世音菩
薩之慈悲耳非としく満しまして順縁遅
縁之人越撰ひた満わす心さし深く神佛ニ歸
敬す流輩何れも立所に其求願越叶へたもふ若
又人阿り一心ニ正向祈願す禮ハ禮即時爾霊験阿
らたなり昔永平道元和尚入唐之時千里□原ニ
五足之虎の難越□□れたもふ事大權修利菩薩
之威神力之有奈流由又道元禅師帰朝之砌り
□与日本之□堺竺羅が澳に船望て大風波之
難越救はれたもふ事偏ニ火徳星君火部聖衆
加護威神力之故なる由此義有越以曹洞一宗
之僧家寺門毎朝山門祈禱に招寶七郎大
權修利菩薩火徳星君火部聖衆道元和尚歸
朝已来四百九拾餘年之今之時世末運之僧侶
面々此神號越稱而祈禱懈事無御座候拙僧先
師徳翁良高此神之護法力に依而道元大和尚
日本江禪道佛法越お渡シ末世之禪學如来
之正法越修行仕事此神之神恩護持之所
致なり唯今下目黒ニ引建置候草菴栖鳳林
足立郡中丸村に始建候元禄九丙子年菴之鎮守
に右之神越先師勧請被致候以来中丸桶川
目黒三所合而今年寅迠五拾壱ケ年菴之内に
有来候通此度神号相改曠野金毘羅賓度羅
賓度羅黄色大権現称之内ニ唯今迠有来り候通
被差置被下候様偏ニ奉願上候 以上
延享三丙寅年五月
武州荏原郡下目黒村
栖鳳林
高峯 印
寺社御奉行
御役人所中様
京 吉田殿江願一条之事
賓度羅黄色權現者先師良高和尚護持
之神ニ而拙僧江被譲候右權現者 三輪大明神
御同躰之由ニ而 如来正法修行護持之人を
擁護加被し神ニ候故別而大切ニ崇敬仕候當時
武州下目黒村凰林草菴ニ安置仕候何卒得時
一寺建立之願も充候ハヽ守護鎮守与奉崇
度候依之外より毛頭相障候儀少茂無御座候
間別事之通右之神神名帳ニ被戴候様ニ願
存候 以上
武州荏原郡下目黒村
曹洞宗鳳林
高峯 印
延享四丁卯年九月
吉田家
御役人中
一 賓度羅黄色大權現當菴中ニ護持仕候来由
別書ニ相記帳候趣ニ御座候右神號今度
神名帳ニ被載加被下度偏ニ奉願候宜此従御
□成奉願候 以上
延享四丁卯年七月
武州荏原郡下目黒村
鳳林
高峯 印
吉田家
御役人中
武州荏原郡下目黒村 鳳林庵室ニ安置候賓度羅
黄色權現者三輪大明神 御同躰ニ而曹洞宗守護神
之由右之神吉田家神名帳ニ被載度□□願□之通
神名帳ニ被記候□為 如是候 以上
吉田家
鈴鹿下野守
卯十一月六日 雄 書 判
鈴□信濃守
□ 書 判
鈴□筑前守
雄 書 判
鈴□周防守
□方 書 判
鳳林菴
右之書大奉書弐ツ折之者文言月日同様之
書外ニ壱通有之候
以書付奉願候
一拙寺鎮守賓度羅黄色權現者三輪大明神
与御同躰ニ而於一宗者曠野金毘羅大権現と之
称し尊崇仕既延享四卯年九月一条関白様
御内佐々木明監殿御吹挙を以神名帳江御書
戴之儀相願候處願之御書戴被下候□同
年十一月六日付別紙写し通御□状被下候然ル
處於一宗ニ唱来候通曠野金毘羅大権現□今
□神名帳ニ御書加□御幣勧請額字被
成下候様奉願候者延享四年願之節者鳳林
菴と之唱山号寺号無御座候相立寛延元辰年
鳳林山高幢寺と之山号寺号譲請申候得共
滅罪者□不申候右願ニ付故障之被無御座候
間此従宜御沙汰可被下候 以上
武州荏原郡下目黒村
曹洞宗 鳳林山
文化七庚午年 高幢寺 印
十一月 本瑞 書判
吉田殿
御役人中
以書付奉願候
一武蔵國荏原郡下目黒村鳳林山高幢寺境内
鎮守賓度羅黄色大權現者□神大□貴命
ニ而他宗其外等ニ於ハ金毘羅大権現与唱候得共
曹洞ニ而者賓度羅黄色大權現与相唱申候既
先年神名帳御書戴奉願候得共今度
御幣納御額字等奉願候ニ付世上通称之
通金毘羅大権現与被成下候様奉願上居
右願之通被成下候上者神名帳江も□通り
御書戴奉願候□自他□障之儀□以無御座候
勿論由来書等別紙ニ申上候間此従宜御沙汰
可被下候 以上
武蔵國荏原郡下目黒村
曹洞宗鳳林山
文化八辛未年四月 高幢寺 印
□□ 書 判
吉田御本所
御役人中
前書之通相□□障之儀毛頭無御座候ニ付
同様奉願上候 以上
同國
同宗
西照寺
□ 書 判
一賓度羅黄色權現者三輪大明神与同躰ニ而於
一宗ニ曠野金毘羅大権現与称候ハヽ延享四卯年
神名帳書戴被願候節之願書其通可被書戴處
其の儀無ニ付而ハ今般新現神号改被願候□助者無之□
此従賓度羅黄色權現者三輪大明神与
同躰ニ而於一宗ニ曠野金毘羅大権現与称崇
敬仕候得共延享四卯年賓度羅黄色權現者与
而已申上候ニ付□通神名帳御書戴被成下候得共
其の節之願書ニ申上候通一寺建立之願も充
候ハヽ守護鎮守与崇敬可仕□願ニ御座候處
寛延元辰年鳳林山高幢寺与山号寺号
譲請一寺建立仕候付□□守護鎮守曠野
金毘羅大権現与奉崇敬候ニ付右之通神
名帳御書加様御幣納額字御染筆御
願申上候儀ニ而新現神号ニハ□而無御座候
右候得ニ付相□不申上□故障等無御座候 以上
武州荏原郡下目黒村
