月舟宗胡の略歴とも云うべき「禪定開山月舟老和尚行状」は「禅定開山月舟和尚遺録」の巻末に掲載されている。
「禅定開山月舟和尚遺録」は巻頭に卍山の『月舟和尚遺録の序』があり、『月舟和尚遺録巻上』、『月舟和尚遺録巻下』、『成合白雲山題』の後、『禪定開山月舟老和尚行状』として記されているもの。
さらにこの巻の最後に、寛永二乙酉八月初十日、禪定嗣祖沙門曹源九拜書として、『劣孫源、老祖に随侍すること二十餘年。其の間、言教、潜に十が一を記して所有す。紙衣録の例に效(き)く者、今の遺録是れなり。老祖、當時若し筆記の跡を見れば、則ち特地に怒罵して云く、汝人の變吐を喫し鳥の□(丸咼)丸を食せんと欲すや。耶正に好し、丙王に付して老僧が拙を藏すに。老祖滅度早く已に十年。其の怒罵の聲を聞かんと欲すと雖も、復た得べからず。因に忌諱を犯して梓行を圖り、耳朶を大寂定門に傾けて、聞く所有るに似たるを以て慰めと爲す。嗚呼。』とある。
禪定開山月舟老和尚行状
師、諱は宗胡、字は月舟、可憇齋と稱す。俗姓は原田、肥前州武雄の人なり。
母は某氏。日輪を呑むことを夢みて孕む有り。産に臨みて痛苦忍びがたし。勢庿に黙禱して云く、産の若し恙なく無んば棄て、佛子と爲さんと。即時に降誕し母子、平安なり。
實に元和四年(1618)戊午四月五日、日の出の時なり。
師、幼きして出家を願い、父母初誓を以ての故に、其の志に方はず。先ず密宗の快義法印に投じ、驅烏の役を執る。
然れども宿植を感ずる所、自ら禪門を慕う、後に圓應寺の蕐嶽和尚に事へて、剃髮を得る、年甫て十二。
一時家に歸りて二親を省す。隣家の童子數輩特に來りて聚話して、各く志願を説く。師云く、我れ願いは此の國を領じて國と人を撫育せん。母其の説を聞いて大いに怒りて云く、昔、如來輪王の位を棄てて出家修道す、汝、今世縁を慕いて如來と背馳すること是の如し。豈能く佛子と爲るに勝んや、我れ誓って、汝が僧と爲るを許さず。師、通身汗流れて深く自ら自悔責す。其の夜竊(ひそか)に走りて寺に歸り、日夜修學し復た世念を動ずること無し。
翌年十三、偶ま圓覺經を閲して覺えず喜躍す。
十六にして遊方し東關に到りて、常州の多寶院に掛錫す。因みに衆中商量して無心是道を云うことを聞いて、大いに疑情を發して云く、若し是れ無心ならば木石と同ずが如し、木石豈能く佛祖の道を成ぜんや。現に此の心有り、何んぞ無心と云う。既にして一巻の抄子を見をば則ち云く、無心の田地に到らんと要せば、直に須く見性して始めて得べし。此の語、師の養處に抓著す。乃ち眞性を見むるを以て念と爲す。、打成一片、己れに就て體究し、寝食共に發するに至る者、年有り。
一朝、厠に在りて切に此の事を疑い時を移して出ることを忘る。時に暴風扉を吹きて忽ち開き忽ち合して磕然として聲有り。直下了然として驀に從前の疑團を打破す。夢の忽ち醒るが如く、忘れて忽ち記するが如し。手の舞い足の踏むを覺えず、歓喜言うべからず。前の所得を以て、人に説向すと雖も、之れを辨ずる者無し。
粤(ここ)に萬安和尚、丹の瑞巖在りと聞いて、往て故らに參扣す。安、其の法器なることを知りて懇ろに瑳磨を加う。已に疑う所無しと雖も、上或いは滯礙有り。一日山を出て行く次いで失脚して地に倒れ廓爾として大無礙を得る。
