東川寺が開創された時代、明治32年頃はどのような時だったのでしょうか?
下記に時代背景を簡単に掲載いたしました。
明治27年 (西暦1894年)
8月 1日 清国に宣戦布告(日清戦争)
(参考1)80年目に公開する、その因果関係
「日清戦争従軍秘録」
濱本利三郎 著
地主愛子 編 (青春出版社)
まえがき-80年目に公開する“日清戦争”
この日記は明治に生きた二十七歳の青年教師(私の父)の一年間にわたる戦争体験記である。
日清戦争は、明治維新後、軍国主義国家としての第一歩をふみ出した戦争である。
隣国朝鮮をふみ台にして、大国清国を相手に戦争をしかけ、勝利を得ると、これが又、日露戦争に発展した。
世界の一、二、を占める清国、ロシアに大勝した。
小国日本は一等国にのしあがり、朝鮮を属国とし、満州を我が手にいれた。
これが日本を破滅に導いただけでなく、隣国を塗炭の苦しみにおとした太平洋戦争の序曲となっていった。(後略)
昭和四十七年仲秋 編者 地主愛子
“坊ちゃん”と父 (父-著者・濱本利三郎)(頁202)
「奇跡的に生還した父は、九月一日、八百名の生徒と教員たちから歓呼の声で迎えられ、再び松山中学校の門をくぐった。
父の出征中に、夏目金之助(漱石)が英語の教師として就職し、教員室では父の机のとなりであったそうだ。
父のクラスの少年たちは、日清戦争の凱旋勇士を目を輝かせ、胸をときめかして待っていた。
その中に、後年日露戦争の体験記「肉弾」を書いて世界的名著となった、元陸軍少将、桜井忠温(さくらいただよし)少年がいた。」
参照-(参考3)「肉弾」櫻井中尉著並畫
※ 正岡子規
「俳諧大要」に「子規子、病を戦地に得、帰って神戸の病院におること数旬。転じて須磨に遊び、やや癒えて故山に帰り、漱石の家に寄寓す。」と高浜虚子が書いているように、明治28年4月、正岡子規はこの日清戦争に従軍記者として同行し、帰路の船中で喀血し入院、後、療養のため、松山の夏目漱石の宿に身を寄せたのです。
10月 旭川町1条5丁目に曹洞宗説教所創立(大休寺の基礎)
明治28年 (西暦1895年)
北海道廳管内地図
岩見沢から旭川までの部分拡大図を掲載(地名赤字で新たに記入)
明治29年 (西暦1896年)
8月26日 函館の大火(約2220戸焼失)
明治30年 (西暦1897年)
10月10日 校註蕪村全集 発行
校註蕪村全集
明治三十年十月十日 発行
編輯者 阿心庵雪人
発行所 上田屋書廛
蕪村句集 巻之上 几董著
蕪村句集 巻之下
蕪村文集 乾 (洛 竹巣月居 閲 湖東其獨亭忍雪 洛 酔菴其成 輯)
蕪村文集 坤 (同上)
新花摘
溫故集
俳諧玉藻集
夜半翁終焉記
明治31年 (西暦1898年)
4月13日 大本山総持寺(能登)七堂伽藍の大部分を焼失
瑩山禅師によって石川県に開創された大本山總持寺は、当時千三百余か寺の法系寺院を擁しておりましたが、明治31(1898)年4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受けて猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残して伽藍の大部分を焼失してしまいました。
総持寺縁起 附再建大工事の話
(本文)
(前略)
