絶學天真禅師環溪密雲大和尚・経歴概要

大本山永平寺六十一世勅特賜絶學天真禅師環溪密雲大和尚


 

文化14年(1817年)2月8日 越後國頸城郡高田村の高田藩士族、細谷勘四郎と勧子の次男として生まれ、幼名を「與吉(与吉)」という。

 

文政4年(1821年) 5歳 出家。 庄屋・歌川家の養子となり、楞伽和尚に就いて清凉寺に行き、のち月峰庵に止住する。

 

文政5年(1822年)5月18日 6歳 実父、細谷勘四郎亡くなる。

 

文政6年(1823年)4月6日 7歳 実母、細谷勧子亡くなる。

 

文政6年(1823年)7月2日 7歳 楞伽和尚が遷化されたことにより、清凉寺に移り、寂室堅光(じゃくしつけんこう)に師事する。


 (参考) 文政壬午冬十月・寂室堅光
 (参考) 文政壬午冬十月・寂室堅光


文政11年(1828年)2月15日 12歳 彦根、天寧寺に転住した寂室堅光につき剃髮、得度する。僧名を「象峰」と命名される。

 

 尚、「寂室堅光」については項目を改めて記載してあります。

 

 又、寂室堅光の「菩薩戒童蒙談抄」も項目を改め記載してあります。


上をクリックすると「寂室堅光禅師略伝」に入ります
上をクリックすると「寂室堅光禅師略伝」に入ります
クリックすると「菩薩戒童蒙談抄」に入ります
クリックすると「菩薩戒童蒙談抄」に入ります
 (参考) 寂室堅光賛・布袋画
 (参考) 寂室堅光賛・布袋画

 

天保12年(1841年) 25歳 城州(宇治)興聖寺二十八世回天慧杲(かいてんえこう)の冬制中首座にて立身する。この時より「環溪密雲」と改名する。

 

天保14年(1843年) 27歳 回天慧杲の室に入り法を嗣ぐ。

 

【回天慧杲 かいてんえこう】

山城興聖寺の第二十八世であり、道号は回天、法諱は慧杲。

能登に生まれた。幼くして加賀金沢野田寺町の融山院に投じて得度し、京燦等とともに山城宇治興聖寺の関狼磨甎に師事し、遂にその法燈を継承して、天保十三年(1843)3月13日、興聖寺二十七世大英孝顕和尚退董後、摂津陽松庵より入寺し、興聖寺二十八世となった。嘉永六年(1853)八月三日示寂した。世壽六十歳。輪下に環溪、羅溪、白道等十人の龍象を鉗鎚せる。(「曹洞宗人名辞典」「洞門政要」参考) 

 

回天慧杲
回天慧杲

 

嘉永3年(1850年)3月15日 34歳 河内國茨田郡岸和田村、長福寺に首先住職(注1)となる。  

 

嘉永4年(1851年) 35歳 長福寺において初会結制を修行する。

 

安政元年(1854年)2月 38歳 和泉國泉北郡信太村、蔭凉寺に転住する。

 

(尚、この年静岡の清源院の初会結制で西堂、即ち助化師となり、その後、各寺より助化師の拝請を受け、毎年のように助化師を重ねてゆく。) 

 

 蔭凉小杜多環渓
 蔭凉小杜多環渓

 

元治元年(1864年)6月 48歳 武蔵國荏原郡世田谷村、豪徳寺に転住する。

 

慶応3年(1867年)7月 51歳 (山城國)城州(宇治)興聖寺三十世に転住する。

 

  宇治 興聖寺 石門
  宇治 興聖寺 石門
  宇治 興聖寺 楼門
  宇治 興聖寺 楼門

 

(慶応3年(1867年)10月13日  将軍徳川慶喜、大政奉還発表)(参考1)

 

(慶応4年(1868年)9月8日 1月1日に遡って明治元年とする改元の詔書が出される。)

 

明治2年(1869年)秋 53歳 大本山永平寺の西堂となる。

 

明治4年(1871年)4月 55歳
戸籍法公布により、僧侶も苗字を設けることとなり、環渓禅師は「細谷」の姓を名乗る。 

 

明治4年(1871年)10月9日 55歳 大本山永平寺六十世臥雲童龍禅師退董のあと、太政官より大本山永平寺六十一世貫首 (注2)を任命される。

 