鳳林山
文化七庚午年十二月 高幢寺 印
本瑞 書 判
吉田様
御役人中
以書付奉申上候
一今般拙寺願ニ付御□物之儀者迠而被
仰付候節奉納可仕候此度□御印金五百□
奉差上候間宜御□□御披露可被下候 以上
武州荏原郡下目黒村
鳳林山
文化七庚午年十一月 高幢寺 印
本瑞 書 判
吉田様
御役人中
武州荏原郡下目黒村元鳳林菴室ニ安置
賓度羅黄色權現者三輪大明神与同躰ニ而於
曹洞宗ニ称曠野金毘羅大権現与一宗守護神
之由延享四卯年當家神名帳ニ所被戴賓度羅
黄色權現与兼而菴主加願□鳳林山高幢寺与一
寺建立依成就今般同寺守護曠野金毘羅
大権現与神名帳書加幣□納額字等願之
通所被成下如件
神祇管領長上家
文化八年未四月 公文所 朱印
覺
一曠野金毘羅大権現幣勧請併御額字
御添翰右願之通被成下□右之通御拝請
仕候仍而□此御座候 以上
目黒
文化八辛未年 高幢寺
七月十八日 代僧
瑞□ 印
吉田様
御役人中
明和元甲申年十一月吉祥日 御額師
京松原通寺町西入二丁目 凮㠶堂山田明石
同 寺町松原下ル町
取次 長谷川喜右衛門
引寺一条之部
一 武州久良岐郡戸部村ニ有之候法輪山高幢寺
地蔵院之儀 文永四丁卯年開闢ニ而今辰之年迠
四百八拾弐年ニ居成 拙寺末寺二十ケ寺之内相違無
御座候前之
御公儀江茂書上差出置申候而代々拙寺末寺ニ
紛無御座候 住持に茂拙寺より代々申付来候御處
元禄十六年大地震之節 辯才天鎮守之社を
始本堂庫裡門物置長屋湯殿雪隱等□外及
大破住持□儀仕候境内四千五百坪餘御座候處
其後度々津波打入右境内大半打潰シ住寺弥
致難儀候ニ付永住難成相願他山仕候其後者住
寺茂難申付當分為留守居八十有餘之老僧
指置候 元来旦那壱人茂無御座田地等何茂無之
其上境内茂津波ニ打潰シ候之付殿堂修覆者不及
申留守居之僧當分之飯料茂無御座月々托鉢
ニ而村方ニ而仕ごく之置候之付村方難儀惣方同心
之上 正徳四午年以事付當分通之寺ニ致置時前
見合再建可仕者相願候ニ付願之通申付諸堂不
残通之置時前見合再建仕候先納ニ而御座候
一 右法輪山高幢寺地藏院境内四千五百坪餘御座候
内四間四面之鎮守之社其外本堂庫裡門物置長
屋湯殿雪隱等御座候処相違無御座候□處右之寺號
貴和尚御所里被成御引寺建立被成度御座候ニ付
則任御取里右之寺號永代致離末相譲御寄附
仕候儀相違無之御座候 御上者何方江御挽寺ニ被成
御建立之上何宗何連之末寺ニ相成候共拙寺構
少茂無御座候 自分拙寺門葉併一宗之儀者不及
申何宗ニ而茂無寺號之儀ニ付何角者相障候儀
毛頭無御座候若□而難□申相障候儀出来仕候ハヽ
拙寺□□罷出持明ケ可申候少茂御苦労掛申し
間敷候為後日永代離末譲状仍而如件
寛延元年辰七月二十六日
武州神奈川
東曼茶羅字
金蔵院 印
玄照 判
高峯大和尚
以口上書奉願候事
一貴院御末寺當村ニ有之候
法輪山高幢寺地藏院之儀住持尭順法印御
隠居之後一往法印御居り被成村方無難之
御祈禱被成下月待日待等ニ茂御出被下村方
悦居申候御處ニ拾弐年已前未之年大地震ニ諸
堂及大破ニ其後津奈ミ指打入境内茂□之外
大破損相續御難儀ニ付法印茂他山被成候
唯今ニ而□候八十有餘之老僧留守居ニ御指置
被成候得共檀那壱人茂無御座元より田地無之候
故諸堂修覆者不及申當分之飯料等茂無
御座及渇命被申候ニ付漸く村方よ里仕ごく之
申候弥々寺者年々ニ破損仕候一日茂明キ寺ニ
致置候儀難致奉存候間相應ニ相續仕候住持
御申付可被下候□若無左候ハヽ先當分通之守之
被成置可被下候時前見合又之再建立可仕候間
其内本尊御引取置可被下候
一 辯才天之社四間四面ニ御座候其外本堂庫裡
物置門長屋湯殿雪隱等大分之儀ニ御座候□□
中之自力ニ修覆難成御座候間何と□之當分
通ニ寺ニ被成置可被下候様ニ奉願候此上時前見合
再建立を御願可申上候為後日一札如件
正徳四年午四月
武州戸部村
名主 徳兵衛 印
同年寄 七兵衛 印
同年寄 喜平次 印
神奈川
金蔵院
御役寺
一 武州神奈川宿真言宗東曼茶羅寺金蔵院
御末寺同國久良岐郡戸部村ニ有之候法輪山高幢寺
地藏院之儀境内四千五百坪御座候則寺内ニ
辯才天鎮守之社四間四面外ニ本堂庫裡物置長屋
表門裏門湯殿雪隱等御座候得共元禄十六未年
大地震之前及大破其後津浪指入境内義大分損
相續□成儀ニ付住寺一往法印被成他山元来
旦那壹人茂無御座田地等無之候ニ付修覆難成
村中同心之上御願申上御聞届之上當分無寺ニ
致置時前見合建立か仕仕存候処無度其和尚様江
右之寺號御取里被成候ニ付則金蔵院よ里村方
江茂及御相談然方同心之上金蔵院よ里永代
を限御寄附被成候従□之得度存届居在候□□者
此寺號ニ付金蔵院者不及申村中より自今相障
御儀毛頭無御座候間何方江御挽寺ニ被成御建立