現今の御住職たる楳仙禅師様へは、特に法雲普蓋禅師と云ふ勅號をさへ賜はりまして、誠に、全國に並びない由緒や、特典をお有ちになって居られた處が、世は無常のものなれば、惜いことにも、明治三十一年四月十三日の夜、図らずも一寸した過失から、法堂より火事が起り、見る間に延焼して、門前近鄕の人々や、お山の僧侶方の御盡力も其甲斐なく、火の手は廊下に傳ひゝゝて、遂々由緒の深い勅使門始め一山の諸殿堂残らず焼けて了ひまして、今までは、海内無双と聞えたる名藍大刹も、唯、灰爐の堆くなりて居るばかり、實に見るさへ、聞くさへ涙の種で、一宗の大不幸どころか、国家の大伽藍を失ひましたのは遺憾至極のことでございます。
當時日本中の諸新聞が一様に残念なことをしたと謂って、信者不信者の区別なく慨き悲んだのは、實に人情の然らしむる所、吾も人も皆同じことであろうと思ひまする。
附録
一、再建事業開始のこと
先、斯様な次第で、能登の大本山の意外の御災難の爲に、全國幾百萬の曹洞宗の寺院檀家信徒方が悲嘆に暮れたのみならず、大本山に関係のある方々は、孰れも御心配あらせられ、何如致したら好かろうかと、頻に御相談もありましたが、何に致せ、我が曹洞宗の太祖國師の御道場でもあり、又由緒も澤山ある貴いお寺でもありますこと故、如何しても、早く再建致さなければなりませぬ場合であるから、追々其御相談もありまして、遂に明治三十一年九月四日に現董貫首大禪師様の御告示、また御本山の監院様の御告達を以て全國の、御直末と申して極御縁の深い百三十箇寺のお寺院様方の二十人の総代を撰ばせ、其上に猶十人の評定衆を、大本山の禅師様より御撰びになり、都合三十人のお寺院様方を十月二十一日より三日の間、能登の國大本山の焼跡なる御假殿にお安置申したる御兩祖の御真前にお集めになりまして、再建の件に付き、御相談に相成りましたが、其時の有様は、世間にあります所の会議とか議会とか申すものとは違ひまして、唯、モウ御縁の深い御親類方が、互に寄集って一家一門の事を相談する様に、至極親い話があったばかりで、別段議論もなく、誠に穏な有り難い御相談であったそうでございます。
(後略)
(本文終わり)
この後、大本山總持寺(能登)は明治38年(1905年)再建されたものの、これを機により大本山に相応しい場所への移転を求める声が高まる。
明治38年、大本山總持寺貫首となられた石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみならず、宗門の現代的使命の自覚に基づき横浜への移転を決定します。
明治40年3月に官許を得、成願寺境内地の寄進により建設工事が進み、明治44(1911)年11月5日、大本山總持寺は現在地、横浜の鶴見ケ丘に移転され遷祖式が行なわれました。
さらに能登の総持寺は大本山總持寺祖院として護持されることになりました。
下の写真絵葉書は移転され伽藍の整った横浜鶴見の総持寺の全景です。
5月25日 空知太(深川)~旭川 鉄道開通式 (旭川)
8月21日 上川鉄道開通式 (旭川)
10月15日 岡倉天心らの日本美術院、創立
明治32年 (西暦1899年)
1月20日 正岡子規「俳諧大要」をほとゝぎす発行所より初版発行
子規子、病を戦地に得、帰って神戸の病院におること数旬。転じて須磨に遊び、やや癒えて故山に帰り、漱石の家に寄寓す。極堂等松風会員諸氏、朝暮出入して俳を談じ、句を鬪す、時に明治二十八年秋。俳諧大要は当時に成るものにして嘗て新聞日本に連載せらる。是れ子規子進歩の経路を叙したるものにして、又、同人進歩の経路を叙したるもの、即ち俳諧の大道なり。今輯めて一巻となし、俳諧叢書第一編に収むる所以なり。
明治已亥一月
ほとゝぎす発行所にて
虚 子 識
1月19日 勝海舟、77歳で死去
2月 1日 東京、大阪間に長距離電話開通