それまでの関三刹からの昇住の慣例を打破した永平寺住職任命であった。

同年、10月22日 晋山の大礼を挙げる。

 

明治4年(1871年)12月26日 55歳
「可禅師号紫衣参内] の綸旨を受ける。

 

明治5年(1872年)3月24日 56歳 

永平寺、総持寺、協和盟約成る。

この春、永平寺除地の儀、境内を除いて上地(官地)となる。

(同年、4月25日 政府「僧侶肉食妻帶蓄髪等可為勝手」の布告を出す。) 

同年、6月13日 教部省より大教正に補任される。

この夏、東京に永平寺出張所を設置する。

秋、随徒六十名とともに武蔵、伊豆を巡教する。

 

明治5年(1872年)9月2日 56歳
教部省より七宗管長、及び禅三派(曹洞・臨済・黄檗)の管長に任ぜられる。

 

同年、10月30日 両本山、碩徳会議を開き、衣体、結制、罷参斎、打給、戒会等の諸件を決定し、これを全国録司に通達する。

 

明治6年(1873)4月 57歳 教部省より七宗管長および禅宗三派の管長に命ぜられる。


又、「三条弁解」を著す。


 三條辨解・表紙
 三條辨解・表紙
 三條辨解・表紙裏・内容
 三條辨解・表紙裏・内容


同年、8月 宮城県下へ巡教する。

 

明治6年(1873年)9月 西有穆山、北海道を巡錫し、次いで札幌中央寺を開く。

 

明治7年(1874年)3月1日 58歳

曹洞宗名称呼を期として、両本山東京主張所を曹洞宗務局と改称する。

同年、3月2日 全国録所の称を廃して、曹洞宗務支局と称す。

同年、5月 西三條季知公とともに長崎を巡教する。

 

明治8年(1875年)4月1日 59歳 曹洞宗管長に就任する。又、永平寺に金一千円を寄付し、法堂の瓦葺を行う。

 

明治8年(1875年)6月18日 59歳 久我建通の猶子(ゆうし)(注3)となり久我家に入籍し、細谷の姓を改め、久我の姓を称する。

 


明治8年(1875年)7月24日 59歳
「正法眼蔵弁注」出版願を教部大輔宍戸璣宛てに提出し、許可される。

 

明治8年(1875年)8月23日 59歳

「孝論」を出版し、その序を記す。

 

明治9年(1876年) 60歳」 4月、東京を出発し、5月若州、7月越前、9月加賀、10月越中、11月越後、12月信州の各地を巡教する。

同年、10月26日 「曹洞宗教會條例」を出す。

同年、冬 絶學天真禅師号を勅特賜される。

 

明治10年(1877)61歳 3月伊勢、伊賀、4月志摩を巡教し、5月帰京する。

 

明治11年(1879)62歳 3月茨城、4月埼玉、5月山形に巡教し、6月帰京し、7月美濃に巡教する。

同年、9月22日より、二代孤雲懐弉禅師の六百回大遠忌、および大授戒会を厳修する。

同年、10月 岩倉具視、永平寺に参詣する。

同年、11月 大和、伊賀、伊勢を巡教する。

 

明治12年(1879年) 63歳 伊勢の四日市で越年。続いて尾張を巡教する。4月奥羽を巡教する。

同年、5月3日、陸前を巡教中、大本山永平寺の承陽殿、孤雲閣焼失の電報を受け、6月、急遽大本山永平寺に帰山する。

同年、7月1日 承陽殿、孤雲閣の再営を全国末派寺院に論達する。

同年、11月5日 総持寺独住一世旃崖奕堂の本葬乗炬師を務める。

 

同年、11月22日 宮中に参内し、道元禅師(佛性傳東國師)への「承陽大師」諡号(しごう)を拝受する。 (注4)

 

 

明治13年(1880)64歳 2月愛知県を巡教し、3、4、5、6月、備前、7、8、9、10月、肥後、11月薩摩、豊前、豊後を巡教する。

尚、福昌寺最興資金として七百余円を出資し、永平寺開祖、三代尊の石塔建立資金として三百余円、紅谷庵へ隣地屋敷購入資金として三百余円を寄付する。

同年、12月 備中、備後および長州を巡教し、下関、功山寺で越年する。

 

