高幢寺・金毘羅大權現


東川寺前身とも云うべき鳳林山高幢寺は江戸寛延元年の開創で武蔵国(東京府)荏原郡(えばらぐん)下目黒(注1)にあって、本寺は京都宇治田原の禪定寺。開山に月舟宗胡禅師を拝請し、二世中興徳翁良高師は開創三世重開山高峰源尊師の本師です。

以来十五世達宗(牧)玄道師まで至ります。


高幢寺歴代住職 


    開山         月舟宗胡大和尚 (元禄九年正月十日、遷化)

 

         月舟宗胡については別に項目を改め記載してあります。

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    二世 中興      徳翁良高大和尚 (宝永六年二月七日、遷化)

 

          徳翁良高については別に項目を改め記載してあります

                      徳翁良高和尚示衆

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    三世 重開山     高峰源尊大和尚 (寛延三年七月十九日、遷化)

  四世       大之雷周大和尚 (宝暦六年二月二十五日、遷化)
  五世       大亮先勇大和尚 (天明二年十月十日、遷化)
  六世       透海龍鱗大和尚 (天明五年七月十日、遷化)
  七世       元寶万岳大和尚 (天明四年十月十五日、遷化)
  八世       辨龍本瑞大和尚 (天保四年七月二十四日、遷化)
  九世       徳潤一酬大和尚 (文政五年八月十三日、遷化)
  十世       大因實乘大和尚 (文政八年十一月二十三日、遷化

  十一世              泰容岷嶺大和尚 (不明)
  十二世        祖眼提宗大和尚 (嘉永元年七月十八日、遷化)
  十三世        渓岳良雄大和尚 (不明)
  十四世       實参良悟大和尚 (不明)
  十五世       達宗玄道大和尚 (大正二年二月二十八日、遷化)

 



しかし明治の変動により島津家の庇護を離れ廃寺同然となるに及び、明治三十二年、高幢寺の歴住の位牌、金比羅大權現等の木像、島津藩主重豪書の大額、太鼓絵馬その他の什物と共に、高幢寺の最後の住職牧玄道師は北海道上川郡東川村に来て、東川寺を創立します。

 

下目黒「金毘羅大權現・高幢寺」廃寺の訳

「金毘羅大權現」があった「高幢寺」が廃寺となった訳。

それは明治維新で江戸幕府が倒れ、明治新政府が誕生したことと深く関係しています。

明治新政府が慶応4年3月13日に発令した太政官布告「神佛分離令(しんぶつぶんりれい)」と、明治3年1月3日に出された詔書「大教宣布」により、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、仏教弾圧がなされたことによります。

そのため多くの寺院、仏像、経卷が破壊されました。

さらに明治4年1月5日の太政官(だじょうかん)布告で「寺社領上知令」が布告され寺社の境内以外の領地が政府に取り上げられ、一層寺院が困窮し、廃寺にせざるを得ない所もでてきたのです。

「高幢寺」は曹洞宗の禅寺と云うよりも「金毘羅大權現」で有名であったため、神仏混交を禁止され、金毘羅大權現は神体とみなされ神社で祭るものとされたのです。

さらに金比羅大權現と書いた藩主・島津重豪の薩摩藩はこの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が他の所より厳しく行われました。

薩摩藩内の寺院は殆ど破壊され、藩主の菩提寺の福昌寺も破壊されたのです。

以上のように明治政府が急激に国家神道を進めてゆく事により、残念ながら高幢寺もついに廃寺に追い込まれることになったのです。

 


明治時代の地図

 

明治2年発行の東京御絵図(官版)には「コンヒラ大コンケン・高幢シ」と記載されています。

この頃は濁点、半濁点は表記しなかったので、実際は「コンピラ大ゴンゲン、高幢ジ」と読みます。

 明治2年東京御絵図(官版)
 明治2年東京御絵図(官版)

 

明治8年発行東京区分会図には「琴ヒラ大神・高幢寺」として記載されています。

 明治8年東京区分会図より
 明治8年東京区分会図より

 