2月 7日 中学校令・実業学校令・高等女学校令公布
3月14日 正岡子規、根津短歌会を始める
4月 4日 東京に音楽、外国語学校開校
4月 5日 風俗画報臨時増刊 明治聖世 火災消防圖會 東陽堂より発行
大本山總持寺が焼失したのみならず、各地で大火災害が発生しています。
下記の図は東京の火事の消火活動の絵ですが、地方ではもっとお粗末な消火体制であったと思われます。
5月 高祖大師御降誕七百年記念大授戒会(大本山永平寺)
5月18日 第1回万国平和会議、オランダのハーグで開催
6月13日 鎌田榮吉「歐米漫遊雑記」を博文館より発行
歐米漫遊雑記
自序
佛人某、曾て英京倫敦(ロンドン)に遊ぶこと三日にして自ら其大躰に通じたりとなし、匇々そうそう筆を走らして都門の形况を記せんとせしに、尚幾分の不審あればとて一週間の後、再び筆を執りしに不審の點は初に倍し、一ヶ月にして愈々いよいよ疑惑を生じ、一年と過ぎ二年と経ちて次第に六ケ敷(むつかし)く、三年にして其容易ならざるを悟り、遂に筆硯を投じて故国に帰りしとの話あり。
抑(そもそ)も人世の事物は素より紛擾雑複(ふんじょうざっぷく)なるに、別けて文明社会の組織は限りもなく込み入りたる事なれば、之を了解し翫味(がんみ)して、其真相を穿つが如きは僅々(きんきん)二三年の日月を以て為し能はざる事は、彼の合壁比隣(がっぺきひりん)の英佛人相互の間と雖も尚且(なおかつ)免かれざる所なるに况してや、山海萬里を隔て人情風俗言語文章の相違最も甚だしき吾輩日本人の彼の地に於ける觀察の困難なるは論を俟たずして知るべきなり。
然れども論語読みは却て論語を知らず試酒(ききざけ)の巧者は寧ろ下戸に多きの常なれば彼の事情に慣れざる吾輩の眼を以て観る時は彼等の常習にして毫(すこ)しも自ら気付かざる事にても此方の頗る珍奇とする所なきにあらず。
彼等の平気に為し平気に話す所にして此方の大いに意を留まる事なきにあらず。
是れ即ち二年間の漫遊にして尚若干の記事ある所以なり。
而して其の記事なるものは敢えて自ら彼の佛人の事を企たるにあらず。
唯道に聴き途に説くの心にて其の聞見を雑記し、帰朝前後に時事新報及び慶應義塾学報に掲載せしを、博文館主人更に之を輯収して一小冊子となし世人の通覧に便せんことを乞う。
素より片々不律の雑記整然たる条理の全篇を貫徹するものなきは是非なしと雖も、尚読者にして意を用ゆるの人ならんには記者が無心の紀行も亦た多少の益なしとなさざるなり。
明治三十二年六月
東京麻布の僑居に於て
鎌田榮吉 識
(参考-鎌田榮吉(慶應義塾) )
6月 より 明治政府は第七師団を札幌から旭川へ移動する。
陸軍第七師団が旭川に置かれことになったことが、その後の旭川の発展に大きく関与していくことになります。
やがて旭川駅より第七師団に続く道路は「師団道路」あるいは「師団通り」と呼ばれるようになり、人馬の行き来が多くなると共に、街が徐々に賑わいをみせて、旭川村、旭川町、旭川区、旭川市と変遷して行くことになります。
さらに、第七師団は司令部をはじめほとんどの師団機能を旭川に集中させ、対ロシア警備の拠点となり、旭川は「軍都」と称されるようになります。
(参考1)
明治29年5月、札幌に第七師団が設けられ、永山武四郎が初代師団長となり、屯田兵司令部条例は廃止され、第七師団司令部条例が制定されます。
明治32年4月、旭川連隊区司令部が永山村に置かれ、7月には鷹栖村字近文で第七師団の建設工事が始まります。
明治34年4月、第七師団司令部が鷹栖村字近文に移され、明治35年4月、旭川連隊区司令部を永山村より第七師団司令部内に移されます。(屯田兵関係年表)
