東川寺には高幢寺の什物が沢山将来されています。
作成年代が不明な物もありますが下に掲載致します。
(東川寺Homepage上の記事、写真の無断使用はお断り申し上げます。)
尚、高幢寺の什物には天狗の羽団扇紋が入っているものが多い。
宝鏡-1
この宝鏡の裏には下記の記されており、「金光明山栖凰禪林」とあることから鳳林山高幢寺になる前、栖凰林と称し、開創の高峰源尊師が庵を結んでいた頃のものと思われます。
奉納建
武蔵國荏原郡下目黒村
金光明山栖凰禪林
鎭護宮
金毘羅大権現 御寶前
圓鏡壹面 願主
伊勢國河曲郡西條村産
武州江府日本橋船町住
牧村宗右衛門勝房
宝鏡-2
この鏡裏には足利氏系統の「丸に二つ引両紋」の家紋が入っています。
さらに、この鏡の作者は「川嶋伊賀藤原重永」と刻銘されています。
上の宝鏡の台座の下は箱になっていて、普門品一巻が書写され納められていました。
普門品書写一巻
維時天保十歳次申辰卯月神嶽日謹書寫斯觀世音菩薩普門品一巻而奉獻武列(州?)荏原郡下目黒村鳳林山 金毘羅大權現神前伏願以此功徳威光増長普加護信心善男子善女人
願主 宗筭 敬白
御神詑略縁記
武蔵國荏原郡下目黒鳳林山高幢寺
十世和尚、于時文政八酉年十一月二十二日
魚藍下中堂寺にて風と吐血の病気
差發大病にて當山へ付伴ひ満里醫療手を
つくせとも更に其功なく翌二十三日終にはかなく
黄泉の客となれ里 無程同月二十九日は初七日
為追福寺院並びに旦中寄りあふ人々百四五十人
上客の分退散して相残る人僧俗都而
四五十人其夜五ツ半時頃於社殿納所文嶺々々と
呼聲なり人々是れをしらず文嶺阿わ
たヽしく社殿に行ば誰ともしらず水垢(閼伽)
取りて来類(る)べしと有夫より水垢をとりて
狂気の躰にて前後更に覚なく素(す)はだにて
神前の上壇に居置り鰐口の緒持來るべしと
あ里古き鰐口の緒を与へいれば棚の上に巻しつ
かりとしめ初めを本多三弥殿同年八月御奉納の
木太刀を持て神前へ向つて平伏す余りいぶかしさ
に濃州池田郡川上村の長昌寺是を取れば又夫
より内隙の入口の北の方の上角に打付阿る
武州多摩郡和泉村梅野屋清左衛門宝暦九年
奉納無銘の太刀を以て又御神前の上壇の北の方に
居置り右の太刀を以其の座をたヽき隠居並
林右衛門索れと大音聲に呼はる事しばし
依之隠居林右衛門當住代川上村長昌寺神前の
上壇へ迫付ば穢阿り穢阿り清めて来るべしと
阿り則林右衛門おり重る人々迠皆にて
清め神前の上壇にを付ければ下に居よと
仰に随ひ三人ともに慎而平伏す
當山八世住職 隠居
生年八十二
青山六街隠士性山本 林右衛門
生年四十九
濃刕池田郡川上村 當住代 長昌寺
生年五十三
左に一段高く阿くる所の文 御神詑也
神今納所文嶺に乗移り明白に其の方共に申受る
事阿り急度慎而能聴へし元来隠居受け今度世上
痘瘡流行に付守護に以と満なし是去後日の為
急度申渡置能聴け隠居儀な法孫の絶し事も
辨へす殊に住職のもの 社殿大破に及修復をも
心に掛けす其罪にて二代の住持絶命なすを
定命と思ふへからす畢竟何事も
神意に不叶夫のことならす此頃久しく香花
燈燭供物をとも不侮汝等何在ニ露命を
伴なくや當住か大切か此
金毘羅か大切か二代の住持絶命も神罸を以也此末
と言も心掛悪敷く 神殿修復をもか満已ぬ時ハ
於此場罪すべし等閑にする事なかれ心得違
有時ハ後住とても罪すべし時に真実を以来
れる者少なし 社殿修復等の事ハ住職
のもの志願次第にて一年をも待づして
成就する事也恐れ入たかと大音聲にて
御神詑也
おりあふ人おどろき一とふ御咜申上げ
志ばしの間讀經をたて満つる 神靈
立のきた満以文嶺已(わ)つとさけび太刀を
投捨その満に上壇に相倒る其時
林右衛門右の御太刀上壇より持下り従に
坐し奉香燭を事こそ不思儀難有
事共なり此事終に御府内へハ不及申
迠國在く迠流布せしより信心の人々さい
の思ひをなし翌文政九年五月十日御本社修復
成熟せし其外大破なる所都而五ケ所同年
十月迠ニ逼之成就せし事全 御神徳の御餘慶
なりと恐れ難有事どもなり右御神用の