江戸時代の「分間江戸大絵図」、「新編武蔵風土記稿」、「御江戸大絵図」、「江戸名所図會」などに高幢寺(金毘羅大權現)が記載されていますので、それらを掲載しました。

さらに高幢寺に掲げられていた「金比羅大權現」の大額、「高幢寺古代誌」を掲載いたしました。

 


分間江戸大絵図・文政8年(1825年)-高幢寺関係部分

分間江戸大絵図(文政8年・1825年)には「鎭護大明神 別當 高幢寺」と書かれています。


新編武蔵風土記稿-高幢寺の箇所

新編武蔵風土記稿

巻之四十七  荏原郡之九
馬込領
小山村 谷山村 上目黒村 中目黒村 下目黒村 

 

◎高幢寺
境内年貢地一万坪。村の北によりてあり。
曹洞宗山城國宇治田原禪定寺末、鳳林山傳燈院と號す。
昔、當所、鳳林庵といへる庵室ありしが正徳年中、高峯和尚と云もの此庵に住せり。
その頃、神奈川宿金蔵院の境内に傳燈院高幢寺といへる廃寺あり。
高峰それをここにうつし、庵を改め一宇の寺院とす。故に庵號を以て山號とす。
高峰、俗姓は源、氏は大田、名資尊、圖書資頼が子なり。
貞享2年正月28日、年、十一にして薙染し加州大乘寺に入て參禪し、後諸國を遍歴す。
高峰嘗て金毘羅を信じて一堂を起立すべき志あり。年を歴ていよいよ志あつかりける。
後、此處に来り其願を遂たり。依て終焉の地と定めこの構營あり。
又、大岡越前守、寺社奉行たりし頃、七堂伽藍建立の願も許されしかと、未造立のことに及ばずして寛延3年7月19日、八十二歳にして入寂す。

 

金毘羅權現社
境内にあり、三間に七間、幣殿三間四方、拝殿七間に三間、向拝三間四方、東に向う。
金毘羅權現の五字を扁す。神像は木像、作知れず。長一尺五寸。
祭禮年々十月十日、神樂を奏す。
御城鎭護の神と仰ぎ、九條家より鎭護社の三字を賜はり、今寺に納む。
又、辨天の像あり、長五寸餘、厨子の中に安じて堂中にあり。神奈川高幢寺に傳へし舊物なり。寺傳に云、高峯常に此の辨天を信ず。一日坐禪の間、一睡を催す。
時に霊夢を蒙り、多年の応願成就の期至れり、その證として一銭を賜るとみて、夢さめたり。

高峯、奇異の思をなし、懐中を探るに果して一銭を得たり。高峯歡喜浅からず。
程なく當社を建立しける後、錢をば錢婆神と崇め今に社壇に安ずと云う。

 

地藏堂
表門を入て左にあり。一間に九尺、木像立像長三尺、空海の作、地藏を本尊とす。

 

本地堂
表門を入て右にあり。三間半に二間半。金毘羅の本地正觀音の木像を安ず。長一尺許、岩石の上に踞す。此餘、釋迦、及び十六羅漢、摩訶迦葉、達摩の諸像を安置す。

 

首尾辨天勝利大黑正一位小瀧稻荷合社
裏門の内石階の下にあり。二間に二間半。神體は何も木像なり。社前に鳥居を立、爾柱間六尺。

 

曾根松 根の廻、二圃許。

 

難波梅 古木は枯てなし。跡へ同種の木を植てあり。

 

此の二本の由来、詳ならざれ共、當地の名木と称して世人もてはやせり。何れも本地堂後林中にあり。

 

石鳥居 爾柱の間九尺

 

中門 鳥居の外にあり。柱間二間許。

 

石鳥居 中門の外にあり。柱間二間。

 

表門 石鳥居より十五歩ばかり隔てあり。爾柱の間二間、南に向う。

 


増訂武江年表

 

「増訂武江年表」には下記のような記事があります。

 