之上何宗何□之末寺ニ相成候共此方少茂構無
御座候右引寺ニ相成候者當村寺跡ニ自今寺院ハ不
申□□□而茂お立申間□候為後日無相違同心
連判譲状一札仍而如件
寛延元辰年七月二十六日
武州久良岐郡戸部村
名主 徳八 印
年寄 傳六 印
百姓惣代 源八 印
高峯大和尚様
一 武州久良岐郡戸部村ニ有之候法輪山高幢寺地
藏院之儀同國神奈川宿金蔵院末寺ニ御座候所
右地藏院寺號拙寺所□致建立仕度奉存候
ニ付金蔵院江願候へハ金蔵院より其村方江御□□
被成惣方同心ニ而拙寺方江右寺號寄附被成□
拙寺挽寺仕建立仕候右ニ御座候然上ハ右寺號譲り
證文ニ寺□境内四千五百坪書添受□□申候得共
境内之儀者此度其村江相譲り候□者其村ニ而
御年貢諸役御勤被成永代所指可被成候拙寺後代
迠一切構無御座候為後日依□如件
江戸目黒
栖鳳林内
機外 印
寛延元年辰八月□
迠而本書相調此手形ニ
引替可申候以上
戸部村 名主 年寄 所中
表書之通證文□□通機外長老去ル八月中戸部村役人共方
相併後返却可仕役人共申□□證文置候處寛延元戊辰年
壬十月二十四日金蔵院御出府ニ付右戸部村役人より機外長老
入置候□□證文金蔵院より御取御指来□ニ御取申候為念之
書付候以上 辰壬十月二十四日
目黒 高幢寺源尊
手書記
一札之事
一 其村法輪寺高幢寺地藏院之儀神奈川金
蔵院末寺ニ御座候處右地藏院寺號拙僧所取置
仕此度引寺ニい多し建立仕度候ニ付金蔵院江
御願申□候得共其村江及御相談惣方得心之上
寺號譲證文併各々方添證文被成候事
一 右地藏院境内之義者元禄十六年大地
震其□津波ニ而打□シ正徳四年午ノ四月に可
寺ニ相成り少之地相残り候處此度□村不残相
譲申所紛無御座候依之御年貢諸役等之儀者
其□村ニ而御勤可□成候拙寺方より相譲り申候□
者永之構無御座候万一横合より構申ことの有之候□
何時成共拙寺□出申□ケ仕各々方少茂
御苦労ニ而□申間□候為後日後之住申分少
茂無御座候為其末代譲證文仍而如件
寛延戊辰元年八月
目黒村
願主 高峯
□□ 機外
武州久良岐郡 戸部村
名主 年寄 所中
一 武州久良岐郡戸部村ニ有來候文永四丁卯年
開闢に而今辰之年迠四百八十弐年ニ□成法輪
山高幢寺地藏院之儀武州神奈川宿金蔵院
末寺ニ御座候處右高幢寺之寺號拙僧致
所望建立仕度存候ニ付金蔵院江相頼申
候得者□金蔵院よ利其村方江茂及御相談候
所惣方同心ニ而拙僧方江右之寺號相譲被寄
附□拙僧挽寺ニ仕致建立筈ニ御座候□上者
右之寺號譲證文ニ御水帳ニ御座候五畝弐歩
往古已来唱来候當村高幢寺境内四千五
百坪書添請取申候得共右寺跡之明地畑不
残又之其村方江相譲候ニ付自今其村方ニ而御
年貢諸役御勤被成永代所持可被成候拙寺
後代之者迠一切構無御座候為後日仍る如件
武州荏原郡下目黒村
高幢寺地藏院
曹洞宗 高峯 印
寛延元辰年十月
武州久良岐郡
戸部村
名主 徳八 殿
年寄 傳六 殿
寛延元戊辰年閏十月二十四日四ツ半時神奈川宿金
蔵院去ル十八日願之通被為 仰付候為右□□□方
御出被成候次去ル十月差□□ケ置候戸部村江□譲證
文表書□通機外長老より去ル八月戸部村役人共金
御可り手紙相渡已後可相返約束ニ候之通リ戸部村役人
共より金蔵院江御願□□ニ請取申候右与此證文与弐通之
内ニ而候 以上
目黒
高幢寺高峯手書 記
覺
一 金百両 但シ文字金也
右者高幢寺与申寺號相譲候ニ付為礼謝
被□右金□ニ受取相渡申候若萬一
公□相障御願不相叶候□も御座候ハヽ相譲證
文御□シ被成候上ニ而雑用併ニ村方礼金ヲ引右百両
之半金ハ早速返渡可申候弥相渡候上者自今
指引無御座お渡候為忘一札如□御座候 以上
寛延元戊辰年九月十九日
金蔵院 印
高峯大和尚
地請證文事
一 下目黒村小瀧与申處ニ而屋鋪畑八反歩□□
所持被成候右之地面拙者借地仕高峯和尚越(へ)
差置申候此高峯和尚之儀ニ御座候ニ付此度地請ニ
□立候取実正也
一 高峯和尚禪宗ニ紛無御座候儀江戸浅草萬隆寺より
宗旨證文差出シ被申候御事
一 御公儀様諸法度之儀高峯和尚免度可被相
守儀拙者奉請合候為後日地請證文仍而如件
上馬引沢村
延享三年寅十二月 源藏 印
下目黒村
高峯 印
佐右衛門殿
質物流畑之事
一 下目黒村之内上ノ原ニ而畑目□リ三反五畝歩併畑
廻リ雑木共々出入拾弐年以前子年其□江御無心
申金子弐拾両借用申右之畑相渡置候処ニ手前
不勝手ニ付元利共相滞返納可仕□無御座依之此
度私一家組の者共度々御□□申元金ヲ以右之
質物相流申取実正也□上者身儀畑ニ付諸雑□者
不及申外より出入申者無御座候若六ケ敷申者御座候ハヽ
我等加判人何方□も□出□□那少茂其處江御苦
労□ケ申□□候旦又畑ニ付御年貢壱ケ年ニ納来