御太刀共儘に差置候も恐れありと存付御太刀ハ
研を加へ錦の袋へ納置度致發願御信心之
單へ相頼申候処是又 御神意に相叶候也
忽成熟なし於發願人ニ難有奉存候成熟
せし御太刀ハ神鏡の如にして更に曇な
かれば悪摩降伏疑事なし万代へ至り
てハ諸人結縁の御宝劔當山第一之
御宝也御信心の事其身ハ一代にして打て消ぬ
へし名ハ末代に然るとかや化力を以成就せし
社難有事申も恐阿里是全神の思に相叶
御詑宣に残す成就勢(せ)し有に各々
御丹誠の名単も武運長久家内安全
諸願満足為御祈禱之右箱内江相認
置永代御神前江相納置者也慎而敬白
文政九戌年十一月二十九日
發願主
山本林右衛門
源具頭 花押
文政八酉年十一月二十九日夜
御神詑之時御神用之三品左ニ記ス
一 鰐口緒 松平左京大夫 殿
毎年御奉納也
一 木太刀 本多三彌 殿
文政八酉年八月御奉納也
一 太刀 武刕多摩郡和泉村
梅野屋清左エ門
一 鳳林山高幢寺納所 文嶺
生國出羽
應需執筆慎書寫
東都青山六衛住士 築山権兵衛
生年三十七
藤原久泰 花押
上の御神詑略縁記に出てくる鰐口は東川寺にて写した明治42年8月付けの写真だけが残っています。
写真で見るかぎりとても大きな鰐口ですが現在は存在しなく、戦争で供出されたものと思われます。
金毘羅大權現・大額
額の全体の大きさは縦124㎝×横73㎝あります。
又、額の所々にマルに十ノ字の島津家の紋が入っています。
額縁に金箔が施されてたと思われ、現在は大部分が剥げ落ちていますが素晴らしい大額です。
この額の「金毘羅大權現」と書いた人は「薩州三位中将榮翁八十八歳謹書」とあります。
江戸中期の薩摩藩主、島津重豪(しまづしげひで)が榮翁と号したことから、この書は島津重豪の八十八歳の時の揮毫と思われます。
島津重豪は天保4年(1833年)、八十九歳で亡くなりましたので、この書は天保3年の頃に揮毫されたものを額に仕建てたものと思われます。
大天狗像(厨子入り)
高幢寺よりもたらされた大天狗像は厨子(厨子は神仏をご安置する入れ物)の中に入っています。
そもそも金比羅大權現とは一体どういうものなのか?
「金毘羅船々(こんぴらふねふね)追風(おいて)に帆(ほ)かけてシュラシュシュシュ
まわれば 四国(しこく)は讃州(さんしゅう)那珂(なか)の郡(ごおり)象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)一度まわれば・・・・お宮は金毘羅 船神(ふながみ) さまだよ・・・云々」と、香川県の民謡にあるように四国、讃岐の金刀毘羅宮(こんぴらさん)が有名である。
四国、讃岐の金刀毘羅宮(こんぴらさん)は、真言宗の象頭山松尾寺の一角の社殿にまつられた仏教を守る守護神である。
金毘羅とはインドのガンジス川の鰐(ワニ)を神体化した神様で「クンビーラ」と呼ばれ、水を司る神であり、仏教を守護する薬師十二神将に取り入れられた。
人々は水の神と云うことで海難、水難より守って戴こうと、金毘羅信仰が盛んになった。
さらに特徴は鰐(ワニ)の ように鼻が長いことで、天狗(てんぐ)信仰とも結びついた。
天狗は金毘羅大権現の眷屬(神仏の使者)とされるが、古代中国では、天空より火を放って落ちてくる流星が天の獣のように見え見えたようで「天の狗」と呼ばれた。
「天の狗(犬)」は自由に空を飛び回る事から、羽根を持っているものと考えられた。
日本では「天狗」は羽根を背中に負い、羽団扇をも持っている山伏の姿として描かれることが一般的である。
この羽団扇はやがて山伏が山の中で修行していることより、山中に生息しているヤツデの葉がこの形に似ていて、大きくなると団扇のように使用できることから、いつしか「羽根の団扇」と混同され、「葉団扇」とされるようになった。
又、天狗は背中に羽根が生えていて、鼻が長く、赤い顔をしていて、手に剣を持ち、さらにもう一方の手には「鎖がま」の様な物を持っている「山伏」の姿として捉えられるようになる。