増訂武江年表巻之四
享保間記事
目黒高幢寺開創、金毘羅權現社造營
或記、當社は開闢古しといへり、此時代再興ありてより詣人も增しける也
寛延元年(1748)八千九百四十坪境内寄附ありと云々

 

増訂武江年表巻之五(明和四-明和五)
明和四年(1767) 丁亥 九月閏
四月より、目黒高幢寺鎮護權現 金毘羅權現也 辯才天開帳

 

増訂武江年表巻之九
弘化二年(1845) 乙巳
七月より、淺草寺町正覺にて中山鬼子母神開帳、同じ頃より廣尾天現寺毘沙門天、目黒高幢寺金毘羅權現開帳

 


(参考1)「富嶽三十六景・下目黒」の図

おそらく当時は高幢寺の周りもこの様な田園風景であったと思われます。

 富嶽三十六景・下目黒
 富嶽三十六景・下目黒

御江戸大絵図・天保14年(1843年)-高幢寺関係部分

御江戸大絵図(天保14年・1843年)には「金毘羅大權現 高幢寺」と書かれています。 


江戸名所図會-金毘羅大權現社・高幢寺関係部分

江戸名所図會七巻之三には金毘羅大權現・高幢寺に関する文章と挿絵が掲載されています。  

 江戸名所図會 七
 江戸名所図會 七

 

「江戸名所図會七巻之三」には「金比羅大權現社」として

「同所二町ばかり西の方 通りを隔てゝあり 祭る所讃州象頭山金毘羅宮と同じ 當社を以つて御城南鎮護神と称し奉れり 九条家染筆の額を蔵す 別當は禅宗にして高幢寺といふ 境内に難波の梅 又曽根の松と称する樹あり」

と書かれていて下記の「金毘羅社こんひらやしろ」の会図が掲載されています。 

 

 金毘羅社の部分拡大図
 金毘羅社の部分拡大図

金毘羅大權現(島津重豪・揮毫)の大額

この大額は元高幢寺(こうどうじ)に掲げられていたものです。

現在は東川寺に掲げています。 

額の全体の大きさは縦124㎝×横73㎝あります。

「金毘羅大權現」と書いた人は「薩州三位中将榮翁八十八歳謹書」とあります。

江戸中期の薩摩藩主、島津重豪(しまづしげひで)が榮翁と号したことから、この書は島津重豪の八十八歳の時の揮毫。

島津重豪は天保4年(1833年)、八十九歳で亡くなりましたので、この書は天保3年の頃に揮毫されたもの。

 

 金毘羅大権現・薩州三位中将榮翁八十八歳謹書(島津重豪)
 金毘羅大権現・薩州三位中将榮翁八十八歳謹書(島津重豪)
 島津重豪 日本歴史学会編集 吉川弘文館
 島津重豪 日本歴史学会編集 吉川弘文館

凰林山 高幢寺 古代誌

東川寺に残されている高幢寺の古代誌

讃岐の金毘羅さんが偽開帳と訴え出た、寺社奉行との「金毘羅大權現」に関する訴訟関係文書などです。  

 

 

この時の寺社奉行は名にし負う名奉行「大岡越前の守・大岡忠相」です。(註2)


「金刀比羅宮」 昭和45年4月20日 初版発行
   著者 琴陵光重  発行所 (株)學生社

 

(本書172頁より173頁抜粋)

 

贋開帳
「こうして音に聞こえたこの神への崇敬は、全国のあちこちに、本社の出開帳と称して、江戸、大坂、京都、備後、土佐、阿波でもニセ開帳があらわれ、時には官に請うて停止せしめるなどの事件も惹起していった。
すこし横みちにそれるけれども、諸所にあらわれたニセ開帳のうちには悪質なものもずいぶんあった。
本尊はこちら、これこそ讃岐こんぴらの出開帳なるぞとふれこんで、幾多淨財をかきあつめ、善男善女をまどわし、あるいは御社紋に紛わしいものをつくって利潤をうるなど横行した。
その一つに、名に聞えた、大岡越前守の裁き、にせ開帳の取締り-そのことが史料に見えている。それは、
延享三寅年(1746)江戸下目黒村 高峰庵事件
高峰庵地に金毘羅権現と申し立て 紛らわしい勧請を別当江戸に罷り出でて 寺社御奉行所へ願出でた処 十月十八日 山名因幡守殿 御同席に 大岡越前守殿に於て 御一所に双方を召されて高峰庵を御詮議 別当願出の通り取払いを仰せつける。
と載っている。
しかし思えば、徳川期は、はなばなしい御神徳の宣揚のさまを物語ってくれるのである。」

