原坦山と久我環渓 (原本)


 君はまだ彼女を抱いてるか僕は彼時限り(坦山和尚全集原本)

 

坦山壮年時代に環溪、奕堂、蔵雲等と同参にて諸方の知識を遍参し周遊したが、或時奕堂(或は楳仙とも云ふ)と同道して行く途中、狭き間道を通らうとした。
所が泥濘(ぬかるみ)膝を埋(うず)むといふ悪道であった。
然るところへ向ふから二八(十六)とも思はれる少女がやって来たが、此方からは大入道(おおにゅうどう)が二人り、しかも大きな複子(ふくす)を負ってるものがやって行くので、彼少女はよけるにもよけられず、顔赤らめて躊躇(ちゅうちょ)してをった。
スルと坦山、気の毒に思ひ、イキなり彼の少女をムヅと抱いて道のよい方へよけてやった。時に後方にひかへてた奕堂は元より厳格な方正家であるので、坦山のコノ所作を見て眉をひそめて居ったが、道の数町も歩んだ頃、坦山に向って、君は甚だ浪漢ぢゃないか、衲僧家は女人などあんな不浄なものには手も触れぬと云ふに先刻の様な乱暴なことをしては甚だ以て衲僧家の面目にかゝはるぢゃないか、以後はチト謹むがよかろうと云うと、坦山からからと笑って曰く、ハ・・・・・君はまだ彼の少女を抱いて居るが僕はアノ時限りぢゃはいと平然・・・・・。
(此話昔し徳翁了高の逸話に似てるが、しかし聞くがまゝ此に記した)

 

「坦山和尚全集 第参編 雑部 坦山和尚逸事 (二〇)」 三八五頁、三八六頁

  ( 釋悟庵著 光融館 明治四十二年十月二十五日 発行 )

 

この原坦山の逸話はここに載せるべきでは無いが、最近Internet上のHomepage、Blog等で、坦山の相手を「久我環溪」とするものを見かけるようになりました。
当寺の開山禅師でもありますので、禅師の名誉を毀損せしむる者に対し、原本を示すことが必要と感じ、ここに掲載することに致しました。
「徳翁了高」は「徳翁良高」の間違い。

 

原本をあたらない低俗な本は、信用するに足らない。

又、ここでは原坦山の逸話として載せたが、この著者も書いている通り、徳翁良高の逸話にも似てる話であり、この話は特定の人物を指して書くべきではない。

この話は坦山、楳仙の逸話として扱うには、相当に疑わしい。

本来は中国の古典禅籍等を探るべき逸話なのではないか?。

この逸話はその当時の有名な僧を引き合いに出し、師が勝れていること示さんと門弟が作った逸話であろうと思う。本当に原坦山が語ったとすれば愚かなことだ。

 

 

(参考)

程明道(宋の時代の学者)とその弟の伊川がある夜、招かれて盛大な宴会に出た。
兄明道は酔うほどに妓の盃を受け、酔い戯れ、そして歌った。
しかし弟はそんな兄の態度を見て、面白く無く、盃さえも受けなかった。
翌日、弟伊川は「兄さん、昨夜の醜態は何ですか、嬌声淫靡の限りを尽く家名を傷つけたあの態度は許せません」と兄明道を問い詰めた。
すると兄明道は「昨夜は女を侍らせ、盃を重ね歌も歌った。だが宴が終わって家に帰ると、もうそんなことはすべて忘れて、今の私の心中には女の影も酒の匂いもない。それなのにお前は今日になってもまだ心の中に芸妓を抱いているのか。」と云った。
弟伊川はその言葉によってはっと気が付き、その後は物にこだわらない大きい心境を開いたということである。

  



久我環渓禅師の逸話


① 「環渓禅師語録」より


一、その道心堅固ぶり


一切の行持は如法に勤め、公界の諷經等で欠けることのあった時は、室内において勤めあげた。
又、毎日理趣分(りしゅぶん)を真読し、他出の時は、その行く先で理趣分を真読した。
夏中、楞厳会(りょうごんえ)を欠けることがあれば、独り室内にあって、これを行い、不快で臥床にある時でさえ欠くことはなかった。