明治14年(1881年)1月 65歳 1月、帰京。2月より8月まで信濃、奥羽を巡教する。 

同年、9月28日 大本山永平寺承陽殿・孤雲閣等を再建し遷座式(せんざしき)及び諡号慶賛会を挙行。その折、孤雲閣に「追慕」を揮毫し額を掲げる。

同年、11月、美濃、若狭を巡教する。

 

明治15年(1882年)3月 66歳 大本山永平寺の監院寮が再建され「唯務」の扁額を掲げる。

同年 山梨県を巡教した後、北海道に向けて巡教する。5月、青森。6月、函館。7月、江差。8月、小樽。9月、後志高島。

 

明治15年(1882年)10月10日 66歳

北海道より帰京し、曹洞宗大學林開筵式に臨席する。

この後、再び北海道に渡り、札幌地方を巡教する。

 

この折、札幌中央寺の請に応じ開山となる。
「壬午(みずのえうま)秋、北海道巡教の途次(とじ)中央寺に滞錫(たいしゃく)す。寺は禪外萬宗和尚、草創に係わる。乃って請に応じ開祖と為る。」

 「宛然瑩祖於諸嶽 徒為中央開闢翁 滞錫一句超曠劫 北方従是振宗風」

 

明治15年(1882年)10月10日 66歳 永平寺を退休せんとし、副住職の儀を出す。 

しかし、この建議は退けられる。

同年、11月七戸、12月石巻を巡教する。 

 

明治16年(1883年)3月29日 67歳 久我建通、通久に対し、永平寺住職は代々久我姓に附籍し、姓を改めることを請す。

同年、4月 尾張を巡教する。

同年、8月 永平寺住職退隠の願いを出す。

同年、9月2日 金六十円を納入し、十霊を入祖堂さす。

同年、10月5日 遷化後、曹洞宗務局へ寄付する件を嘱託する。

同年、10月10日 興聖寺へ道元禅師茶湯料として、金一千円を寄付する。

同年、10月24日 永平寺の退隠の免許を受け、11月24日、永平寺退院上堂を修す。

同年12月、東京、昌林寺に隠棲する。

 

明治17年(1884年)10月、豪徳寺の授戒会で最後の戒師を務める。

同年、12月7日  東京、昌林寺にて遷化する。世壽68歳。 

12月10日  密葬し、遺骨を永平寺へ護送する。

 

遺偈 「七轉八倒 六十八年 末期一句 双脚柱天」

 

 (生前、命日をいつ死んでも4月5日とするよう遺囑される。)(注5) 

 

明治18年(1885年)5月5日 

永平寺本葬。
 乗炬師 青蔭雪鴻禅師(永平寺六十二世・円応道鑑禅師)
 奠茶師 笠松戒鱗(宝慶寺)

 奠湯師 福山堅高(大慈寺)
 起龕師 堀 麟童(大乗寺)
 鎖龕師 大沢大乗(龍渓院)
 掛真師 満岡慈舟(龍門寺)
 移龕師 大安麟乗(長英寺)
 入龕師 辻 顕高(孝顕寺)


 

明治16年(1883年)12月、大本山永平寺六十一世絶學天真禅師は永平寺を退董され、東京駒込西原の昌林寺に隠棲されたので、牧玄道(東川寺開創三世)はその隠殿時局として環溪禅師のお世話をしていた。 

明治17年12月7日、午前2時、牧玄道隠殿時局は環溪禅師の危篤、さらに遷化の報を、本山福井宿所に打電することになった。

 


 

環溪禅師は俳句をよく読まれ、「雪主」と号された。  

===================================================

(注1) 首先住職とは僧侶が第一番目に○○寺の住職をすることを云う。

 

(注2) 現在は大本山永平寺貫首と書くが、この頃は貫主とも書いた。

 

(注3) 猶子(ゆうし)とは、おもに明治以前において、他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶこと。

 

(注4) この諡號「承陽大師」の太政大臣「三條實美 さんじょうさねとみ」は下記の人のことです。

 三條實美公・明治英名百首より鮮齋永濯画
 三條實美公・明治英名百首より鮮齋永濯画

 