 

以上のように「金刀比羅宮」の本の中には書いてあります。

 

東京都下目黒「金毘羅坂」

東京都目黒区下目黒3丁目に金毘羅坂(こんぴらざか)と呼ばれる坂があります。

 

東京の地名の由来 東京23区辞典」には下記のように記述されています。

 

「金毘羅坂」

酉の市では山の手一の賑わいを見せる目黒大鳥神社北側の目黒通りは、南西に向かって緩やかな上り坂になっている。
沿道南側にユニークな博物館の目黒寄生虫館が建っているこの坂には、金毘羅坂の名がある。
金毘羅とは、仏法の守護神の1つ金毘羅さまに他ならない。
今は辺りにそれらしき神社や寺は見当たらないが、かつて大鳥神社北西の丘上に金毘羅さまが鎮座していたので坂の名になった?
『江戸名所図会』には「金毘羅大権現社」として「同所二町ばかり西の方、通りを隔てゝあり。祭る所讃州象頭山金毘羅宮と同じ。同社を以つて御城南鎮護神と称し奉れり」と記されている。
大鳥神社から200mほど西にあって、祭神は讃岐の金毘羅大権現、現在の香川県の金毘羅宮と同じで江戸城南の守護神と称されたという訳だ。
同書には木々に囲まれた社殿を描いた「金毘羅社」の挿絵も載っている。
江戸時代には随分繁栄した神さまで、大鳥神社・目黒不動尊と並んで「目黒三社」の1つに数えられた。
ただ幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』を見ると、この金毘羅は、正徳年間(1711~16)開山の曹洞宗高幢寺(こうとうじ)の境内にあったとある。
同寺は、『江戸名所図会』の「金毘羅大権現社」の項には「別当は禅宗にして高幢寺といふ」とあるだけだ。
しかし実際は、高幢寺開基後に境内の一隅に金毘羅さんが勧請されたという『風土記稿』の記述通りだったのだろう。
寺の名より金毘羅の方が一般には通りがよく、高幢寺そのものも「金毘羅大権現」と呼ばれるようになったと見られる。
その高幢寺も明治初年に廃寺となって金毘羅もなくなり、坂名に名残をとどめるだけになった。   

 

金毘羅坂付近 Google

金毘羅坂の道標

この金毘羅坂には現在その由来が書かれた道標があります。

 

下の写真4枚がその道標です。

 よく見えないが「江戸名所図会」の挿絵
 よく見えないが「江戸名所図会」の挿絵

金毘羅坂の説明文

 

「金毘羅坂こんぴらさか

坂の西側に金毘羅権現社(高幢寺)があったので、坂の名がついたといわれる。

金毘羅権現社は、江戸名所図絵の押絵にその壮観がしのばれるが、明治の初めに廃寺となった。
坂の東側には、明治四十年に目黒競
馬場ができ、昭和八年に府中に移転するまで、この坂は競馬場にゆきかよう人々でにぎわった。
  昭和五十八年三月   東京都」

 

 


目黒競馬場の地図

上の「金毘羅坂」の道標に記載されている「目黒競馬場」の地図です。(注3)

 大正7年発行・東京地図より
 大正7年発行・東京地図より

目黒の競馬

東京府下、目黒競馬場に於ける競馬會にして五月一日と二日の雨日行はる。春風にいななく駒の聲も勇ましく熱狂せる數千の見物は手に汗を握る。

 ~寫眞時報・大正4年6月號より~

 目黒の競馬
 目黒の競馬

(注1)