 


二、その陰徳受用ぶり


自分を豊饒(ほうじょう)にしないで倹約を旨とし、平素は室内に堅炭を焼かず、僅かに薪火(まきび)を用いただけであった。
灯火も来客等を除いては用いなかった。
水も又、宗祖杓底の残りを念頭に掛けて、空しく費さず、その他の用品も乱りに費やさなかった。
毎日、二食のみで、藥石には米湯を喫したのみ。
もし米湯中に一粒の米があると、これも喫せず、直ちに庫院に返納させた。
二時の粥飯は大衆と共に同床して行鉢した。
その時でさえ、大衆食用の外に別菜を好まなかった。
衣服も飾らざず、夏冬は布衣、綿衣を着、大法要の時でさえも金襴の袈裟を用いず、綿等の品を着用した。
夜間の臥具も一切使わなかった。
常に不臥であったから、僅かに背肩に衲被を覆ったのみであった。


三、接衆


その接衆は宗規より一段と厳しく、一年間のうち七、八割は不出戸接心であった。
もし香司が時間に遅れるようなものなら、呵噴して「線香一寸遅く起きる時は百人の衆僧であるならば、百寸の修行が後退する。五十寸遅くすれば五十寸の損失である。この罪は許せない」と。
そして、香司役にその朝の喫粥を許さなかった。
その上、禅師自身も謹慎して喫粥しなかった。
二人共、ただ空展鉢のみであった。
大衆もこの道義に感じて減粥した。
次に毎朝、祖師諷經中と、毎夜坐禅儀中に警策を受けた者はその諷經の了るまで立たせ、臘八接心中、七日目の夜は日暮れから警策を受けた者は鶏が鳴くまで立たせた。
その他、毎日坐禅、或いは諷經中に三度以上の警策を受けた者はその坐禅諷經の了るまで立たせた。
もしも当番が警策を緩やかにした為、大衆で眠る者が多い時、禅師は怒鳴し、その警策を奪って罰策した。
ある時、豪徳寺において百二十人の随徒を座下に連ねて接心の時、一回の接得に八本の警策を打ち折って曰く「この百二十人の中で夜の十二時まで坐る者は誰もいない。豪徳寺と云う牡丹餅も、興聖寺と云う牡丹餅も、この警策から出てきたのだ。諸人もこの禅風を振るうべし。まだまだ大きな牡丹餅が出来るぞ。」と。
とにかく接得の厳しさは当時、全国知識中第一の風評であった。

 


四、蔭凉寺住職中のこと


毎年春秋接衆の為に堺港(蔭凉寺より三里余り)へ出張して、七、八十名の随徒を養育修行させた。
初めのうちは淨土宗寺院の軒端を借用して止宿、のちには堺の天皇陵に孤存の紅屋の隠宅を借り受けた。
この宅は何年も人が住まず、屋根建具も破壊、敷畳床板もなく、竹草が繁っていた。
そこへ各自持参の合羽を敷き居住す、禅師も衆と同様に住み、法益垂誡を行った。昼は行乞し、二食に限り、不臥にして一睡のみであった。
禅師が豪徳寺へ入った時は一時これが閉却されたが、また興聖寺の住職になって、これを再興し春秋八、九十人の随徒を率いて出張、如法厳密に修行した。
この修行は興聖寺住職まで一貫して続いたが、永平寺に住職してからは永平の山法あり、又、宗規も改革、世法も変更されたので、自らの風を用いることが出来なかった。
しかしながら禅師の道心は始終貫徹していた。
尚、以前、蔭凉寺よりの出張の時、土川茂平氏から諸般不足の分だけ供養援助されていたが、今回からは大衆供養、伽藍の修繕等一切の費用が同氏より寄付された。

 


( 参 考 )