弐年六□弐合五タツヽ毎年御蔵江御上納可被成候
併米□リ諸役出残村並之通リ其□方に而御勤
可被成候為後日質物流證文依而如件
寬保三年亥十二月十日
流主 安兵衛 印
五人組 五□左衛門 印
同 久左衛門 印
同 市兵衛 印
同 長右衛門 印
一家 五□左衛門 印
名主 宗 治 印
同 弥次兵衛 印
同 傳左衛門 印
佐左衛門 殿
質地流證文之事
一下目黒村之内私共前之より持來り候畑目積り五反
七畝拾五歩程
内
小瀧川端ニ而 畑三畝歩 代金拾弐両銀六匁 □右衛門
上原ニ而 同弐反歩 御年貢壱斗四舛
小瀧川端ニ而 畑九畝拾五歩 代金六両弐分銀九匁 佐 玄□
御年貢四舛六合八□四才
同 所 畑四畝歩 代金六両三分銀三匁 傳右衛門
御年貢 弐舛
同 所 畑六畝歩 代金四両銀拾弐匁 茂右衛門
御年貢 四舛
上原ニ而 畑壱反五畝歩 代金 七両 長 右衛門
御年貢 七舛
合 畑五反七畝拾五歩 代金三拾弐両三分
御年貢三斗壱舛六合八□四才
右者私共五年以前子年御年貢諸□差□候付
右之畑質物ニ書入私共連判ヲ以金子三拾二両三分
借用仕候處無此度年季明□候得共従之困窮仕返金難成
御座候付右書入之地面相流シ申度處之申候得者御承
引被成其□□江相流し申處実正也此地面付而諸
親頼者不及申□合より出入構無御座候若何角六ケ敷
申者御座候ハヽ我等加判人何事□茂□出□度
□明其處江少茂御苦労□申間□候□右地面ニ
付候御年貢壱ケ年ニ納米三年壱舛六合八□四才
毎年御地□様御藏へ御上納可被成候前ニ□リ候諸役
出残村□一同之勤可被成候為後日質地流證文依而
如件
延享五戊辰年正月
畑流主 □右衛門 印
同 佐兵衛 印
同 傳右衛門 印
同 茂右衛門 印
同 長右衛門 印
五人組 清兵衛 印
同 弥兵衛 印
年寄 弥次兵衛 印
月数 傳左衛門 印
佐右衛門 殿
覺
金子弐拾五両三分不残□ニ請取相□申候為後
日之依如件
辰ノ二月十二日
□右衛門 印
佐兵衛 印
茂右衛門 印
傳治郎 印
佐右衛門 殿
地面□□證文之事
一 下目黒村之内□持來リ候畑上ノ原ニ而目積リ
五反歩余之所其處御望ニ付此度貴殿持取之
□面ニ而壱町歩之□□申所紛レ無御座候□上ハ
其處御勝手次第ニ御取持可被成候此地面ニ付諸
親頼者不及申外より少茂構申旨無御座候 若
六ケ敷申者御座□ハヽ我等加判人何方迠茂□出
□致□明少茂御苦労掛ケ申間敷候為後日地面
□□證文□而如件
寛延元年辰八月
下目黒村
□□人 七右衛門 印
五人組 徳右衛門 印
一 家 五□□門 印
世話焼 佐兵衛 印
年寄 傳左衛門 印
月数 弥次兵衛 印
佐右衛門 殿
地面取□證文之事
其處地面續我等取持之畑御取□被儀致由ニ付
一家五□左衛門ヲ以被□間候付相談之上相□申候
右為□地我等地續之畑此方江御渡シ被成受取
申候右為迠金五両弐分□受取双方得心仕□
□申候此地面ニ付以来何□申□無御座候為後
日地面□□證文依而如件
寛延元年辰八月
下目黒村小瀧
七右衛門 印
五人組 徳左衛門 印
一 家 五□左衛門 印
世話焼 伊右衛門 印
傳左衛門 印
月数 弥次兵衛 印
佐右衛門 殿
質物畑流證文之事
一 下目黒村之内□面ニ而我等取持之畑目積リ
壱丁歩之□先□而金三拾両之質物入置候
處此度年季明候□双方立合相談之上其殿
方江相流申處実正也此畑ニ付而諸親頼旨不及申
横合より一切構申者無御座候若何角六ケ鋪申者
御座候ハヽ我等加判人何方者茂罷(まかり)出□度□□其
殿江少茂□御苦労申間□候旦又御年貢之儀者
壹ケ年納米壹俵宛毎年御□□様御蔵江上
納可被成候其外米□リ諸役出残等村並一同御
勤可被成候為後日質物畑流證文仍而如件
寛延元辰年八月
下目黒村
(寛延元辰年八月)
畑流主 平右衛門 印
一家 □右衛門 印
五人組 伊右衛門 印
年寄 傳左衛門 印
月数 弥次兵衛 印
佐右衛門 殿
質物流證文之事
一 下目黒村之内上ノ原ニ而畑目積三反五畝歩□畑
廻立木共□御年貢諸役ニ指□七ケ年□以前來之
年其僧様江御無心申質物ニ書入金拾八両弐分
借用仕候處此度年季明候得共手前不勝手
故元利共相□可申様茂無御座候ニ付私組一家名
主□中相頼右之質物其僧様方江相譲リ申度
度々御願申候処御承引被成右利金之義ハ□
□壹両御不足被成元金拾八両弐分ニ而右之畑御取
被成下候従一金□奉存候右之畑ニ付候御年
貢壹ケ年ニ納來壹斗七舛宛毎年此揃御□
□様御蔵江御上納可被成候□御□□御用
者不及申其外諸役出残定□残迠村並一同ニ
御勤可被成候□□上ハ右之畑ニ付諸親頼不及申
外より何之出入し者無御座候万一六ケ敷申者御座
候ハヽ私併加判之者何方迠茂罷出免度□明
少茂御苦労掛申間敷候為後日質物□證文
依而如件
延享弐年丑九月晦日