それまで上川原野の開拓に従事していた屯田兵はその役目を終えたが、上川盆地の発展に最も貢献したのは彼ら(屯田兵)であったといえる。
~北海道「屯田兵絵物語」金巻鎮雄編より抜粋~
(参考2)
人情風俗、上川の地は明治以前即ち文政年間に於いては石狩川の沿岸なる伊香牛必布、牛別、近文、忠別川の河岸等に在りて土人の人口五百三十内外あり。
各自巣窟(そうくつ)を構えて所々に散点し一部落を成せり。
當時、鈴木龜吉なるもの土人より獣皮鹿角等を貿易して年々多大の利を貪ぼりしを初めとし、爾後、今の旭川曙遊廓の西南なる中州に居を卜し、始めて永住の計画を立てたる為、世人呼んで「龜吉島」と称するに至れり。
此如くなれば上川地方の人情風俗の一般は明治初年にありては旧土人と殆んど相択ぶ處なかりし状なりしが、明治十八年岩村司法大輔、屯田本部長永山少将以下数氏が上川郡探討の壮擧ありしより延で明治二十二年に渉り旭川より網走間の國道を開き、忠別永山伊香牛必布近文「オサラッペ」の各原野を調査し美瑛忠別両川の間に御料地を相し旭川市街地を区画せられ尚ほ續へて各地に屯田兵を移住せし結果、明治三十二年札幌より第七師団の移設せられざる以前に在て既に前途有望なる一大郡村を形勢したるものなり。
蓋し三十二年に於いて第七師団の移設と四十年釧路鉄道の全通とは上川地方に於ける一般の大勢を急変せしめたる起因にして、従来姑息的にして永住の觀念に乏しかりし地方民は農工商を問はずして向上的計画と永住の方略とを構するに至り。
~「東川村発達史」より抜粋~
8月 4日 東京初のビアホール、新橋にオープン
8月12日 富山市の大火(約5000戸焼失)
8月12日 横浜開港以来の大火(約3200戸焼失)
9月15日 函館の大火(約2000戸焼失)
9月30日
福鎌芳隆(群馬縣前橋市)が前橋積善会員に呼び掛けて「荒歳流民救恤圖」一巻の複製を発行する。(天保飢饉の窮民の樣子を描いた絵巻)
この複製「荒歳流民救恤圖序」には絵図作者「渡邊崋山」となっているが、実際には京都町奉行所組の与力平塚茂喬が画工小沢華嶽に描かせた絵図であったらしい。
(参考)菊池勇夫 PDF「荒歳流民救恤図」より
10月 7日 うづら衣評釋
全 (佐々政一著)明治書院より発行
うずら衣評釋 全
文學士 佐々政一 著
讀書法を論じて自序に代ふ (全文略)
四方山人の序
いにし安永のはじめ、すみだ川のほとり、長楽精舍にあそびて、也有翁の借物の辨を見侍りしが、あまりにも面白ければ、うつしかえり侍りき。
それより山鳥の尾張のくにの人にあふごとに、この事うち出でてとひ侍りければ、金森桂五、うさぎの裘(かわごろも)にはあらぬ鶉衣(うずらころも)といへるもの二まきをもてきてみせ給へり。
翁なくなりぬときゝて、なほ馬相如が書きのこせるふみもやあると、ゆかしかりしに、細井春幸、天野布川に託して、その門人、紀六林のうつしをける全本をおくれり。
まきかへしみ侍るに、からにしきたゝまくをしく、とみに梓のたくみに命じて、これを世上にはれぎぬとす。 (後略)
12月 1日 正岡子規「俳人蕪村」をほとゝぎす発行所より初版発行
本篇は獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん・正岡子規)が蕪村に関する多年研鑽の結果を公にして甞(かっ)て新聞日本に連載したる者。此篇出てゝ蕪村の名忽ち九鼎大呂(きゅうていたいりょ)よりも重し。今輯(あつ)めて一巻となし俳諧叢書第二篇に収む。
明治已亥十一月