(注5) 環溪禅師の遺囑命日がその書物により、4月5日とされたり、4月6日とされているのは何故か?残念です。

秦慧玉禅師著の「渡水看花」第八十六話の「母の命日」の話では『環溪禅師が生前「自分がいつ死んでも命日は4月6日にせよ」と云われていたのは環溪禅師の生母と同じ日であれば母も一緒に供養されると思われたに違いない。』と直江津の細谷家に行かれた秦慧玉禅師は主張されています。 

 

===================================================

伊藤博文との逸話

     造幣局発行・伊藤博文の銀メダル
     造幣局発行・伊藤博文の銀メダル

 

環溪禅師の逸話は色々とあります。

その一つ「伊藤博文」との逸話

 

釋道圓著 「禅林逸話集」より

「聞いて百文、見て一文」

環溪和尚は越後の人で、久我建通侯の養子となり、久我を名乗っていたが、頗る剛腹なる禪僧であった。
ある時、陸軍知名の将校連が五六人、久我家に集まって酒を飲んで居るところへ、偶然和尚がやって来たので、「一つ和尚を盛り潰してやろう」という事になり、一同が矢つぎ早に大杯を差し向けたところ、和尚は平気で差しつめ引きつめ、綺麗に飲んでは返盃し、いつまでたっても自若(じじゃく)として居るので、却って将校連の方がお先に満酔(まんすい)し、遂に一同が和尚の盃を受け得ないようになってしまった。
かくと見たる和尚は大いに笑い、『面前に百萬の強敵を控うるとも、之れを呑却(どんきゃく)する底の者にあらずんば英雄というべからず。然るに貴公達はこれしきの酒に酔いしれてしまうとは、何たる醜態であるか。もう少し修養さっしゃい』とばかり、五六人を一緒に吹き飛ばしてしまったのであった。
又、ある時、時の内閣大臣諸公列座の席において、和尚は伊藤博文を引っとらえ、『おお、貴公が伊藤博文か、若いのに随分悧巧(りこう)だそうじゃのう。聞いて百文、見て一文か、ハッハッハ・・・・』と、小僧扱いにしてしまった。
その後、伊藤公が和尚の隠寮(いんりょう)を訪らい、久濶(きゅうかつ)を謝すると、師は公の素行治まらざる事を知っているので、いきなり曰く、『どうじゃな、貴公相変わらずか、ハッハッハ』
さすがの伊藤公も、この一問に逢っては言句なく、顔を赤らめて頭を掻くばかりであったそうだ。

 

 伊藤博文・明治英名百首より鮮齋永濯画
 伊藤博文・明治英名百首より鮮齋永濯画

その後、伊藤博文は永平64世森田悟由禅師とも深厚を結ぶことになる。

 

「永平悟由禅師法話集」より

「(森田悟由)禅師と伊藤公との初相見」
明治の元勲たる伊藤博文公が深く禅師の徳風に帰崇きそうしたるは普く人の知る所なるが、その初相見は明治27年の頃なりき。
時まさに日清の戦役せんえき闌たけなわしにして大元帥陛下は大讜たいとうを広島に進めたまい、伊藤公は当時内閣総理たるを以て、亦た扈従こじゅうして大本営に在り。
(森田悟由)禅師、広島に到りて天機を奉伺ほうしし、因みに参謀総長ならびに諸大臣等を慰問して、伊藤公と会かいす。
談話を交換すること約一時間に過ぎざりしも、英雄英雄を知り、好漢好漢を知り、爾後じご道交どうこう日を逐おうてますます深厚を加えたりと云う。

 

 広島 大本営跡 絵はがき
 広島 大本営跡 絵はがき

===================================================

(参考1) 大政奉還の発表(二条城内将軍出座)五姓田芳柳画伯謹書

慶応3年10月13日、徳川慶喜、在京諸藩の重役を二条城に召集して大政奉還を発表した。図は二条城内に於ける発表の有様である。 

 将軍徳川慶喜、大政奉還発表の図
 将軍徳川慶喜、大政奉還発表の図

===================================================

「環溪禅師」が「密雲禅師」と称されなかった理由 (私見)

久我環溪禅師が「環溪密雲」か「密雲環溪」か諸説がある。

一般的には雅号印は白文で上に押し、姓名印は朱文で下に押す。

上の二つの印影の左の「環溪禪師 密雲」は明らかに環溪が号で密雲は名である。

しかし右の「勅特賜絶學天眞禪師 環溪號密雲」の「環溪號密雲」は号が先にきて名が後なら「環溪密雲」だが中心に號と云う字が有る為、「環溪 密雲と號す」と読むのが普通。しかし「環溪は號、密雲」と読めなくも無い。