質物流主 金三郎 印
一家組 左兵衛 印
同 傳右衛門 印
組 利左衛門 印
世話役 伊右衛門 印
月数名主 弥次兵衛 印
同 傳左衛門 印
栖鳳林 様
質物流畑之事
一 下目黒村之内我等居屋敷南ノ方ニ而下畑
目積リ三反程之處質物ニ書入金子拾五両
借用申候處ニ年季明ケ候得共元利相滞受□
申儀不相成候ニ付而勝手ヲ以親頼共五人組相
談之上此度名主五人組各立合之上右之質
地相流申所実正也□上ハ其僧御勝手ニ御取
持可茂御年貢之義ハ壹ケ年納來壹斗宛毎
年御地頭様御蔵江上納可成□其外米□リ諸
役出残等村並一同御勤可被成候□此畑ニ付諸親頼
者不及申外より一切構出入無御座候若六ケ敷申者御
座候ハヽ我等加判人何方まても罷出□度□明少茂
御苦労□申間敷候為後日質地譲證文□而如件
延享四卯年三月
質地流主 傳右衛門 印
五人組一家 □右衛門 印
證人 三□左衛門 印
口入 伊右衛門 印
傳左衛門 印
月数 弥次兵衛 印
高幢寺
御納所
永く賣渡シ申屋敷畑之事
一 下目黒村之内小瀧与申所ニ而我等持來り候屋敷畑六反
歩之□代金四拾両ニ相定永ク賣渡双方以合□成を名主年
寄五人組立合右之代金不残賣主方□ニ請取申所実正也
此屋敷畑ニ付横合より出入申者無候若失礼申者御座候
ハヽ賣主加判人何方迠も罷出□度持明可申候御年貢
之儀ハ壹ケ年ニ納米壹俵壹斗宛毎年御上納
可被成候其外米ニ□リ候諸役村並ニ御勤可被成候
為後日賣眷手形依而如件
宝永七庚寅年十二月十五日
賣主 市之丞 印
同 与平次 印
五人組 長三郎 印
年寄 元右衛門 印
同 兵右衛門 印
名主 藤右衛門 印
同 与兵衛 印
栖鳳林内
百姓
佐右衛門 殿
譲リ渡申證文之事
一 其願地續有之候我等取持之地面相談之上其元江譲リ
渡シ申所実正也右為礼金壹両弐分被下之所□受取申候
□右之地面ニ付諸親頼者不及申横合より少茂構申者
無御座候若何角六ケ敷申者御座候ハヽ我等何方上茂罷出
□度□明其殿江少茂□御苦労申間敷候御年貢之
義者壹ケ年納米五合宛毎年御地頭様御蔵江上納
可被成候□米□リ諸役出残等村並一同御勤可被成候為後
日譲リ渡し證文依而如件
寛延元辰年八月
下目黒村 譲主 佐兵衛 印
同 五人組 □右衛門 印
傳左衛門 印
月数 弥次兵衛 印
世話焼 伊右衛門 印
佐右衛門 殿
賣渡申地面之事
一 下目黒村之内私居屋敷上貴寺畑並杦山目積リ六畝
歩程之處此度勝手ヲ以貴寺方江代金三両賣渡
則名主五人組立合之上右之代□ニ請取申處実正也
御年貢之儀者壹ケ年ニ上納弐舛宛毎年御地頭様
御蔵江上納可被成候其外米□リ諸役出残等村並一同
御勤可被成候□右地面ニ付諸親頼者不及申外より構
ひ出入一切無御座候若シ六ケ敷申者御座候ハヽ我等加判人
何方迠も罷出□度持明ケ貴寺江少茂御苦労□ケ
申間敷候為後日地面賣渡證文依而如件
寶暦十二午年正月
目黒村 賣渡主 傳右衛門 印
組 傳之丞 印
名主 兵 藏 印
月数 □左衛門 印
高幢寺 様
質物畑流證文之事
一下目黒村之内上ノ原我等取持之畑目積リ壹反八畝歩之
所□□而金九両之質物ニ入置候所此度年季明候故
双方立合相談之上貴殿方江相流シ申所実正也此畑ニ而諸
願者不及申横合より一切構申者無御座候若何角六ケ敷申
者御座候ハヽ我等加判人何方迠茂罷出□度持明貴殿江
少茂御苦労掛ケ申間敷候且亦御年貢之儀者壹ケ年
米掛リ諸役出残等者村並一同ニ御勤可被成候為後日質
物畑流シ證文依而如件
寛延元年辰八月
下目黒村 畑流主 傳右衛門 印
五人組 □右衛門 印
同 佐兵衛 印
同 七右衛門 印
年寄 傳左衛門 印
月数 弥次兵衛 印
佐右衛門 殿
質物流畑之事
一 七年以前申年御年貢諸賄ニ差□リ□右衛門相頼貴殿江御無心
申私取持之畑上ノ山ニ而目積リ弐反余之所質物ニ相渡シ金子拾両
借用申處実正也□所年季明候得而茂従之不勝手□請返シ
候儀不罷成勝手を以此度貴殿相流シ申處御無御座候右畑ニ付
諸親頼者不及申ニ外よ里一切構者無御座候若六ケ敷申者御座
候ハヽ我等加判人罷出急度将明貴殿江少茂御苦労懸申間敷
候右畑付候御年貢壹ケ年ニ納米壹斗弐舛宛毎年御□□様
御蔵江御上納可被成候□前□候御役御□野役者不及申無外
諸役出残等村並一同ニ御勤可被成候為後日質物畑流證
文依而如件
延享三丙寅年十二月四日
下目黒村 畑流主 傳右衛門 印
五人組 佐兵衛 印
同 利左衛門 印
同 三郎左衛門 印
世話焼 □右衛門 印
月数名主 弥次兵衛 印
年寄 傳左衛門 印
佐右衛門 殿
賣渡申畑證文之事
一下目黒村之内貴寺様畑續我等取持來り候畑目積り弐畝拾五
歩程之處此度勝手を以代金壹両弐分ニ貴寺様江賣渡則名主五人
組各立合之上右之代金只今不残□ニ請取申□実正ニ御座候□此畑ニ付諸