且つ衆寮に在り坐する間だ、沙彌の證道歌を誦すを聞くに、云く、了了として見るに一物無し、亦た人も無く亦た佛も無し、大千沙界海中の漚、一切の賢聖、電の拂うが如し。當下に大徹して復た餘蘊無し。
偈有り、懐を述して云く、一口吸盡す四大海、身を藏すに處無し娑竭龍、洞水逆流して流れ竭(ツキ)ず、只今日有りて我が宗に契る。此れに從り參じ罷る、縁に随いて長養す。時に三十一載なり。
明年、衆に幡の雲龍に首たり。後に愚溪透關等の諸老に見(まみ)え、各(おのおの)許可有り。
終に金獅の白峰和尚の室に入りて、親しく心印を傳え、信衣を領じて永平直下の嫡裔と爲る。
曾て攝州有馬の山寺に寓す。寺を宅原と曰く。寂寞として塵縁無し。禪餘吟詠陶然として自ずから楽しむ。
偈有りて云く、六白閒を甘えて此の生を寄せ、幽棲是の處新正に値う、東君賜與う山中の暦、掛けて梅花枝上に在りて明なり。
承應元年(1652)壬辰、勅に應じて、能の總持寺に瑞世す。
事畢りて山寺に歸り、忽ち受業老師蕐嶽和尚の老衰を思いて、肥前州に省覲す。
因みに長崎に到る。松雲融公與(と)超元道者を崇福に訪う。三人相逢うて笑談し互いに楽しむ。既にして又、山寺に歸る。
明暦元年(1655)乙未京尹版倉周防の守、師を請して三州の萬燈山長圓寺に住しむ。
岡崎の城主水野監物、嫡子衛門佐與(と)倶に來りて瞻禮して法を問う時に大用の存公佯狂として彼の中に在り。時時寺に入りて贊佐す。師の化を恰も普化の臨済に於けるが如くなり。是の故に諸方長圓を指目して東海の法窟と稱す。
師、應接に倦て退休を告ぐ。
偈有りて云く、十年飯を喫す萬燈峰、坐断す煙雲幾許か重し、拄杖一朝頭へ自轉す、鉢口を把將して虚空に掛け、坎止流行自然に任す、眞如不變又た随縁、頭盡大三千の外に囘して、時に飛埃の眼前を過ぎしを見ん。
既に長圓を出て、大澤龍溪院に赴いて輪住一年。
其の後、行止を定めず。包を腰にして行脚、衲子の輕かの如し。或いは村落に留まり、或いは山林に寓す。
此の時、泉南の禪徳、住吉の興禪前後して師を請して開山祖と爲す。
寛文十一年(1671)辛亥加州大乘の請に應す。
是れより先、本朝洞門宗風競わず、日に寂寥を致す。而今參玄の輩、師の進山を聞き、四方雲の如くに集まり、俄に禪市と成る。師、亦、法幢を以て任と爲し、勉めて永平瑩山の古規を行い、是れに洞上の一路全く古轍に合う。
僧問う曹洞の家風は即ち問はず、如何なるか是れ大乘の法要。師云く、摩訶般若波羅蜜、僧云く、便ち恁麼し去る時如何、師云く、脚下泥龍を踏む、僧云く、眼中翳無ければ空裏蕐無し、師云く、奴を郎と作すこと認めること莫れ、僧便ち喝す、師云く、果然示衆に云く、至道無難、唯嫌揀擇、作麼生んか會す、衆下語契わず自ら代わって云く、孤峯、秀廻るに煙蘿を掛けず、片月空に横し白雲見自から異なり、又云く、至道無難、唯嫌揀擇、四七二三、將錯、就錯、破鞋、破杓、破沙盆、明皎皎兮活卓卓。
延寶八年(1680)庚申の秋、大乘の法席を卍山に付して、自ら退鼓を打つ。