尚、下写真の大天狗のお面は本物の毛で覆われています。 その為、毛が硬化し大分抜けかかっています。
大天狗面
小天狗像(厨子入り)
高幢寺より伝わる天狗像がもう一体ある。
もう一体の天狗像は「小天狗」とも呼ばれる、「烏(カラス)天狗」である。
それは天狗が空を飛ぶことから、鳶(トビ)や烏(カラス)と関連付けられた事による。
鼻の長い天狗が「大天狗」と呼ばれたのに対して、烏天狗は「小天狗」とされた。
鼻が烏(カラス)の嘴(くちばし)のようになっている。
小天狗面
十六善神(金毘羅大権現付き)
十六善神の掛け軸は曹洞宗では大般若会(だいはんやえ)法要の時、あるいは伽藍を建立する時、その他、祈祷する時に正面に掲げます。
この十六善神には中心にお釈迦様と、象に乗られた普賢菩薩(ふげんぼさつ)、獅子に乗られた文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の釈迦三尊(しゃかさんぞん)が描かれています。
さらに四天王、法涌(ほうゆう)菩薩、常啼(じょうたい)菩薩の外、大般若経を守護する般若菩薩、諸天、比丘、深沙大将(じんしゃだいしょう)(注1)、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)などが描かれています。
この十六善神には特別に金毘羅大権現が付け加え描かれています。
大般若会法要とは「大般若波羅蜜多経(大般若経)」を転読する祈祷法要です。
曹洞宗では転読と云うよりも転飜(てんぽん、てんぼん)します。
転飜とは大般若波羅蜜多経六百巻をそれぞれの僧に配り、「大般若波羅蜜多経巻第何々巻」、と言って、偈文を唱えながら、右と左と前に、ぱらぱらと経本を開き、最後に「降伏一切大魔最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と唱え、これを繰り返えします。
大般若波羅蜜多経は「玄奘三蔵」が漢訳したもので、六百巻もある膨大な経典です。
「玄奘三蔵」は中国唐の時代、サンスクリット文字で書かれた仏教経本の原本を学ぶため紀元629年に天竺(インド)に渡り、紀元645年「大般若波羅蜜多経」を始め膨大な経典を持ち帰り、帰唐して更に四年の歳月を掛けて経典を漢訳されました。
ですから大般若祈祷法要に掲げられる十六善神の掛け軸には大般若経を守護する般若菩薩と共に、「玄奘三蔵」は無くてはならない人なのです。
(注1)「深沙大将(じんしゃだいしょう)」とは「玄奘三蔵」が天竺(インド)へ行く途中、砂漠で流砂(りゅうさ)(注2)に遭い苦しんでいるとき、砂の中から現れ、「玄奘三蔵」を守護したと伝えられています。
(注2) 流砂(りゅうさ、りゅうしゃ)とは、水分を含んだもろい地盤、又はそこに重
みや圧力がかかって崩壊する現象である。砂・泥・粘土などの粒子が、地下の湧水などによって水分が飽和状態になることにより形成される。流砂は圧力がかかって崩壊するまでは、一見普通の地面のように見えている。
「玄奘三蔵」の「三蔵」とは仏教の「経、律、論」の三つを修めた僧侶に対して皇帝から与えられる尊号であり、「玄奘」に限られた尊号ではなく、同じく仏典漢訳に務めた「鳩摩羅什(くまらじゅう)」などの人々にも「三蔵法師」の尊号を与えられています。
しかし「三蔵法師」と「孫悟空」、「沙悟浄」、「猪八戒」などが出てくる「西遊記」が有名なため、いつしか「三蔵法師」と云えば「玄奘三蔵」を指すようになったのです。
その「西遊記」も「玄奘」の書き残した天竺旅行記録「大唐西域記」、あるいは「大慈恩寺三蔵法師伝」を元に小説化されたものです。
尚、この十六善神掛け軸の裏には下のように書かれています。
宝暦辛巳秋之月吉日
矦上毛邑美主
源 忠恒 謹書
絵馬「金餅」
明治四辛未歳十月吉祥日
東京
坂本町 拍屋平治郎
西神田 錺屋半治郎
絵馬「大舜」
鮮斎永濯 画 (参考1)
明治十八年九月吉日
日本橋檜物町 なた新
この絵馬は「二十四孝の大舜」を描いたものです。