親頼者不及申横合より違乱申者間敷無御座候萬一外より六ケ敷申者御座候
ハヽ我等加判人何方迠茂罷出申□仕貴寺様江少茂御苦労懸ケ申間
敷候御年貢之儀者壹ケ年ニ納米弐合宛毎年十一月限御地頭様
御蔵江上納可被成候其外諸役出残□り村並一同ニ御勤可被
成候為後日賣渡申畑證文而如件
寶暦十一巳年十一月
畑賣渡主 茂右衛門 印
五人組 傳右衛門 印
名主 源 吾 印
同 兵 藏 印
月数 □左衛門 印
高幢寺 様
永賣渡申畑之事
一 下目黒村之内小瀧与申所ニ而我等持來候下畑弐反歩之所代金拾五両
相究別名主年寄五人組立合右之代金不残賣主方□請取
申處実正也此畑ニ付諸親頼者不及申横合より少茂構申者無
御座候若六ケ鋪義申者御座候者賣主加判之者何方迠茂
罷出□致持明貴殿少茂御苦労掛ケ申間敷候御年貢
之儀者壹ケ年納來壹斗四舛宛其件より御上納可成候
其外米ニ□り候諸役村並ニ御勤被成候為後日賣眷仍而如件
正徳元未卯年七月八日
下目黒村 賣主 安兵衛 印
源右衛門 印
右有來ル竹木少茂不残相渡シ申候 兵右衛門 印
此方一切構無御座候以上 元右衛門 印
与平次 印
藤右衛門 印
与兵衛 印
栖鳳林
百姓佐右衛門 殿
畑畔替地手形之事
一 當村之内場所小瀧与申所而貴殿持來之畑隣ニ□右衛門拙者両
人之畑御座候田村七右衛門被持三人共ニ相談之上合点成を以今度
三方之畑畔之地者永ク引替申候貴殿之畑此畔之地者長サ拾五歩□右衛門
方へ被相渡為此替地同所拙者畑隣ニ而□右衛門畑東畔之地者長サ
拾五歩拙者方へ被相渡右両人畑畔之地合壹畝二十六歩此方へ請取為此
替地拙者畑南畔之地同所ニ而長サ壹畝二十六歩貴殿へ相渡右同
畝歩ニ而三人共ニ右之畑地永ク引替申處実正也右此方より貴殿へ替地
相渡申候壹畝二十六歩之畑畔地ニお□て構申者親頼者不及申村中
誰人ニ而少茂無御座候自今以後若何方より茂右之地ニ付違論申
者出来仕候者拙者共併證人何方□茂罷出□致申□ケ仕貴
殿少茂御苦労掛申間鋪候為後日手形仍而如件
享保五年子正月二十一日
武州下目黒村畑替主 傳右衛門 印
同所 同所 □右衛門 印
同所 證人 七右衛門 印
下目黒村
佐右衛門 殿
質物相流申證文之事
一下目黒村之内稲荷谷戸之上ニ而地面目積三畝歩余之處
五年以前金壹両弐分之質物書入致借用候處年季明候而
茂請戻シ申儀難成候ニ付此度貴殿江名主五人組立合之上相流
申所実正也此地面ニ付諸親頼者不及申外より一切構申者
無御座候若何角六ケ敷申者御座候ハヽ我等加判人何方迠茂
罷出□□□明貴殿江少茂□御苦労申間敷候御年貢
之儀者納米壹ケ年ニ八合七□□才宛毎年御地頭様御
蔵上納可被成候□決め□り諸役出残等村並一同御勤可被成候
為後日之質物流證文仍而如件
寛延元辰年七月
下目黒村 質地流主 弥 七 印
同 弥七親 久五郎 印
同 五人組 種之丞 印
同 月数名主 弥次兵衛 印
同 傳左衛門 印
佐右衛門 殿
畑質物流證文之事
一 下目黒也□面ニ而壹反三畝歩之所五ケ年以前午年貴殿方江
質物相渡し金四両弐分頼り御取此度年季明ケ候得共請返申儀
不罷成候ニ付我等勝手を以右畑不残貴殿江流渡し申所実正也
然ル上永ク御取持可□成候□此畑ニ付諸親頼者不及申横合より□
乱申□而無御座候万一六ケ敷申者御座候ハヽ我等加判人
何方迠も罷出申分ケ貴殿江少茂懸御苦労申間敷候御
年貢之儀ハ一ケ年ニ納米六舛壹合七才六□□宛來江亥年より
毎年十一月晦日限り御地頭様御蔵江御上納□成候其外米□り
諸役出残等村並一同ニ御勤可被成候為後日畑質物流證文仍而如件
明和三戊年八月
下目黒村質物流主 定治郎 印
五人組 同 □兵衛 印
同 金□郎 印
同 宗治郎 印
月数名主 文藏 印
高幢寺内
佐右衛門 殿
畑質物流證文之事
一 下目黒也□面ニ而壹反三畝歩余之所五ケ年以前午年貴
殿江質物ニ相渡金四両弐分預り申候處此度年季明候得共
受返シ申被不罷成候ニ付我等勝手を以右畑不残貴殿江流渡シ申
處実正也然上ハ永御取持可被成候□此畑ニ付諸親頼者不及申横合より
□乱申者□而無御座候萬一六ケ敷申者御座候ハヽ我等加判
人何方迠も罷出申沢ク貴殿ニ少茂掛御苦労申間敷候御年
貢之義ハ一ケ年ニ納米六舛壹合□才六□宛來ル亥年より毎年
十一月晦日限りニ御地頭様御蔵へ上納可被成為後日畑質物流
證文仍而如件
明和三戊年八月
下目黒村質物流主 □左衛門 印
五人組 与左衛門 印
同 清 八 印
名主 宗次郎 印
月数名主 文藏 印
高幢寺 御内
佐右衛門 殿
質物畑流證文之事
一 下目黒村之内大境与申所ニ而畑八反歩之所五ケ年以前巳年質物
相渡金子拾八両借用致候處此度年季明ケ候得共受返シ申義不相成候ニ付