現在、目黒は東京都内になっていますが、古来より江戸郊外、武蔵國荏原郡えばらぐん内にあり、上目黒村、中目黒村、下目黒村でした。

明治以降も東京府荏原郡内にあり、昭和7年(1932年)にようやく東京市に編入されたのです。

 

(註2)

大岡越前はテレビドラマの影響か町奉行として有名であるが、町奉行から寺社奉行へと出世している。下記に略歴を記す。

 

「大岡越前守忠相公略歴」

公は延宝五年に生まれ、幼名を求馬という。

貞享三年十二月(十歳)忠真の養嗣子となり、市十郎と改め、元禄十三年七月(二十四歳)家を継ぎ、忠右衛門と改む。

寄合とて無役の旗本なりしが、元禄十五年(二十六歳)御書院番士となり、宝永元年(二十八歳)御徒頭となる。

同年十二月布衣を許され、宝永四年八月(三十一歳)御使番、翌五年七月(三十二歳)御目附の昇進し、正徳二年正月十一日(三十六歳)山田奉行にうつり、三月十五日従五位下能登守となり、享保元年二月十二日(四十歳)御普請奉行に転ず。

而して享保二年二月三日(四十一歳)抜擢せられ江戸町奉行となる。勤続二十年。

元文元年八月(六十歳)寺社奉行に栄進し、大名の格式となる。勤続十三年。

寛延元年(七十二歳)御奏者番兼寺社奉行となり、祿壱万石を賜り、大名の列に入る。

宝暦元年十月、病のため職を辞す。然れども寺社奉行を免じ、御奏者番を免されず。

この年十二月十六日薨ず。

法名を松運院興譽仁山崇義大居士と號す。

(續藩翰譜、大成武鑑、徳川實記に依る)

  春秋居士著「大岡越前公略傳」より

 

       大岡越前の守・大岡忠相
      大岡越前の守・大岡忠相

 

(注3)

旧高幢寺は目黒の小瀧と云う場所に建っていました。

大正時代には旧高幢寺の跡には藤田邸があったようです。

 

 大正九年八月調「荏原郡目黒村土地概評價」(東京興信所・発行)


この冊子「荏原郡目黒村土地概評價」によると

(一~二頁)

『目黒村は渋谷及大崎町の西に隣り西に世田ケ谷、駒澤、碑襖の三村、南に平塚村、北に代々幡町あり東西三十町、南北五十町、面積六百十餘町歩の長大村にして之れを分ちて四大字、四十字となす

其地勢は北より南に縦貫せる目黒川流域の平地と其東西に連亘せる高臺とに分れ、而して東部の高臺は北は駒場より南は坂下まで延々一里餘、三田用水路の通ずる處にして當村は其の西に面せる部分を占め、北の農科大學、南の火薬庫を除く外概ね上流の住宅地となり、津村、西郷、根津、朝倉及び久米、三條邸等あり、尚其西北に目黒川の支流を挟んで農科大學と相對せる輜重隊所在の高臺あり、又東南日本麦酒附近の一部は山の手線以東に跨り渋谷町字伊達跡の高臺と連り大崎町字長者丸と相對す。

次に目黒川以西の高臺は一般に高燥にして比較的平坦なるも蛇崩川外一、二の目黒川支流によりて、駒澤練兵場の東端、祐天寺、競馬場等を中心とする各高臺に分たれ、地勢の變化乏しからず又樹木に富めるを以て住宅地として漸く發展の緒に就きたるものヽ如く金比羅山の藤田邸、祐天寺西南の山本邸、仝東南の志保澤邸の等の大邸宅を始め、一般の住宅著しく増加しつヽあり。

次に又目黒川流域は可なり廣き平地を爲し、下目黒の権之助、行人両坂下附近及上目黒の大阪下附近等は商工業地として其の發展稍見る可きものあるに至り、其趨勢は漸次中目黒方面に波及しつヽあり。