 
曹洞宗 天皇山 紅谷禪庵 (大阪府堺市堺区中三国ヶ丘町2丁1-37)
現在このお寺の前には堺市で立てた案内板(日本語・英語)があります。

 

 紅谷庵(こうこくあん)KOKOKUAN (BENIYAAN) TEMPLE

 

天王山(天皇山の間違い)紅谷庵(通称べにやあん)は、大永年間(1521~1527)堺大小路在住の豪商紅屋喜平が、この地に草庵を建てたのが始まりです。
池田から乱を避けて堺に来た連歌師牡丹花接肖柏をこの草庵に住まわせました。
その後荒廃しましたが浄土僧是得が居住、諸宗の徒も来住。
元和(1615~1623)以後は堺の金屋伊右衛門の所有となり堂宇も朽ち荒れていましたのを、安政元年(1854)泉北郡信太村蔭涼寺の住職環渓密雲が日々多数の僧を連れ、堺付近を托鉢の際、当庵の荒廃を見てこれを惜しみ、自ら譲受け大修理をし、僧侶養成の法を講じて遂に五十余員の僧侶を安住させました。
しかし、環渓が武蔵世田ヶ谷豪徳寺に転住後、遺風を継ぐ者がなく、再び廃庵となるところ、これを知った環渓が山城宇治の興聖寺に昇住する時、櫛屋町の土川茂平らに援助を乞い大修理を行い、明治元年(1868)本堂・庫裏を建て曹洞宗の寺としました。
 堺 市

 ( この横には英語で書かれた案内文があります。)

 


五、紅谷庵起立


この紅谷庵起立については堺港豪商米屋茂平(姓は土川、職業は酒屋)が禅師の毎日随徒七、八十名を連れ行乞、綿密な修行ぶりをみて感激して、合衆を招請して供養したことが始まりであった。
その時主人、禅師に問うて曰く「我が家の井戸に古来より塩味がある。故にこれを用いて造酒することが出来ない。毎日、池田、伊丹より水を汲み、舟で運び造酒していた。これを何とか御法力で井戸の塩味をなくしてしまいたい。」
禅師、答えて「出来ないことはない。昔、天竺で羅漢を供養して、高原に水を得たこともあるから、貴下の信心より、この法を修行すれば利益を得るだろう。」
そこで主人は応供会を執行した所、自然に塩味が止まり清水となった。
それ以後、自家の井戸を用いて造酒する度に風味が出てきた。
このお礼が紅谷庵を荷担して法地となし、又、後に常恒会資格を取った。
これ偏に禅師の道徳によるものである。
紅谷庵が一寺の資格をもってから、来客が増えた。
又、病僧も出ることを予想して、後任の眉柏、監司石梁等、同心協力して蒲團諸道具を整置しようとした。
堺港北沢家がこの蒲團四十枚諸道具等を寄付しようと石梁へ申し出た。
早速、禅師にこのことを上申すると、禅師は思いの外、憤然として怒って「この老僧は千万年の後に至るまで、この草庵開創以来、今日まで行じ続けてきた風規を相続しようと思いめぐらしてきたのに、私の弟子より堕落を考え暖々と臥し、優々と暮らすことを計るとは残念である。」と。
石梁はその由を北沢氏に告げた所、氏は前よりも一層、禅師の信奉者となった。

 


六、豪徳寺住職中のこと


豪徳寺晋山開堂小参の時、罷参以下三百名が商量し、樫木の警策三十本を打ち折った。
一僧、商量中に曰く「和尚の棒頭軽きこと塵の如し」。
禅師曰く「汝道え、何れが是れ棒頭軽き処」。
僧、擬議す。
禅師、この僧を打つこと二十棒、その僧忍ぶに耐えず走り去る。
禅師、逐って回廊まで追いかけた。
又、随徒、黙参と云う者が一時転錫して、原坦山に随侍、心識論を学んだ。
ある日、黙参、禅師を訪ね、侍者の来禅と心識論について激論を交わし、傍若無人であった。
禅師は翌朝巡堂の次いで、黙参が知客寮に臥していたのを罰策して半死半生ならしめた。
又、先師回天和尚年忌の為、うどんを大衆に供養し、報恩上堂でうどんの釣語があった。
仏参という者が商量中に「美食飽人の喫に当たらず」と、問うた。
禅師曰く「作麼生か道え、汝分上」。
仏参の対答、禅師の意に喫わなかったので、禅師は連打し、彼が肯わず退くのを見て、更に須弥壇より飛躍して、更に連打した。
尚、上堂了って、仏参を方丈に呼び、「汝、若し道い得ずんば、うどんを喫することを許さず」と。
種々穿議して、一時間を費やした。