ほとゝぎす発行所にて
虚 子 識
12月16日 年賀郵便特別扱い始まる
12月17日 東京市の水道工事完成
12月18日 「大日本新地圖」
明治32年12月18 日 訂正第一印刷 鍾美堂発行
12月31日 政府発行の従来の紙幣を廃し、国立銀行発行の新紙幣に替える
※ 下の画像は紙幣ではありませんが明治32年発行の五十銭銀貨です。
明治33年 (西暦1900年)
4月23日 大本山永平寺報恩授戒会を修し、以後春季報恩授戒会と称し年中行事となる
明治34年 (西暦1901年)
9月10日 大日本管轄分地図・北海道庁管内全図・訂正六版、発行
岩見沢から旭川付近までの部分拡大図を掲載(地名赤字で新たに記入)
明治35年 (西暦1902年)
1月25日 旭川で最低気温-41℃を記録する
下の絵葉書には自明治三十年、至明治三十九年・十年間北海道上川最低気温比較表(摂氏零下)がグラフで表示され、明治三十五年一月二十五日付けで零下四十二度を示しているが、この絵葉書の東川村の位置表示が間違っていることもあり、この絵葉書はあまり信用出来ない。
4月~5月 大本山永平寺・佛殿・僧堂を改築再建する
高祖六百五十回大遠忌を厳修(三週間)
5月 3日 大本山永平寺・高祖大師に「承陽」の勅額を賜う
9月19日 正岡子規、36歳にて逝去 ( 参考-子規堂 )
10月13日 「子規随筆」(墨汁一滴・病牀六尺・春色秋光)を吉川弘文館より発行
子規随筆
凡例
一、巻頭載す處の肖像は三十四年十二月蕪村忌當日に採影せしものにて、子が肖像中最後のものなり。
一、辞世の三首は子が永眠の十二時間前、即ち三十五年九月十八日午前十一時病牀に仰臥して書せし絶筆なり。
一、手翰は三十五年五月四日其友吉洲に贈りたるものにして氏(子?)が手紙としては殆ど最後のものなり。(五月二十五日、六月七日病牀六尺参觀)
一、遺言状と名(づ)くるものは仰臥漫録と題する子が病牀日記中(三十四年十月十五日)の一節なり。子が日記中遺言らしきものは只た此一節ありしのみ。子が葬儀の質素なりしこと及び子が戒名の單に子規居士とせられしなど皆な此旨に基きしなり。
一、病牀六尺百二十回の原稿は三十五年九月九日、即ち子が永眠の九日前、其軽快に乗じ自ら筆を執りて認めたる原稿にして、原稿としては最後の筆なり。
一、俳句原稿は子が仰臥漫録中に書き列ねたる草稿の一節なり。
一、墨汁一滴は三十四年一月二十日に筆を起し、三十四年七月二日に終れるものにして、子が病中の漫録なり。
一、病牀六尺は三十五年五月五日に始まり九月十七日、百二十七回に終る。是れ子が最終の随筆にして一日一章を課とし、永眠の前二日まで其稿を続けられしものなり。
一、春色秋光は未だ病牀に臥せざる前の起稿に係るものなり。
一、此他、子が病中八年間の遺稿及病気以前の草稿積んで巻を為すものは近日篇を改めて刊行すべし。
12月 5日 「子規随筆続編」を吉川弘文館より発行
子規随筆続編
緒言
一、本書収むる所の「松蘿玉液」は最初の「病牀六尺」として見るべきものなり。
「文界八つあたり」、「文界縵言」の如きは共に病前の草稿にして君が文学上の所論は当時既に時流に抜きんでたるものあるを見るべし。
洗練老熟の趣を欠くと雖も、野心の大なる覇気の旺なる其一班を見るに足る。
一、本書収むる歌論の外に、子が晩年の歌論少からずと雖も紙数限りありて悉く之を採録するを得ず、小説と共に他日之を増補すべし。
一、本書處處挿入せる所の畫は中村不折君(参考2)が明治二十八年より三十五年の間に於て「日本」紙上に揮毫せられたるものなり。
