天真山東川寺創立之略記


大変難しく読みづらいですが、興味のある方は是非読んでみて下さい。

先人のご苦労が偲ばれます。


天真山東川寺創立之略記

 

抑も天真山東川寺は明治三十二年の時、真宗大谷派に属する信者山崎才一郎氏なる者あって禅宗信者なる川本万吉、日比野堅次郎の両氏に諮り、僧の耆宿たる東京市芝区白金台町高幢寺前住職牧玄道師を請し開教の任に當らしめ、假布教所、忠別原野西六号南一番地川本万吉氏の納屋の一隅を以て、之が教所に當て、大いに曹洞宗の旨趣を布演するの途を開きぬ。
又た、発起人の三名と主任教師と相議(あいはか)り極力信徒募集に務め日夜東奔西走して應ずる者日を追うて来たり、已に五十有余戸に及ぶ。
此に於いて始めて葬祭聞法の道場なくんば信者に満足を与える事難きを以て、先ず信徒総代を選挙する必要を感じ、発起三名を選抜するも、山崎才一郎なる者は真宗信者なる故んを以て辞退に及び、代わるに稲垣喜代次郞氏を以てす。茲に至り信徒総代に川本万吉氏、日比野堅次郎氏、稲垣喜代次郞氏、其の撰に當り専ら其の事に力を致す。
始めて公認たる資格を具備するに至り茲に出願す
明治三十四年四月十八日を以て道廳長官代上川支庁長加藤寛六郎氏より上川郡東川村西六号北二番地に曹洞宗説教所創設及び管理者牧玄道を任ずるの件許可するの指令を得て始めて公認たる道場を開く事を得たり。
此れより先総代人及び信徒協力して此地畑五町歩の

買入れに付き別記寄帳の如く応分の喜捨を募り、以て敷地に當つ。
故あって名目は寺号公称まで総代の名目となす。
又た、堂宇は牧玄道氏、私金を投じ建立す。
其の人夫は信徒中に依り手伝いをなす。其際に當り総代たる者は日夜寝食を忘れ苦役す。
雪中寒気厳しきに當り夜間人夫をして樹林内より一大喬木を曳き出す等の如き実に艱難の労苦思いやられし。
如何に信者の熱心なるかを窺うに足る者あり。
堂宇落成をつぐるに及んで、川本氏の納屋より仮に遷佛して此の處に居を移すべく維れし時、明治三十三年なり。
弥々(いよいよ)公認たる道場となり入佛の式を挙げんには人之れを疑うがゆえ、関与人協力して其の式を挙ぐ。
此の日道場を荘厳し諸山の耆宿を屈請して厳粛なる法要を以て入佛慶讃の式を挙げ、因みに信徒喜捨の施主に報ゆる為、大施食会を厳修して祖先の霊を祭る。
其の日天気晴朗にして一点の雲なく参詣の男女の老若群集して殆ど立錐の余地なきに至る。
此の法式の盛挙を見て善男善女感極まりてや歓喜の涙に袖を絞りつつあり。
実に情興言舌に尽くす事能はず。
之れ皆な北海へ佛法を紹隆せしめんと欲する龍天護法神、天神地祇の加護たるべけんや。
然して玄道管理者は錫を置く事三星霜身命を放捨して日夜佛法並びに宗門の為に大いに尽瘁して国家に報答せらる。
止む事を得ざる要件に付き、明治三十六年東京市に錫を移し、高幢寺跡に閑居す。
教場留守居に任は同師徒弟林道円氏を以て當て

しむ。故あって辞す。
橋本祖真氏なる者其の任に當るも病症の為め終に退けらる。
茲に至り玄道氏大いに後任の監司に苦しむの折、三河の産小島目道なる者東京に遊歴するあり。
人を以て説かしめ後任たらしめんとす。
目道氏諾す。
依って日を卜(ぼく)して渡道して其の任に當たる。
維時明治三十八年四月二十五日なり。
同氏、発達を謀(はか)らんが為、諸般の事を協議するも時期の至らざる者か、終に成らず。
故あって総代三名の外永谷鎌次郞氏、寺尾治三郎氏の両名を加え其の諾を得て任に當てしむ。
時を見て諸事を議せしめしも未だ発達の好運時来たらざる者か、議決紛々終に同氏身を退いて愛別村に至り説教所を設立し管理者となるも如何せん玄道師より當教場の監督を命ぜられ愛別郵便局長寺戸信久氏と共に関する事と成り。
爾来留守居人の選擇等に関し総代人等と協力して天屯一了氏を充つるも故あって退ぞき篁祐孝氏を充つるも故あって辞せしむ。
目道氏三十九年五月十日身を退いてより五ケ年。
此の星霜の間、教場は不運にして益々衰態の状を呈す。
甲は論し乙は駮し興廃の議論喧すし。
此の時に至り総代日比野堅次郎、永谷鎌次郞、川本万吉、稲垣喜代次郞、寺尾治三郎の諸氏を始め有志の信者と議り、荒廃するは遺憾の極しなれば如何に困苦するも之れをして再興せんと誓い着々信者の気を引き立んと寺号公称の認可を求めんと議して大いに信徒の気を復興せしめ公称費

用の金を募りしに意想外の成功を挙げ以て着々其の實を現さんと日夜寝食を忘じて其の事に従事す。
檀家募集すれば壱百十九戸、金円を募集すれば四百有餘の大金得るに至る。
其處に於て時期を誤らざる様にせんものと夫々公称の手続きを履行して其の筋の任可を仰ぐ。
此處に至る迄には小島目道をして上京せしめ玄道氏を訪はせ公称諸般議を諮り、開山拝請を越大本山に伺い略ぼ事に纏まるを以て帰村せしめて関与者に通ず。
又た永谷鎌次郞氏を以て上京して玄道氏を訪はし諸般の準備を成す等実に熱心なる総代は日夜東奔西走事に従事す。
幸いにして明治四十二年十二月二十二日北海道時の長官河島醇の任可を得、始めて大本山永平寺直末天真山東川寺と号する事を得るは玄道師の徳風北海に渡り道俗其の徳風を蒙る者なり。
又た熱心なる総代諸氏及び有志の盡力等に依り其の徳風を布演する者なり。
嗚呼慶賀すべきなり維れ時、明治四十二年十二月四山白雪皚皚たる日祝賀を表せしまでに概略を記す。

 

 當山四世 素環目道 謹記