要之に當村の發展は交通の便と、平地とに富み、且名刹目黒不動を有する下目黒に始まり、玉川電車の便ある大山街道筋、即ち上目黒之れに次ぎ、近頃また山の手線恵比須驛の便を控ゆる中目黒方面にも波及せんとするものヽ如くなるも、之れを全体より見るときは其の發展は未だ微々たるものにして西部の大半には昔ながらの畑を存し、東部と雖も今尚ほ大部分植木屋の観あり、之れを他の接續町村に比すれば聊か遅れ過ぎたるの感なき能はず、こは主として市の中心を距ること稍々遠きと、發展を促す可き特殊の施設及び地の利を有せず、又東境に連亘せる高臺を越ゆる道路に権之助、行人、茶屋、別所、しんど、見切、大阪等の有名なる坂路ありて交通を阻害する等地勢の極めて不利なるに因る。云々』

とある。

又、同二十六頁には『大字、下目黒 東は権之助、行人両坂下附近より西は競馬場付近に至り南に目黒不動、苔香園、北に藤田邸(金比羅山)慰廃園等あり、十二字とす。』

とある。

さらに同二十九頁には『字、小瀧 四七五-五四五番地(俗に金比羅山の稱ある高臺にて藤田邸及び競馬場附属の厩舎あり)』、同三十頁には『(一)四八四-四八七番地(大鳥神社前大通筋、(二)五〇〇-五〇二番地(藤田邸北目黒川支流の岸)、(三)五〇三-五一七番地(仝上田地)、五一八-五二〇番地(西北隅即ち厩舎裏東に盛斜せり畑)、(五)四九六-四九九、五三一-五四五番地(藤田邸)』

とある。

 


目黒区のあらまし


 

目黒区のあらまし
(「目黒の観光」1964年、東京都目黒区発行より)

 

 目黒区は、東京都の西南部にあって、面積14.41平方キロメートル、周囲は約26キロメートル、総体に20~40メートルの台地をなし、東北部に目黒川、西南部に呑川が流れて、比較的坂の多いところである。
 目黒の地に人が住むようになったのは、今から4~5千年前の昔、石器時代にさかのぼるといわれている。このことは、区内の東山そのほか10数カ所の遺跡から発掘された土器や石器によって、学者や研究家が推察したものである。
 大化の改新によって、武蔵国がおかれ、その下に21の郡が分けられたが、それに多摩、足立、荏原、豊島などの名がみられ、今の目黒はそのうちの荏原郡に属していたのである。
 平安時代にはいって、西暦806年(大同元年)に、下目黒の大鳥神社が創建されたといわれている。続いて808年(大同3年)に慈覚太師により滝泉寺(目黒不動尊)が、また碑文谷(ひもんや)の円融寺などが開かれたと縁起に残っている。
 徳川家康の江戸開府は、いろいろの意味で目黒の開発に大きな影響を与え、代々の将軍の狩猟場として、また、近郊景勝の地として、さらに、江戸市民の野菜の供給地として、目黒の開発は一層助長されたのである。
 この目黒は、かって「目黒の竹の子」の名産地として、また徳川三代将軍の鷹狩の話に「目黒のさんま」で知られ、好適な狩猟地として有名であった。
 目黒が発展した一般的な動きとしては、明治20年9月サッポロビール会社が今の目黒工場を設立し、明治40年12月には目黒競馬場が創立された。これは、昭和8年8月に府中(今の東京競馬場)に移転した。明治・大正・昭和にかけて急速に都市化して大きくクローズアップされたのは、交通機関である。目蒲線は大正12年、東横線は昭和2年に開通、関東大震災(大正12年)の直後、被災者が郊外に住宅を求めたところから、目黒区の住宅や人口は飛躍的に増大し、同時に商工地帯としても発展した。
 その後、太平洋戦争が拡大するとともに、疎開や戦災によって、その発展が一時停滞した。しかし、戦後の声をきくや年を経るに随って、めざましく発展をとげ、都市化も旧目黒地区から旧碑衾地区へと進展し、今や人口29万余を有する近代化住宅都市となった。
 さらに、東京オリンピック競技会場の隣接区として、道路の整備、地下鉄の導入をともなう工事もまたさかんに行なわれている。都心への交通事情がよくなることは、産業の発展とともに、目黒区の一層の発展が約束されるであろう。
 (昭和39年3月25日発行・目黒の発展より)