「二十四孝とは、中国において後世の模範として、親孝行が特に優れた人物二十四人を取り上げた書物です。
「大舜(だいしゅん)」はその二十四人の一人であり、古代中国の伝説上の聖王です。
その名を単に「舜(しゅん)」と云ったり「大舜(だいしゅん)」、「堯舜(ぎょうしゅん)」、「虞舜(ぐしゅん)」と云ったりします。
その「大舜」の物語はおおよそ下記のような事です。
大舜はたいそう親孝行な人であった。父は頑固者で、母はひねくれ者、弟はふしだらな能無しであったが、大舜はひたすら親孝行を続けた。大舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、田を耕すのを助けた。その時の皇帝を堯(ぎょう)と言った。堯は大舜の親孝行に感心し、娘を娶らせ皇帝の座を大舜に譲った。
絵馬「韓信の股くぐり」
(画家不明)
「韓信の股くぐり」の説話とはおおよそ下記のような事です。
韓信(かんしん)とは、中国秦末から前漢初期にかけての武将です。
若い時の韓信はふしだらな生活をしていた。
そんな生活をしていたある日、韓信は町の乱暴者に「お前は背が高く、いつも剣を差しているが、本当は臆病者だろう。そうでなければその剣で俺を刺してみろ。それが出来ないのなら俺の股をくぐれ。」と韓信を侮辱し挑発した。
韓信は黙ってその乱暴者の股をくぐり、周囲の者は韓信を嘲け笑ったという。
その時笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得にもならない、それどころか逆に仇持ちになってしまうだけだ。」と冷静に判断していた。
このことから「韓信の股くぐり」として世に知られる話となったのです。
しかしこんな事件があった後、韓信は漢軍の劉邦(りゅうほう)に見込まれ、「楚漢(そかん)戦争」の最後、「垓下(がいか)の戦い」で活躍し、楚(そ)出身の韓信は「楚王」となって古里に凱旋することが出来たのです。
この楚漢戦争より韓信の「国士無双」、垓下の戦いの前の「井陘(せいけい)の戦い」での韓信の川を背にした布陣から「背水の陣」、あるいは「敗軍の将、兵を語らず」などの言葉が知られるようなった。
また「垓下の戦い」で有名になった事があります。
その一つは「四面楚歌(しめんそか)」
もう一つは「虞美人(ぐびじん)」
「垓下の戦い」で楚軍の項羽(こうう)が死んだことにより漢軍の劉邦の勝利が決定し、「楚漢(そかん)戦争」が終結したのです。
この「垓下の戦い」で韓信が活躍します。
漢軍の韓信が三十万の兵を率いて自ら先頭に立ち、項羽の楚軍と戦ったが、劣勢になり後方に下がった。
しかし、孔熙(こうき)と陳賀(ちんが)が楚軍を攻撃すると、楚軍は劣勢になり、さらに韓信がこれに乗じて再び楚軍を攻撃すると、楚軍は大敗したのです。
敗れた楚軍は防護の塁(るい)に籠(こも)り、漢軍は外壁からこれを幾重にも包囲した。
漢軍の劉邦は楚の出身である韓信と心理作戦を計画し、項羽を取り囲む外壁から項羽の故郷の楚の民謡を大勢の人々に唄ってもらうことにした。
夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の唄声が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いたと云う。
「項王軍壁垓下。兵少食盡。漢軍及諸侯兵圍之數重。夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。項王則夜起飮帳中。有美人、名虞、常幸從。駿馬、名騅、常騎之。」
「項王こうおうの軍ぐん、垓下がいかに壁へきす。兵へい少すくなく食しょく尽つく。漢軍かんぐん及および諸侯しょこうの兵へい之これを囲かこむこと数重すうちょう。夜よる、漢軍かんぐんの四面しめんに皆みな楚歌そかするを聞きき、項王こうおう乃すなわち大おおいに驚おどろきて曰いわく、漢かん、皆みな已すでに楚そを得えたるか。是これ何なんぞ楚人そひとの多おおきや、と。項王こうおう則すなわち夜よる起おきて帳中ちょうちゅうに飲いんす。美人びじん有あり、名なは虞ぐ、常つねに幸こうせられて従したがう。駿馬しゅんめ、名なは騅すい、常つねに之これに騎きす。」