 


七、礼儀作法


礼儀については厳粛に行ない、新到の雲衲が相見の儀式を知らなかった時、誰れ彼れの別なしに怒鳴りつけ、法の為には遠慮なく呵噴して、礼儀を正しくさせる風があった。
丹波へ助化の時、ある豪農で小休止した。
一千石以上の家であった。
主人は対座して挨拶する気持ちで出てきた所、禅師は大坐褥に悠然として坐り、手に珠数、中啓を持ち、坐前に香台を出させ、主人の進んで来るのを見て、合掌して、「それ三拝」と催促した。
しかし、主人はこれに感じないで、停立した。
その時、五、六人の組合寺院が列坐していたが、豪農の主威に恐れて、礼拝の指揮を渋っているのを見た禅師は「田舎寺の和尚達は知識に相見させる儀式も知らない」と小言の上、遂に主人を三拝させた。
又、丹波助化の頃、一人の尊宿が入浴した時、ゆかたを着て禅師の寮前を通りかかったので、禅師は瞠眼して、田舎の和尚は知識に挨拶する作法を知らないと小言をいわれた。

 


八、本山西堂のとき


ある月の祝祷諷経で百七十名の大衆上殿、大禅師も出席していたが役寮が一人も出ず。
ここで師は暫時、祝祷諷経を見合わせて、役寮全員を呼び出してから、諷経を始めた。
又、役寮共、無道心で奢りにふけった弊風を改革しようとして大清規を法益、とこが役寮ども聴講しないので、典座寮におもむき典座を呼び出し、典座教訓を講義した。

 


九、七宗管長のころ


増上寺本堂に安置の本尊阿弥陀仏、その他の仏像法器を取り除け、そのあとに四柱の神祗を勧請し、その遷座祭の時、仏道管長へ神服(烏帽子したたれ)を着て祝詞をあげよと教部省より命があった。
この達書は祭奠前日、神官の田中某が通告してきた。
そこで師は西本願寺住職七宗副管長に相談したところ、副管長は神前に祝詞をあげることは出来ないと言うので、師はそれでは拙僧が勤めると云って、教部省へ行き、長官に会い、明日の祝詞は僧侶の資格であげるか、神官の資格であげるのか。
長官が云うのに、神前に御馳走をあげるのなら神服でよい。
師云く、それでは一寸喩(たとえ)をかりて質問します。ここに西洋人が天皇陛下へ御馳走を献ずる時、洋服を和服に着替えて献上しなかったならば、陛下は召し上がらないと云うのか。
長官云く、それは洋服そのままで献じても、お召しになろう。
師云く、それならば神祭に法衣を着て、祝詞をあげてもいいのではないか。
長官云く、わかった、法衣を着て、あげて下さい。
翌日、師は法衣を着て、意気揚々と一千余人の各宗僧侶を率いて、高声に祝詞をあげた。
又、神仏合併大教院設置の時、配役について僧侶側と神官側で争いがあった。
それは神殿の守り役六人のうち、三人は僧侶で出す(神仏等分)と云うことで、神官側より、これだけは六人共、神官にしてくれと要望があった。
それは僧侶が神殿に在って、神事となすは不格好であると。
師云く、それは御前方が未だ見慣れぬから不格好と見えるのである。われら僧侶は仏前も神前も不格好とは見えない。
神官云く、僧侶で法服を着て、お供えの魚類を扱うことは出来ないだろう。
師云く、なんの、なんの、僧侶は平生、人の死んだのを袈裟、衣を付けて取り扱っているから、死んだ魚類を取り扱うのはおやすい御用だ、格好良く取り扱って見せようと神官側を屈服させた。

