開創三世 達宗玄道大和尚
(世称 牧 玄道)
丹波國北桒田郡弓削村、牧磯五郎の三男として、嘉永二酉年九月に生まれる。
興聖寺二十九世無隠退吾の嗣子、凰洲喚山より法を嗣ぐ。
明治三年五月、山城國愛宕郡中津川村洞谷寺に住職する。
明治六年十一月十三日 教導職十四級試補、被補。
明治九年三月十九日 依願洞谷寺住職被免。
明治九年十二月八日 教部省に於いて権少講義を拝命す。
明治九年十二月二十四日 武蔵國荏原郡下目黒、高幢寺住職に転住する。
明治十一年九月二十八日 大本山永平寺二祖国師六百回忌遠忌の感謝状。
明治十二年七月一日 承陽殿、孤雲閣焼失の為、 両山貫首名を以て末派寺院へ承陽殿再建寄附勧化が論旨される。
この折、荏原下目黒、高幢寺住職・牧玄道は金五拾銭を寄附する。
明治六年五月より明治十八年九月まで、永平寺東京出張所に勤務する。
権少講義 牧玄道
職掌を怠らず庶事に注意
し行為其宜きを得感賞
すべきに付 金拾圓附與候事
明治十三年五月二十七日
管長
大教正 久我環溪
明治十六年六月一日 大學林(現・駒澤大學)新築に付き講堂用太鼓並びに庭木松五百十株を寄贈する。
大本山永平寺・久我環溪禅師と大本山總持寺・畔上楳仙禅師との連名の賞詞を受ける。
高幢寺住職
権少講義 牧 玄道
大學林新築に付講堂用太鼓
並に庭木松百五十株獻納
奇特の至感に入り候
仍って賞詞に及び候事
明治十六年六月一日
大教正 久我環溪
大教正 畔上楳仙
明治十六年(1883年)十二月、大本山永平寺六十一世絶學天真禅師は永平寺を退董され、東京駒込西原の昌林寺に隠棲されたので、牧玄道はその隠殿時局として環溪禅師のお世話をしていた。
明治十七年十二月七日、午前二時、牧玄道隠殿時局は環溪禅師の危篤、さらに遷化の報を、本山福井宿所に打電することになった。
明治十八年(1885)八月二十五日 永平寺東京出張所詰、辻顕高、牧玄道連署にて、御山監院、副寺、典座宛に一層の倹約を通牒する。
明治十八年十一月十二日 大本山永平寺六十三世瀧谷琢宗禅師よりの感謝状。
(越山とは永平寺のことで、新命とは新しく住職になった新命住職のこと)
本山東京出張所副寺
牧 玄道
明治十六年以来 故道鑑禅師の命に依り
本山東京出張所副寺勤務の叚劬労に存似
今般退役に付(つき)聊(いささか)
謝意を表する爲 油壱匹差進似事
明治十八年十一月十二日
越山 新命
滝谷琢宗 ㊞
(注1)
明治十八年十二月一日より明治二十二年十二月まで曹洞宗宗務局へ勤務する。
依頼状
本社の事業頗(すこぶ)る困難を極め又更に敵手の相い起るあり
苟(いやしく)も牛刀を閃(せん)すにあらずんば曷(なん)そ百節繁根を料理する事を得ん 於之與活波瀾起る
是を負擔(ふたん)するは閣下等を除て他に人なし
今や宗門危窮存亡の秋(とき)に際す
伏願は萬推察あって両肩に荷擔し第一義と騎し(?)
併せ進歩あらんを是れ祈る
明治二十四年三月五日
本社創立負惣代 日置黙仙 ㊞
仝 不二門眉柏 ㊞
宗粋社 幹事 牧 玄道 殿
宗粋社会計監督 丹羽忠次郞殿
明治二十五年九月三日 永平寺後董投票審ニ対スル建言(高幡寺牧玄道他一名)内務大臣井上馨宛
明治三十二年 曹洞宗寺院を開設したいという願いのある東川村に来村し開教する。牧玄道師は直ちに東川村忠別原野の西六号南一番地に仮布所を設ける。又、東川村西六号北二番地(現住所)の畑地五町歩を購入し、此処に牧玄道師自身の私金を投じ、間口五間、奥行八間の堂宇を建立する。
明治三十三年二月 高幢寺を富山県越中國中新川郡東水橋町へ移転する。
明治三十三年六月五日 依願高幢寺住職、被免。
明治四十三年三月四日 東川寺住職に任命せらる。
明治四十四年五月十九日 東川寺住職を退く。
大正二年二月二十七日 東川寺退董後、東京芝白金に隠棲し病気療養していたが、同日午前十一時、世壽六十五歳にて遷化。
大正二年三月二十七日 当山にて荼毘式。
乗炬師 大休寺 神田寛量師 (本山代理)
奠湯師 神龍寺方丈
奠茶師 東照寺方丈
(随喜寺院 維那 風連 中堀師 外)
(注1)
大本山永平寺六十一世 絶學天真禅師(久我環溪)
大本山永平寺六十二世 圓應道鑑禅師(青蔭雪鴻)(在位二ケ年)
大本山永平寺六十三世 真晃断際禅師(瀧谷琢宗)