子規君が猶ほ健康なりし当時は、常に不折君と手を携へて山野を跋渉し、彼句を詠じ、此圖を案じ、其の詩趣と畫趣とは相待て精彩を放ち、畫境と詩境と相得て益を為せるに似たり。
不折君の畫は今後愈ゝ進歩して已まざるべきも、茲に其舊を録するは雙玦以て全環の美をなさんと欲するに外ならず。
縮写及配合等に於て原作を損せし所あるが如きは編者の深く不折君に謝せざるべからざる所なり。
一、彫刻は木村徳太郎氏の手に成れり。
(参考2)中村不折筆 「魯生の夢」 (絵葉書)
明治37年 (西暦1904年)
2月10日 ロシアに宣戦布告(日露戦争)
9月 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」を「明星」に発表
与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」は日露戦争に出征している弟を思い詠った詩で、有名な反戦歌です。
「君死にたまふこと勿れ」
(旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて)
與 謝 野 晶 子
ああ弟よ君を泣く 君死にたまふことなかれ
末すゑに生れし君なれば 親のなさけは勝まさりしも
親は刄やいばをにぎらせて 人を殺せと教へしや
人を殺して死ねよとて 廿四にじふしまでを育てしや
堺さかいの街のあきびとの 老舗しにせを誇るあるじにて
親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ
旅順りょじゅんの城はほろぶとも ほろびずとても何事なにごとぞ
君は知らじなあきびとの 家いへの習ひに無きことを
君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに
おほみづからは出いでませね 互かたみに人の血を流し
獣けものの道みちに死ねよとは 死ぬるを人の誉ほまれとは
おほみこころの深ければ もとより如何いかで思おぼされん
ああ弟よ戦ひに 君死にたまふことなかれ
過ぎにし秋を父君ちゝぎみに おくれたまへる母君はゝぎみは
歎きのなかにいたましく 我子わがこを召めされ家いへを守もり
安やすしと聞ける大御代おほみよも 母の白髪しらがは増さりゆく
暖簾のれんのかげに伏して泣く あえかに若き新妻にひづまを
君忘るるや思へるや 十月とつきも添はで別れたる
少女をとめごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
ああまた誰たれを頼むべき 君死にたまふことなかれ
(参考3)「肉弾」櫻井中尉 著並畫 (旅順實戦記)
予、素、一介の武辨、文事を以て世に見ゆるの選に非らず。
されど不肖皇恩を荷うて、死生の巷に出入し、矢石の間に立ちて、勇将猛卒に壮烈に感じ、又た睲風血雨の惨酷に泣けり。
今や干戈既に戢おさまりて、皇師茲に凱旋するの喜事に際し、予たるもの豈に竊ひそかに既往を追憶して、再び旅順の烈戦を夢想せざらんや。
予の禿筆を呵して此書を成すは、蓋し是が為なり。
此書旅順役の一面を描くに過ぎずと雖も、読者或は之に依って、同役の辛惨の一端を追記し、又た戦争の壮事及び其の悲劇の消息に通ずるを得ん乎。
此卑著を公にするに當りて、大山元帥閣下、並に乃木大将閣下の題辞を辱うした事と、又た負傷以来深厚なる恩眷を垂れ給へる大隈伯爵閣下の序文を賜はりたる事とは、予の感謝に禁へざる所なり。
又、字句の刪正と出版とは家兄鷗村の労に頼れり。併せ記して謝す。
明治三十九年三月 櫻井忠溫 識