 

   (大東京)芝公園内増上寺山門
   (大東京)芝公園内増上寺山門


② 「近古禪林叢談」より


 

◎ 環溪 天資卓犖(てんしたくらく)にして、幼時より、郡童と同じからず。ある年、清涼寺堅光の徒梵雅たまたま、その父歌川微精を名立町に省し、環溪の群に異なるものあるを見て、懇ろに其父に請い、相携えて清凉に帰り、堅光を禮して薙染せしめたりき。時に環溪の年甫めて十二なりきという。

 


 

◎ 環溪、興聖寺回天の爐鞴太た盛んなるを聞き、直ちに往きて之に参す。回天その器なるを知り、怒罵瞋拳(とばしんけん)、つねに悪辣の手段を以て之に接す。環溪、少しも屈することなく、兀々(ごつごつ)參究し寝食ともに廃す。この間また妙心寺蘇山に謁して、臨濟の佛法を叩きぬ。かくのごときもの十餘年、遂に回天の法を得て、興聖の席を匡(ただ)し、つねに百餘の雲衲を接し、法席の盛んなる、一時に冠たり。

 


 

◎ 明治四年、永平臥雲の遷化するや、環溪その遺囑を受けて、永平に晋山す。当時、永平の頽廃(たいはい)尤も甚(はなはだ)し。環溪、拮据鞅掌、未だ曾て寧居逸體せず、遂に能く之を興しぬ。永平の今日あるは、實に環溪の功なり。

 


 

◎ 朝廷、教部省を置くや、環溪、奕堂と共に東京に上り、大教正に補せられ、永平寺管長たり。この時に當て、排佛毀釋(廃仏稀釈)の説、盛んにして、佛法の命脈あたかも懸絲のごとし。環溪、大いに之を慨し、奕堂および相國寺獨園、増上寺行誡らと共に、官衙(かんぎょ)および各宗の間に斡旋して、佛法を挙揚し、排佛の説、漸(ようや)く息むことを得たりき。

 


 

◎ 教部省、かって神佛二宗を合して大教院を設け、神官、僧侶おのおの一人を擇て、輪番を以て二教に関する事を行わしむ。たまたま環溪の輪番管長たるや、神官某ひそかに環溪を困らしめんと欲し、漸く一策を按じ、相語って曰く、神社の祭典を行う時に當(あたり)て僧侶が法衣を著し、珠数を爪まくり、我らと共に死したる鳥魚を捧(ささげ)るは不可なり。かかる時には、僧侶にもまた烏帽子を被(かぶら)せ、直埀(じきすい)を著せしむ。神官ら手を拍って妙とし、一神官をして、之を環溪傳う。環溪つゆ驚かずして曰く、いとおもしろし。そも、僧侶は死人にさえも、手を触るるものなれば、魚鳥の死したるを捧るも、何の不可かあらん。また、烏帽子を被ぶるべし。直埀も著るべし。さあれば子(し)らが寺に来たりたる時は、髪をそりおろさしめて、法衣を掛けしめんのみと。神官ら、大に仰損(ぎょうそん)し、またこの事を言わず。

 



◎ 明治十三年、朝廷、特に勅して、永平高祖に承陽大師の諡號を賜う。一宗相謀りて、諡號會を青松寺に榮辨し、勅使岩倉具視をはじめ、朝野の貴紳、各宗の老宿、諸國の信徒多く之に會し、その幾千人なるを知らず。喧囂(けんきょう)尤も甚だし。環溪、法堂に上るや、鶱(けん)に一喝を下す。その聲、宛かも百雷の一時に落ちたるがごとく、喧囂頓に静まりぬ。環溪、此において、壇に上がって式を修めき。