この故事から「四面楚歌」と云う言葉が生まれたのです。
「四面楚歌」の意味は単に四方を敵に囲まれていると云う事だけでは無いのです。
「楚歌」は敵のことでは無く、自分の故郷の謡(うた)のことです。
また戦勢不利と悟った項羽は、別れの酒宴を設けた。
楚軍の項羽には虞(ぐ)と云う美人の愛妾がおり、また騅(すい)という愛馬がいた。
虞(ぐ)と騅(すい)との別れを惜しみ、項羽はその悲しみを詩に読んだ。
力拔山兮氣蓋世 力、山を抜き 気、世を蓋う
時不利兮騅不逝 時、利あらずして 騅逝かず
騅不逝兮可奈何 騅の逝かざるを 奈何にせん
虞兮虞兮奈若何 虞や虞や 若を奈何にせん
その後、項羽は敵に殺され、虞も後を追って自ら命を絶ってしまう。
その虞を葬った処に美しい花が咲き、その花を「虞美人草」と人は呼んだ。
「虞美人草」は「ヒナゲシ(雛芥子)・コクリコ」の花の別名。
この事から「虞美人」が世に流布することになったのです。
(司馬遷の「史記」の「韓信盧綰列伝」を参考)
絵馬「唐子遊び」(画家不明)
金比羅大権現・大提灯一対
金比羅大權現と書かれた提灯一対です。
立派な大きな提灯で天地107.5㎝あります。
この提灯には銅で施された天狗の羽団扇の紋が張り廻らされています。
① 明治十三年辰五月十日
世話人 両国伊せ在
赤坂 馬具辰
世話人
田中 辰
森 常
舛水 留
山形 幸
舛水 仙
② 明治十三年辰五月十日
世話人 梅松
赤坂 馬具辰
世話人
田中 辰
森 常
舛水 留
山形 幸
大太鼓
嘉永四年二月吉日
寄附者 江戸浅草新町入る 丸山三右衛門
御太鼓師 長吉・重好
三宝-1(天狗羽団扇紋入り)(一対)
① 品川御神酒講中
世話人
明伏屋徳治郎
柳屋安五郎
和泉屋直太郎
大野屋萬助
櫻川久治郎
菊井半七
藤屋半助
② 品川御神酒講中
世話人
大和屋清八
坂和屋甚七
近江屋藤三郎
村田屋長左エ門
三河屋傳藏
相撲屋茂八
三宝-2
(三宝表面)
御膳講
講元
世話人
講中
(三宝裏)
願主
元治元甲子年十二月
南品川宿
伊勢屋 奉右エ門
同人 妻 可宇
同人 忰 安太朗
宝剣
金箔を押した鞘(さや)に収まっているが、鞘を抜くと真剣の剣(つるぎ)です。
錆が酷かったので研ぎに出し、真剣は今は別の白鞘に収納しています。
(参考1)
鮮齋永濯(小林永濯)
永濯、名は徳宣、通称は秀次郎、鮮齋と号す。(浮世絵、錦絵師・日本画家)
(天保十四年三月二十三日生まれ)
父は三浦吉三郎と称し、魚問屋を業とした。
初め狩野永悳の門に入り、狩野派の筆意を得、井伊侯の画職の臣となった。
時様の風俗画をよくす。
その作画の重なるものを挙げると、博聞社出版の小児遊戲図があり、萬物雛形画譜、近世紀聞、明治太平記の挿絵をかいた。
また都の花、風俗画報等の挿図に筆を執った。
杉並区堀内の妙法寺に加藤清正の絵額の立派なものがある。
それは五枚つぎの幅七尺の板に、金箔を置きて極彩色に画いたもので、明治四年辛未冬十月、鮮齋永濯拝図と大書している。
清正が傍に甲を置き、鎧を着て坐せる姿で、右手に扇を開いて持っている。
筆力勁健、彩色も亦巧であり、よく保存せられて、永濯の真の伎倆を見るに足る傑作である。
明治二十三年五月二十七日歿し、享年四十八。
門下に小林永興、富岡永洗あり、明治年間に水野年方と共に名声があった。
(藤懸静也 『増訂浮世絵』 雄山閣、1946年、278頁参考)
小林永濯は優れた技量の浮世絵、錦絵、日本画も多く描いており、日本に残っている絵も有るが海外に渡ったと思われる絵画も多い。
明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会に「天照大神、素戔嗚尊、問答」と「神武天皇命鳥ノ図」を出品し花紋賞を受賞。
