五世 道雲大樹大和尚
(世称 風間 大樹)
新潟県西頸城郡木浦村字鬼舞(注1)三百八十六番地、風間吉次郎の長男として、明治五年五月二十日誕生。
(注1)
新潟県西頸城郡にしくびきぐん木浦村このうらむら字鬼舞あざきぶは現在、新潟県糸魚川市鬼舞と云う住所に変更されました。
明治二十五年六月十五日、新潟県西頸城郡木浦村、曹洞宗宝池山東陽寺十三世道鳴本立に就いて得度。
明治二十六年二月より明治二十八年八月まで、越後國古志郡六日市村龍昌寺に安居す。
明治三十一年 新潟県東頸城郡下保倉村顕聖寺道牛、常恒會に於いて立職。
新潟県西頸城郡西海村龍雲山耕文寺(注2)三十世、道鳴本立の室に入て嗣法。
(東陽寺十三世道鳴本立師は耕文寺に転住せらる。)
(注2)
新潟県西頸城郡西海村耕文寺は現在、新潟県糸魚川市羽生105の住所となっています
(参考)
越後耕文寺應供會香語(大休悟由禅師)
不必天台南岳游。一彈指頃應他求。
荷憺二佛中間法。瞻仰福田恩澤優。
咦
名山佳水紅塵裏。逆順門庭轉處幽。
越後耕文寺施食香語(大休悟由禅師)
一念滞来欠變通。萬慮忘去入圓融。
寂光元是不他土。顛倒衆生枉費功。
明治三十二年十月十五日、越大本山に於いて転衣。
明治三十三年二月十七日より、明治三十六年九月十日まで永平寺僧堂に安居す。
明治三十七年、北海道に漫遊す。
明治四十一年四月五日、管長の添書を頂き、北見國宗谷郡猿払村字猿払に説教所を出願し、明治四十一年八月十三日、道廳長官の許可を受けり。
この頃、岡野瑞光(富山高岡出身)と結婚し、その後、女・男・女・女・女の一男四女に恵まれる。
明治四十五年三月四日、管長添書を頂き、石狩國空知郡上富良野村字中富良野に説教所を出願し、明治四十五年六月六日、道廳長官の許可を受ける。
明治四十五年四月二十一日
大樹の父、風間吉治郎、行年七十七歳で死去する。
大正三年九月二十一日 当時中富良野説教所管理者であったが、大休寺住職神田寛量師の推挙により東川寺住職をお願いされ、東川寺に内移りする。
大正三年十二月十五日 東川寺住職を任命される。
大正十一年二月八日 本師、耕文寺池澄本立師よりの手紙
昭和五年十月、大樹師、北海道曹洞宗第十四教区長に任ぜらる。
昭和十六年三月三十一日 東川寺住職を退く。
昭和二十一年十二月十日、世壽七十五歳にて遷化す。
風間大樹大和尚 (現住職記)
風間大樹は風間吉次郎の長男として、新潟県西頸城郡木浦村字鬼舞の寒村に生まれた。
幼き時、眼病を患い視力を失いかけたが、近くの寺に通う内、徐々に視力を回復したと云う。その為、ズーと分厚い眼鏡を使用していた。
視力が弱かったのも拘わらず、小さな文字で、日常の様々なことを書き残している。
海辺で育ったせいか、お魚が大好きであったので、家族からは影で生臭さ坊主と云われることもあった。
また反面、甘い物も大好きでもあったので、家にある砂糖を嘗めては、祖母から叱かられていたようである。
頭脳明晰で、特に算盤での計算が勝れていて、檀家の子供達に教えたこともあった。
その頃は、お盆、或いは年始の檀家勤めは徒歩で、遠くの檀家回りは、一軒の檀家に宿泊して、その近くをお勤めして歩いたので、その宿泊先の檀家の子供達は、大樹和尚の算盤の計算のことは良く覚えていて、木材の石高なども簡単に算盤で示したと伝えている。
旭川へ行く時は電車が通るまで歩いて往復していた。
檀家の中には貧しい家も多くあり、寺の普請には積極的では無かった。
長男(大進)が結婚し、寺の庫裡が手狭になった為、増築しようと云う事になったが、大樹和尚が反対したので、その留守中に、普請したとも伝えられている。
戦争が激化し、戦死者の供養も村中の寺院住職達を集めて勤めていたが、いつもその真ん中で緋衣を着て拂子を振っていた大樹和尚であった。
晩年は脱腸で苦しみ、睾丸が大きく膨れあがり、二回手術したが、三回目の手術を断固拒否し、それが悪化し死亡したとも云う。