印の問題以外にも色々問題があり、「環溪密雲」か「密雲環溪」か未だ決着されていない。

又、禪師自身の署名は「細谷環溪」あるいは「久我環溪」である。

「細谷密雲」「久我密雲」はほとんど無いと云っても過言ではない。 

そのため、一層混乱してしまう。


ここに別の見方からの「環溪禅師」が「密雲禅師」と称されなかった理由(私見)①②を述べる。

理由(私見)①

すでに「密雲禅師」と称される禅師がいた。

(臨済に環渓禅師と云う僧もいたがあまり有名ではない。)

その人は中国明末の臨済宗天童派の禅僧「密雲円悟」である。

費隠通容の師であり隠元隆琦の師翁にあたる。

道号は密雲、法諱を円悟。俗姓は蔣氏。江蘇省常州府宜興県の人。

黄檗山萬福寺・天台山通玄寺・金粟山廣慧寺・寧波府鄞県阿育王寺・天童山景徳寺などを住持した。

その弟子の五峰如学が『密雲禅師語録』を編集した。

その「密雲禅師」との混同を避ける為、あえて「環溪禅師」と称した。

理由(私見)②

密雲不雨と云う言葉がある。

密雲不雨は、周易「小過卦」に出てくる言葉で、「黒雲が立ち込めているが、雨が降らない」という意味。

仕事が果たされる環境づくりはできたが、実際には成し遂げられず、もどかしさと不満が爆発するような状況を説明する時に主に使われる四字熟語。

兆候はあるのに、依然として事が起こらないことのたとえ。雨雲で覆われているにもかかわらず、まだ雨が降らない意。「密雲」は空いっぱいに厚い雲が重なっている様子。「不雨」は雨がまだ降ってきていない意。「密雲みつうん雨あめふらず」と訓読する。

「志賀直哉」は「暗夜行路」で『密雲不雨という言葉があるが、そういう実にいやな気持ちがしている。』と書いている。

以上のことから、あまり良い意味には使われないので「密雲禅師」と称されるのを避けた。

「密雲禪師」ではなく、「環溪禪師」と號されたのであれば、当然「環溪」が號で「密雲」が名である。

禪師の墨蹟には「吉祥山主翁」以外はほとんど「大教正 永平環溪禪師」と署名している。

しかし、公文書には「細谷環溪」あるいは「久我環溪」と署名している。 

 

以上の事から本来は「環溪密雲」であるが、名は禪師自ら好んで號の「環溪」を使用していたのが事実であろう。 

 

(参考)①

「永平元峰禪師傳略」 

このような事は「北野元峰禪師」にも当てはまる。

「禅師は自身でも常に元峰の方を署せらるゝので、世人もそれが名であるように思ふて居るが、實は元峰は道號であって、大夤(だいえん)が名であることは、法脈嗣書の上にも、又、改まって自署せられた遺物の上にも元峰大夤と明らかに記してあるのが其の確証である。」 

~「永平元峰禪師傳略」遺弟・細川道契記 ~

 

(参考)②

「洞上二世・光明蔵三昧」序

明治12年(1879年)8月に出版された「洞上二世・光明蔵三昧」(永平寺僧堂藏版)には環溪密雲禅師が序を寄せている。

そこには永平六十一世不肖密雲謹序と書かれている。

 

 「洞上二世・光明蔵三昧」環渓密雲序
 「洞上二世・光明蔵三昧」環渓密雲序

参考文献

「環溪禅師語録」 大本山永平寺、昭和58年9月24日発行

「久我環溪禅師詳傳」 郡司博道編集 宗教法人昌林寺、昭和58年9月25日発行

「明治前期曹洞宗の研究」 川口高風著 法蔵館、2002年11月2日発行

「近古禪林叢談」 森 大狂著 (株)蔵経書院 大正8年12月7日発行

「禅林逸話集」 釋 道圓著 聖山閣書店 大正15年2月18日発行 

「永平悟由禅師法話集」 代表 峯 玄光著 鴻盟社 明治43年6月25日発行

  随想百話「渡水看花」秦慧玉著 後楽出版株式会社 昭和50年6月26日発行