 


目黒村 「通俗荏原風土記稿」より


 

「通俗荏原風土記稿」(中島錦一郎編纂・明治四十五年六月二十日発行)には「目黒村沿革」として下記の通りの記述がある。

 

「目黒村」


舊記を按ずるに目黒村は上古は御田(ミタ)鄕に属し、中古は菅刈庄に入り、小田原北條氏時代には太田源六郎なる者が目黒本村の地十七貫五百文を領して居たと云ふ。
徳川氏の時代、天正年間は青山伯耆守の領地となり、其の後、正保の前迄は一村であったが、正保の時に上中下の三村に分たれ、共に馬込領に属して居たのである。
其の後、何時の頃か不明であるが中下の両目黒の地は御霊屋料として芝の増上寺に賜はり、府中の所轄となったと云へば、上目黒も右同様御霊屋料の内に入って居たろうと思はるる。そは徳川氏が品川駅へ定助鄕を出すことを各村へ賦課(ワリアテ)した(定助鄕の事は品川町の條にあり)記録中に、上中下目黒の村名が無いから、三目黒共に増上寺領であったであろう。
今の上目黒の地の一部は、昔時鎌倉街道に當つて居た故、頗る殷盛を極めたそうであるが、(古の鎌倉街道は青山より今の上目黒の一部を通り、夫れから馬引駅に出て、蛇崩ジャクヅレ川岸に沿うて二子の渡に至つたと云う)多くは曠野で俗に目黒原と称せられ、大永年中上杉氏と北條氏が合戦した處だと云う。
其の後、徳川氏以来幾多の変遷を経て、竟に今日の如き富裕なる一大村落となつたのである。
目黒村の開闢年代は明かでないが、此の地には承和年間(末年?)慈覺大師の開基に係る瀧泉寺がある。承和の元年は今から一千七十九年前に當るから、其の頃は已に幾分か土地も開発せられて居たろうと思う。遠く其の以前に遡つては、人類学会雑誌に「上目黒村にて発見したる石棒の巨大なるもの二本あり、一は長さ三尺周(アマ)り一尺、一は長さ一尺九寸周り八寸。此の近地到る處に原人遺跡あり云々」とあるから、太古は人の棲住した地であろうと察せらるる。
又、目黒の名称に就ては古来幾様(イクヨウ)にも説かれて居るから、其の帰着に迷うのである。今二三を挙げて見ると、
一、驪鄕(ムグロムラ) 驪は黒馬なれば目黒と馬黒(メグロ)と和訓相通じて用いたるもの。
二、妻驪(メグロ) 延寶年間の安見図鑑に見ゆ。
三、免畔(メグロ) 免田の地なりし故に此の字を用いたりと。
四、目黒 今日用いられ居るもの。
以上四様に書かれてあるが、第一は餘り牽強(ヒキツケ)に過ぎる嫌いがある。多分文人墨客が彼の向島を夢香洲(ムコウジマ)と書き、箱根を函關と洒落(シャレ)た類いであろうか。第三は免田の意だと云えば、前述の徳川時代増上寺領に帰してから以後の事に當る故、此の名称の起源は新しい。「メグロ」の名は以前から傳はつて居るのだから、是れを起源とは謂われぬ。第四の目黒の事に就ては「新篇武蔵風土記稿」に
『目黒の名義詳ならず、或は當所の不動堂は慈覺大師勧請の舊地にして目黒不動と號するにより、後に此の號称をば村名とせしならんと。不動の称に目の色を以て唱うること當所のみにあらず、府内關口の臺に目白不動ありて、其の辺の字を目白臺と呼び、又、駒込に目赤不動あり。一説に當國には古え牧場多ければ馬にもとづきて名付けたる地名多し。馬込、駒込、駒岡、駒林、駒引澤、練馬、馬絹、有馬、馬場、駒井の類い是れなり。昔は目色毛色をもて馬の名とせし事あれば、この目黒村も馬の名によりて起こりし地名ならん云々』と。
さらど第二の妻驪は瀧泉寺の縁起中に「武州荏原郡妻驪(メグロ)の里云々とあり、又天正年中此地青山伯耆守の所領となるに及び妻驪を改めて目黒と云う云々」とある。これは瀧泉寺が古文書に據つた説であろうが、編者は未だ考証に備ふる文書を見出さぬから何(イヅ)れとも云えぬ。されど古来の妻驪と云う画の多い字を単易な目黒と改めたと云う事は一理ある説であると思う。
 (通俗荏原風土記稿 145頁~148頁より)