 岩倉具視公・明治英名百首より鮮齋永濯画
 岩倉具視公・明治英名百首より鮮齋永濯画

 

◎ 環溪、一日、久我侯を訪う。時たまたま座に将校数人ありて、宴正に酣(たけなわ)なり。将校、大杯を捧げて環溪に進む。環溪、一口に呑下(どんげ)して、之に酬ゆ。かくの如くすること三四回、将校ら、みな酔倒(すいとう)して、之を謝す。環溪、忽ち大聲して曰く、百萬の大敵をも、一口に呑却(どんきゃく)する底の漢にあらざれば、英雄といいがたし。子(し)ら、かばかりの酒に倒るるに至りては、平生の修する所知るべきのみと、哄笑(こうしょう)一番、傍に人なきが如し。

 


 

◎ 彦根藩臣遠城謙道、深く井伊直弼の死を悼み、遂に藩籍を脱し、豪徳寺に投じて僧となり、直弼の墓畔に慮して、香を拈じ、花を供えじ、恰かも、生きる人に仕うるが如し。
環溪、大いにその志を嘉みし、一偈を打して、之に与う。曰く「非僧非俗又非儒。黒色白鬚窮禿奴。為示生涯莫好事。時時提帚掃浮圖。」

 


 

◎ 明治の初、官、幕府と由緒ある大刹を廃せんとするの議あり。黄檗山萬福寺もまた幕府の建立する所なるを以て、まさに廃されんとす。時に黄檗山その主を缺(か)き、宗制擧(あがら)ず。柏樹卽ち二三の同志と議して、東京に上がる。環溪乃ち為めに教部及び各宗の間に奔走す。更に柏樹をして、寳球を東上せしめ、衣資を割きて之に贈る。寳球、大いに感泣し、日夜奔走し、遂に黄檗山を全うすることを得たり。後に寳球の歿するや、環溪、その遺骸を舁いで、之を聖坂の功運寺に窆(ほおむ)り、拈香供養す。聞く者、環溪が法の為めに自他を忘るるを感ぜざるはなし。

 

  宇治 黄檗山萬福寺 山門
  宇治 黄檗山萬福寺 山門

 

◎ 環溪、禪燕の餘、俳句を作る。一二を録す。曰く

 

「獅子吼る音や谷間の雪解水」

「六十の春や行脚の旅仕たく」

「達磨忌や玄界灘に蘆一つ」

「貸切の舟に世帯や雪の夜」。

「箔ぬりの佛も人の案山子かな」

 


 

◎ 環溪、軀幹肥大にして、梵容凡ならず。眼光爛々として、岩下の電の如し。平生怒罵瞋拳をもて、人に接す。然れども、その世を益し時に補ある事に至りては、自他を忘れて、労を厭わず。此を以て、大官鉅公に至るまで、争うて瞻禮し、その錫を飛ばす所、市を成したりきという。

 



③ 秦 慧玉著 「随想百話 渡水看花」 第八十六話より抜粋


母の命日

 

(前述略)
禅師は平生、近侍に、わしは何日に死んでも命日は四月六日(4月5日?)とせよといわれていたというが、今までその理由はわからなかった。
細谷家で過去帳を拝見すると、禅師の生母は文政六年四月六日に亡くなっている。
禅師はそれで四月六日を自分の命日とされたのかと気がついた。
なお近くにある同家の菩提寺たる名立寺に行って、そこの古い過去帳を見せてもらった。生母の戒名・古岸貞葉信女の横に「明治九年十月二十二日環溪禅師が祠堂金をあげて信女を大姉に改む」と書き入れてあるのを見つけた。
何という深い孝心であろう。
禅師は六歳で出家、十一歳でこの母は亡くなったが、修行中で、その葬式にも行かせてもらえなかったという(5歳出家、7歳実母逝去。)
禅師は自分の命日を母の命日と同じにしておけば、未来永劫に母は自分と一緒に祭られるものと思われたに違いない。
なお、その寺には「孝を師とすべし」という立派な禅師の筆跡もあった。
(後述略)