我等勝手を以貴殿へ流渡し申處実正也□此畑ニ付諸親頼者不及申
外より構出入一切無御座候万一六ケ敷義申者御座候ハヽ我等加判人
何方迠も罷出申沢ク貴殿へ少茂掛ケ御苦労申間敷候御年貢
之義ハ納米五舛□永弐百四拾弐文毎年十一月晦日限り御地頭様
御蔵へ御上納可被成候其外米□り諸役残村並一同御勤可被成候
為後日質物流證文仍而如件
明和二酉年十二月
下目黒村質流主 傳右衛門 印
五人組 七右衛門 印
同 佐兵衛 印
宗次郎 印
月数名主 文藏 印
高幢寺 御内
佐右衛門 殿
賣渡申畑之事
一 下目黒村之内私居屋敷續上ノ原ニ而畑目積り八畝歩程之所此度
勝手を以代金三両弐分ニ賣渡□名主五人組立合之上ニ而右代金
只今不残請取申処実正也御年貢之義者壹ケ年納米弐舛にて
毎年御地頭様御蔵江上納可被成候其外米掛り諸役出残村並一同
御勤可被成候勿論右之畑ニ付諸親頼者不及申外より構出入無御座候
若六ケ敷申者御座候ハヽ我等加判人何方迠も罷出□度□明ケ其元様江
少茂御苦労掛申間敷為後日畑賣渡證文如件
寶暦十辰年十二月 下目黒村
賣渡主 傳右衛門 印
五人組 □右衛門 印
源 吾 印
□左衛門 印
月数 兵藏 印
高幢寺 様
質物田地流證文之事
一 下目黒村之内引越□□下ニ而我等取持來江候下田壹反歩之所
五年以前辰年貴殿江質物ニ相渡し金子四両弐分□ク申候處
此度年季明候へとも受返し儀不罷成候ニ付我等勝手を以右之田地
貴殿江流渡し申所実正也然ル上ハ永ク貴殿御取持可□成候□此田地ニ
付諸親頼ハ不及申外より違乱申者□而無御座候若六ケ敷申
者御座候ハヽ我等加判人何方迠も罷出申□ケ貴殿江少も
掛御苦労申間敷候御年貢之義ハ一ケ年納米六舛宛當申
年より毎年十一月晦日限御地頭様へ上納可被成候其外来□り
諸役出残致等村並一同御勤可被成候為後日質物田地流證文仍
而如件
寶暦十四年申二月 下目黒村 質物流主 □兵衛 印
五人組 金十郎 印
〃 □三郎 印
名主 兵 藏 印
月数名主 □左衛門 印
高幢寺 御内
佐右衛門 殿
質物畑流證文之事
一 下目黒村之内上ノ原ニ而我等取持之畑六反歩之所五ケ年
以前卯年貴殿へ金子拾弐両之質物ニ相渡置候處此度年季
明ケ候得共受返し義ハ□成我等勝手を以右之畑貴殿江流渡し申所
実正御座候然ル上ハ貴殿永御取持可被成勿論此畑ニ付諸親頼
も不及申外より違乱申者曽□無御座候万一□より六ケ敷申者
有之候ハヽ我等加判人□□申訳ケ仕貴殿江少茂掛ケ御苦労
申間敷候御年貢之義ハ一ケ年ニ納米弐斗ツヽ毎年十一月晦
日限り御地頭様御蔵江上納可被成候其外諸役出残米□り
等村並一同御勤可被成候為後日質物畑流證文仍而如件
寶暦十三未年十二月 下目黒村 畑流主 源右衛門 印
五人組 長 兵衛 印
親頼□主 市之丞 印
名主 兵 藏 印
月数名主 杢左衛門 印
高幢寺御内
佐右衛門 殿
右之外江寅年より一ケ年ニ百文ツヽ為地年貢ト権之丞方へ毎年十一
月□ニ無滞御□成候為後日證文仍而如件
畑流主 源左衛門 印
名主 杢左衛門 印
高幢寺御内
佐右衛門 殿
沽券頼り之事
一 畑壹反三畝歩證文壹通 □面
一 同壹反三畝歩證文壹通 同□
一 同壹町歩證文 壹通 同□
一 同八反歩證文 壹通 大境
一 畑六反歩 證文 壹通 上ノ原
一 田地七畝歩證文 壹通 □方前
一 同壹反八畝歩證文壹通 同□
一 同八畝歩證文 壹通 谷□
此寺江ハ質物之外
一 同弐反歩證文 壹通 □之内
右ハ此度質物御渡已成候ニ付沽券□ニ頼り置申候
所実正也為後日如件
天明二寅年五月 名主 文藏 印
高幢寺様御内
佐右衛門 殿
永賣渡申畑之事
一 作麼目黒村之内小瀧与申所ニ而我等持来候下畑弐反歩之所代金拾
五両ニ相究□名主年寄五人組立合右之代金不残賣主方江□□請
取申處実正也此畑ニ付諸親頼者不及申横合より少茂構申者
無御座候若六ケ鋪儀申者御座候ハヽ賣主加判之者何方迠も罷
出□□度□明貴殿江少茂御苦労掛申間敷御年貢之
儀者壹ケ年ニ納米壹年四舛宛其件より御上納可被成候
其外米ニ□り諸役村並ニ御勤可□成候為後日賣眷仍而如件
正徳元辛卯年七月八日
下目黒村 賣主 安兵衛 印
五人組 源右衛門 印
右有來竹木少茂 年寄 兵右衛門 印
不残相渡申候此方 同 元右衛門 印
一切構無御座候以上 同 与平次 印
名主 藤右衛門 印
同 与平衛 印
栖鳳林内
百姓 佐右衛門 殿
伊奈半左衛門殿より井上河内守殿寺社奉行所江
納候口上書
御尋ニ付以口上書申上候□
寶永七寅之年市之丞与申者方より屋鋪畑六反歩相求正徳元
卯ノ年安兵衛方より畠弐反歩何れ茂佐右衛門与申名前にて乞請
取持罷□□候此株役勤候残之旨御守ニ御座候株役与申儀茂出家