 

「爺ヶ茶屋」

 

此の茶屋の跡は今の目黒火薬庫構内になつて居るそうであるが、舊幕府時代には頗る名高いものであつたと云う。
其は徳川三代家光が目黒近傍へ遊猟の折々には、此の茶屋にて休息するのが殆んど例の如くになつて居た。
然るに家光は此の家の老主人のいと質樸なるを愛して、常に爺々(ヂヾヂヾ)と言葉を賜はり、主人も大いに面目を施して居たが、或る時、家光は主人に向かい、度々汝の厄介になる謝礼として、何物でも汝の望むものを取らすとの言葉、主人は恐る恐る自己の屋敷周囲の地一町程を乞うた故、家光は直ちに之を與えた。
其れ以後人々は目黒のお茶屋と称して喧伝したと云う。
当時の主人の末孫は島村三五郎とて今猶ほ中目黒に住んで居るそうである。
此の茶屋に就いて面白き口碑が残つて居る。
或る日、家光が遊猟の帰途、非常に疲労して空腹を感じたので、例の如く爺(ヂヾ)の茶屋に立寄られ食事を申付けたが、何を云うにも目黒の片田舎のことであるから、美食を常とする将軍に奉るべき食物の調う筈はない。依つて其の由を上申すると、何の菜(サイ)でも苦しくないとの言葉故「さんま」の魚を焼いて御飯を奉つた所が、空腹の為と且つは平素美味に飽きて居る口舌には此の「さんま」が頗る美味に感じ、満腹して帰城された。其の後、家光は此の「さんま」の味が忘れられず、食事の時「さんま」の菜(サイ)を出せと膳部係へ伝えたが、係の者は斯る前例がないので大いに驚きたれども、鶴の一声已むを得ず急ぎ新鮮なる「さんま」を取り寄せ調理して奉つた。
ところが家光食うて其の味が爺(ヂヾ)の手料理のものに及ばないので、膳部係をひどく困らしたと云う。
今日通人(ツウジン)が美味の物を望む洒落(シャレ)に“目黒のさんま”が欲しいと云うは此の故事に基づくそうである。
 (通俗荏原風土記稿 156頁~157頁より)

 

 名所江戸百景・広重(安政4年) 目黒爺々が茶屋
 名所江戸百景・広重(安政4年) 目黒爺々が茶屋
  通俗荏原風土記稿 全
  通俗荏原風土記稿 全

 

 目黒の麦打ち唄

 

「目黒に名所が三つござる。一に大鳥、二に不動、三に金毘羅・・・」と麦打歌に歌われた目黒三社の、大鳥神社、目黒不動、金毘羅権現社(高幢寺)。
明治になっても目黒の奥は田畑が多く、農家が点在していた。
下は「風俗画報」掲載の「目黒衾襖村より祐天の森を望む(明治三十一年写)」と題された麦打ちする農家の風景画。 (衾襖村は碑衾村か衾村の間違い?)

 

 目黒の麦打ち風景(下の画像より)
 目黒の麦打ち風景(下の画像より)
  目黒碑衾村?より祐天の森を望む(明治三十一年写)・「風俗画報」掲載
  目黒碑衾村?より祐天の森を望む(明治三十一年写)・「風俗画報」掲載