明治18年(1885年)鑑画会第一回大会に「僧祐天夢に不動を見る図」で一等賞を受賞。
明治20年(1887年)新吉原灯籠の会において、月岡芳年と一緒に灯籠に歴史画を描いた。
尚、永濯の挿絵の本は上記の外に「鮮斎永濯画譜」「永濯漫画」「(現今)明治英名百首」「絵入日本外史」「名誉近世百人一首」「耶蘇一代弁妄記」「温古年中行事」「概世悲歌照日葵」「欧洲小説晢烈禍福譚」「墨水流灯会記」「鼇頭挿画 校正王代一覧」「皇朝史略」「台湾外記」「古今国画・発句五百題」「義烈回天百首」「古今百風吾妻余波」「通俗和聖東傳」「美術工藝・古今画かゝみ」「全悪膝栗毛」「異国漫遊瓜太郎物語」「新聞記者奇行伝」「格蘭氏伝倭文賞」等がある。
また当時の新聞錦絵、広告画、さらには春画なども描いている。
さらに縮緬本(あるいは平紙本)と云われる「日本昔噺シリーズ Japanese fairy tale series」は在留外国人が英語、仏語、独逸語などに翻訳し出版された日本昔話絵本であるが、その挿絵を小林永濯が描いている絵本も多くある。
その永濯が挿絵を描いた外国語の日本昔話絵本には、「舌切雀 The Tongue Cut parrow.」「花咲爺 The Old Man who made the dead trees blossom. 」「猿蟹合戦 Battle of the Monkey and the Crab. 」「八頭の大蛇 The Eight-Headed Serpent. 」「勝々山 Kachi-Kachi Mountain.」「桃太郎 Momotaro or, Little Peachiling.」「浦島Urashima, the Fisher-Boy.」「松山鏡 The Matsuyama Mirror. 」「野干の手柄(きつねの手柄)The Cub's Triumph. 」「因幡の白兎 The Hare of Inaba. 」「竹取物語(かぐや姫)Princess Splendor.the wood-cutter's daughter.」「羅生門THE OGRE'S ARM.」などがある。
尚、「本朝浮世畫人傳・下」には下記のように記されている。
小林永濯
小林永濯名は徳宣、通稱は秀次郎、鮮齋と號す。天保十四年三月二十三日日本橋區新塲に生る。父は三浦吉三郎と稱し、魚問屋を業とせり。永濯幼にして畫を好み、五六歳の時父に從ひ、湯屋に往き、浴客の文身に眼を注ぎ、家に歸りて此れを寫すに、恰も眞を見るが如し。或人の勧めによりて十三歳の時、當時の畫伯狩野永悳の門に入り、五年の星霜を經て、狩野派の筆意を極めたり。時の大老井伊侯に召されて、畫職の臣となり、五人扶持を賜はりたりしが、井伊侯逢難後は、井伊家を辭して、遂に居を日本橋通り四丁目に定め、頻りに寫生に勵みて、一機軸を出せり。今其の畫昨の重なるものを擧ぐれば、萬物雛形畫譜、博聞社出版小兒遊戲圖、及び近世紀聞、明治太平記等の挿畫、是れなり。其他都の花、風俗畫報等の雑誌に、其巨腕を揮ひしもの頗る多し。永濯嘗て神奈川の妓樓、神風樓の襖に、左甚五郎が京人形を彫刻するの繪を物せり。其後ち伊太利公使マルチノー之を見て其畫の巧妙に感じ、樓主に請うて譲り受けんとせしが、樓主も之を惜みて其請ひを容れず。公使は猶も斷念しがたく、さりとて詮すべなければ、これを暫く借受け、渡邊省亭氏をして模寫せしめたれども、其意に充たざれば、再び樓主の強請し、巨額の金を贈りて、漸くこれを譲り受けしと云ふ。是れ永濯の尋常ならざるを知るに足るべし。其時よりして、伊國公使の依頼によりて、屢々揮毫し、又美人(美国人・アメリカ人?)フエノロサ氏の依嘱を受けて鑑畫會の常備品を物する杯、永濯の畫名、内外人の間に喧々たり。偖永濯日本橋通りより、其後杉の森、また向島小梅村に移れり、永濯性質極めて温順にして、敢て人と爭はず。殊に禮節を重んじ、頗る君子の風ありき。惜しい哉、年來肺患に罹り、遂に肺焮衝に變じ、明治二十三年五月二十七日溘焉して不帰の客となる。時に年四十八。