之事故不案内ニ而不存候得共適ハ名主方より人足等申觸
來候得者□□五人組之内江頼置相勤申候耳□百姓並役儀之事
ハ菴之儀故助合□□候ニ付不相勤儀与心得罷在候唯今年寄
共江茂御守被成候處定右衛門申候者身右ハ株□与申儀ニハ無之若大
人足御用之節ハ株役之外江茂差觸申儀にて其節ハ栖
鳳林江も申れ候之□申上候□仕株役与申ハ不勤儀者存候
右御守ニ付申上候□相違無御座候以上
口上之覺
今度當村百姓屋鋪賣眷證文御□之儀ニ付佐右衛門
所持仕候賣眷證文弐通栖鳳林書写之掛御目候本書之
通り一言一字も相違無御座候右弐通之賣眷證文栖鳳林手前ニ
所持仕候以上
享保十八年丑五月 武州荏原郡下目黒村
曹洞宗 栖鳳林 印
伊奈半左衛門 殿
御役人中
栖鳳林所持賣眷證文弐通之写
永ク賣渡申屋鋪畑之事
一下目黒村之内小瀧与申所ニ而我等持来候屋敷畑六反歩之
處代金四拾両ニ相定永ク賣渡双方以合点成を名主方江□ニ
請取申所実正也此屋鋪畑ニ付横合より出入申者無御座候若□
乱申者御座候ハヽ賣主加判人何方迠も罷出□度□明
可申候御年貢之儀ハ壹ケ年ニ納米壹俵壹斗宛毎年
御上納可被成候其外米ニ□り諸役村並ニ御勤可□成候
為後日賣眷手形仍而如件
寶永七庚寅年十二月十五日
下目黒村 賣主 市之丞 印
同 与平次 印
五人組 長三郎 印
年寄 元右衛門 印
同 兵右衛門 印
名主 藤右衛門 印
同 与兵衛 印
栖鳳林内
百姓佐右衛門 殿
扣書覺
一 寬保元辛酉年八月十三日已時増上寺方丈江栖鳳林口上書
弐通差出申候取次諸化役者潮巌念潮二人之内潮巌請取内見取次
方丈江披露相揃潮巌申候者先年已来當□之領地下目黒村ニ御座被
成従公儀御改候ニ逢被成候次第御書付此度當山江御届ニ而御座候但御
届一通りニ而御座候条仍而御書付納届置申候
享保十八年丑五月寺社奉行井上河内守殿より伊奈半左衛門殿江御頼
之由ニ而伊奈半左衛門殿用人田中傳七目付小川藤蔵右両人之役人
伊奈半左衛門殿御代官所武州荏原郡五本木村名主杢兵衛宅へ
被罷越下目黒村之百姓屋鋪賣眷證文被改候ニ付栖鳳林
も被改借地之地主佐右衛門之代り栖鳳林所持仕候賣眷證
文弐通書写之右御代官之役人中江差出申候
維時弘化三丙午年
霜月吉旦
鳳林山高幢禪寺
十三世良雄代改之
徳翁良高と棲鳳林
「西來徳翁高和尚年譜」より抜粋
「西來徳翁高和尚年譜」から棲鳳林(栖鳳林)に関する事柄を抜粋してみたが、「高幢寺古代誌」に書かれている事象とは差異が見られる。
大きく違う点は最初の棲鳳林の庵を結んだ年代である。
又、棲鳳林と栖鳳林は棲む意味合いは同じでも、「棲」を「栖」に何故か替えている。
その外にも付合しない点があるが、今となってはとちらが正しいのか分からない。
元禄十二年(1699)己卯
師、五十一歳、(中略)九月、江府に行て族兄即翁を省せんと欲す。祥麟等を擕て禪定に登り鷹峯を訪ふ。冬、府に到る。翁、大に悦ひ、喜運寺主圓通長老、師を請して淨圓に居しめ(蓋し淨圓は喜運の支院なり)慇懃に之を供養す。
元禄十三年(1700)庚申
師、五十二歳、春正月、吉祥寺の學侶、師を請し、現前師と爲し、戒會を建つ。道俗、菩薩戒を受る者の六千餘指なり。喜運寺主、居士水村宗賢を教化して、師の爲に庵を中丸村に卓しむ。夏四月、宗賢及ひ三名部凉空等、各々其の宅に師を請し供養す。その後ち庵に延ふ。其の地や、林密に境寂し宜く棲息すべきのみ。即名て棲鳳林と曰ふ。偈を作て喜を志、棲鳳林中の趣幽間、紫微に勝れりと云ふ句有り。
元禄十五年(1702)壬午
武州水村宗賢、乞て曰く、棲鳳林を州の桶川に遷し、師を迎て之を居しめんと欲すと。師、之に從ふ。
元禄十六年(1703)癸未
三月、棲鳳林成る。師、往て十餘衆と安居す。是れ則ち居士小高良任なる者の雅より師の徳を慕ひ、宗賢と謀り、其の園を捨て、而して構する所なり。傍て辨天の祠を立て、扁して徳昭と曰く。(蓋し神徳昭昭の語を取れり)水村氏、家を擧て參禮し四事供給す。
冬十月、棲鳳に還て安居す。宗賢亦た衆に随て參究す。師、其の誠心を感し、而して安陀會(衣?)を付す。
宝永元年(1704)甲申
三月、棲鳳に還る。
宝永二年(1705)乙酉
六月、桶川に還る。宗賢、大に喜ひ宅に延て供養す。
京極無生居士、常に禪教の諸師と遊ふ。師、素より交り厚し。是に於て懇請して禪門の菩薩戒を重受す。偈を呈して謝を伸ふ。且つ觀音の靈像を棲鳳に寄す。其の相好莊嚴頗る度に稱ふ。
九月、眞照を以て圭峯に囑し、旁ら一室を築き、以て即翁逸老の所と爲す。棲鳳を以て悟融に囑し、而して後ち將に西歸せんとす。
宝永六年(1709)己丑
師、六十一歳、二月七日
師、瞠目して衆を視る。晴光横に發して人を射る。良久して瞑目し、怡然として化す。