偈を唱えて云く、請を得、招きに應じ、來意重し、縁を了じ化を終へて去身軽し、一條の拄杖赤骨律、極まり無く清風脚下に生ず。
洛陽の巽方宇治田原に大悲の聖蹟有り、補陀(洛)山禪定寺と名し、原と東大寺平崇上人創開地なり。
地主某等、師を延べて居しむ。教えを革めて禪と作し、開山祖と爲す。
是れより先、宇治興聖の僧、此の寺に病を養う。一夕夢に一りの異僧告げて云く、我が地を興復せんと欲す者多し、皆な其の人の非ず、當に一實の人有り來りて之れを待つのみ。師の到るに及んで郷人前(さき)の夢事を説きて云く、師は是れ観音大士の待つ所なり。師の異跡多しと雖も徒を警めて傳説することを許さず。
元禄四年(1691)辛未春卍山、大乘を退き夏に興禪に坐す。
秋七月師を禪定に省す、師、卍山を留めて禪定二世と爲し、自ら去りて興禪に寓す。
八年(1695)乙亥、師、七十八歳、老いて且つ衰う。
卍山居を洛北源光庵に退き、師を勤て禪定に還らしむ。蓋し滅度を山中に取ら令めんと欲するなり。
春三月、卍山及び雲山の白、徳翁の高等同時の省覲して師の還山を賀す。師、大喜して囑して云く、老僧身心疲勞殘庚久しからず。今日の一會甚だ希有と爲す。當山は往世の巨刹、一廢荒涼たり、老僧一り來て禪居を營立す、終焉の處に充て、山林幽邃、老僧が意に愜(こころよ)し。以て一代開法行道の地と爲し、前來老僧創の所の寺院と共に、此の山を以て本山と爲し、本末相い扶けて、法門を護持し吾が道を興隆すこと宜くと。諸都唯唯して去る。
此の冬、微恙を示し、翌年正月(1696)、病、較重し、五日の夜、淨極まり光通達しの偈を舉して、侍養の者の爲に懇懇に垂誨す。十日の暁に到り、寂然として動ぜず、睡るが如くにして化す。龕を留ること三日、面、平生の如し。世壽七十九、法臘六十七。
辭世の偈に云く、出息入息、前歩後歩、生死去來、箭鋒相拄う、無中路有り通ず、是れ我が眞の歸處。
火化して骨身を収め、寺の西隅に塔す。塔を含空と曰く。
師、賦性朴實、古徳の風有り、慈有りて春和の如く、威有りて秋霜の如し。流金の暑と雖も袈裟、身を離れざる。折膠の寒と雖も雙手袖に収めず。蚊蚋肌を侵して血を流せども、扇を使わず。禪誦衆に先んじて死に至るまで惰容無し。曾て壮年の日、阿那律尊者七日眠らずの縁を聞き、試みに十日を限りて臥さず、眠らず。其の精進勇猛、實に一世の善知識に非ず。平生の言行、人の記することを許さず。文字を嗜まずと雖も、其の偈言、超絶。動もすれば人をして驚かしむ。自然に、書を能くして揮洒を厭わず。扁額等の大字數十紙と雖も一時に掃盡して、巧拙を顧みること無し。師、常に法門の流弊を歎き、勉めて嚢祖の宗綱を整う。是の故に永平門下推して中興と稱す。若し願輪に乗じて來ること非ずんば、爭か能く此れに到らんや。其の法を嗣ぐ者、源光の卍山、白成合の雲山、白興禪の祖道心、西來の徳翁高、眞成の木橋圓、雲光の岳、越巖の超等なり。外に傳戒の小師若干人。各(おのおの)一方に居して師の道を挙揚す。其の親近得益歸依受戒の者に至りては指を屈するに遑(いとま)ず。謂うべきか一代の宗匠間世良道なりと。平日の行持筆の盡す所に非ず。略して其の實を録し、後昆に示すと云く。
寚永甲申八月十日 禪定劣孫曹源諬首拝撰